学位論文要旨



No 213338
著者(漢字) 津本,浩平
著者(英字) Kouhei,Tsumoto
著者(カナ) ツモト,コウヘイ
標題(和) 抗体工学による蛋白質の分子認識に関する研究
標題(洋) Studies on molecular recognition of proteins using antibody engineering
報告番号 213338
報告番号 乙13338
学位授与日 1997.04.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13338号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡辺,公綱
 東京大学 教授 西郷,和彦
 東京大学 教授 小宮山,真
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 助教授 上田,卓也
内容要旨

 抗体分子は、生体防御機構を司る免疫系において重要な役割を果たしており、疾病の治療、診断等応用面から重要な生命分子である。それゆえ、抗体分子の自在な設計を可能にすることは、医薬品産業等への波及効果からも非常に重要である。蛋白性抗原と抗体の相互作用の特徴は、その高い特異性と親和性にあり、構造生物学的に議論されてきている。しかしながら、相互作用を支配する非共有結合である4つの相互作用(水素結合、ファンデルワールス相互作用、塩橋、疎水的相互作用)のおのおのが、抗原抗体反応においてどれくらいの寄与を果たしているかについての実験的考察は、今までに皆無であり、こうした方向をもつ研究は抗体を自在に設計する上で急務の課題であった。

 本研究では構造解析がなされていて、原子レベルで詳細な議論が可能であるモデルとして、ニワトリ卵白リゾチーム(HEL)とその基質結合部位の一部を特異的に認識するモノクローナル抗体HyHEL10との相互作用をとりあげた。微生物を利用した発現系により、可変領域(Fv)を容易に調製できる系を構築し、抗原抗体反応においてどのような相互作用が重要であるかを考察するべく、抗原、抗体双方のアミノ酸残基に着目し、部位特異的変異法により変異体を調製し、相互作用を熱力学的に解析した。さらに,これらの解析で得られた知見をふまえ、分子進化学的手法を用いて、抗体分子の機能変換を目指した。

 2章では微生物を利用した、可変領域(Fv)を容易に調製できる系の構築について述べた。HyHEL10Fv領域をコードする遺伝子は化学合成により調製し、pelBシグナルペプチドの下流においた。これをT7プロモーターによる発現制御を行うベクターpGEMにクローニングし、大腸菌BL21(DE3)株を形質転換した。28℃にて培養し、終濃度1mMのIPTGで発現を誘導した。遺伝子産物は培地上清から80%飽和硫酸アンモニウムにより沈殿回収し、リゾチーム-Sepharoseを用いた親和性クロマトグラフィー並びにSephadexG-75を用いたゲル濾過により精製した。収量は培養液1Lあたり約10mgであった。得られたFv断片はリゾチームの酵素活性を化学量論的に阻害し、IgGと同様の結合活性を示した。

 3章では、Fv断片はドメインが解離しやすいゆえ、ポリペプチドリンカーで可変領域を結合させ、一本鎖化することによる、Fv断片の安定化について述べた。結合順序をVH-VLにすると大腸菌で遺伝子産物が得られないのに対し、VL-VHにすると高発現した。精製産物の結合能はFv断片に比べて低下し、それがエントロピー変化の増大に起因することを見い出した。

 4章では、抗体の認識により構造変化する抗原アミノ酸残基(主鎖の構造変化として、HELのAsp101、側鎖の構造変化として、HELのTrp62)の抗原抗体反応への寄与を考察し、これらの構造変化が、ギブスエネルギーにはほとんど寄与がないものの、エンタルピー獲得に非常に重要であることを示した。構造変化により、相互作用に対しては好ましい寄与を果たすものの、元々揺らぎやすい残基であるため、認識による構造の固定化がエントロピー損失をもたらし、ギブスエネルギーへの寄与を減少させていることを示す。

 5章では、抗原結合領域に局在するTyr残基の抗原認識における役割を考察した。重鎖に存在する4つのTyr残基(Tyr33,50,53,58)について系統的に疎水的な残基(Trp,Phe,Leu,Ala)に変換し、相互作用を解析した(表1)。Tyr残基の寄与について芳香環が重要な部位(33位、58位)、水酸基が重要な部位(33位、50位)、疎水性が重要な部位(53位)の三種類に分けることができた。さらにこれらの残基が何れも抗原認識における抗体の構造変化を誘導していることが示唆された。抗原と、van der’Waals相互作用、水素結合、疎水的相互作用の形成が可能であるTyr残基が、さまざまな抗原を認識しうる構造を抗体のCDRに与える上で重要であることが示唆された。

表1 Tyrに変異を導入したHyHEL10とニワトリリゾチーム間相互作用の30℃における熱力学的パラメーター

 6章では、HELのLys97とHyHEL10のAsp32の間に形成される塩橋について考察した。抗体残基に変異を導入し、相互作用を解析したところ、結合定数は若干の低下にとどまったが、負のエントロピー変化、エンタルピー変化は共に大きく上昇した(表2)。塩橋を形成できないことによって、脱水和しなくなることによるエントロピー変化の増大を、構造変化が大きくなっていることによる負のエントロピー変化の増大が上回っていることが結論づけられた。抗原と結合していない状態のFv断片の構造は、変異導入によっても変わらないことから、構造変化が増したことは、相互作用の結合様式の変化に起因することが推察され、このことは塩橋が、抗原認識における抗体の構造変化を抑制していることを示唆した。

 7章では、抗体分子の進化分子工学的手法による、機能変換について述べた。ヒト由来のリゾチームとニワトリ由来のそれとは三次構造がほぼ等しいにもかかわらず、HyHEL10はヒトリゾチームに対してほとんど認識能しか示さない。そこでHyHEL10にヒトリゾチーム特異性をもたせるため、VH鎖のCDRに無作為変異を導入し、ファージ表面に提示、クローンを選択したところ、H鎖CDR2に変異を導入したものについて、二つの型のクローンが選択された。一種類はPro53-Trp54-Arg56-Phe58なる配列をもつものであり、もう一種類はGly54-Gly55配列をもつものであった。これらはヒトリゾチームに対して、野生型HyHEL10よりも顕著な親和性を示した。熱力学的解析によると、これらの変異体とヒトリゾチームとの相互作用は野生型に比べて、負のエンタルピー変化が殆ど変わらないのに対し、負のエントロピー変化が減少し、結合定数の上昇になっていることが結論づけられた。

表2 HAsp32変異体HyHEL10とニワトリリゾチーム間相互作用の30℃における熱力学的パラメーター
審査要旨

 抗体分子は、生体防御機構を司る免疫系において重要な役割を果たしており、疾病の治療、診断等応用面から重要な生命分子である。それゆえ、抗体分子の自在な設計を可能にすることは、医薬品産業等への波及効果からも非常に重要である。蛋白性抗原と抗体の相互作用の特徴は、その高い特異性と親和性にあり、構造生物学的に議論されてきている。しかしながら、相互作用を支配する非共有結合である4つの相互作用(水素結合、ファンデルワールス相互作用、塩橋、疎水的相互作用)のおのおのが、抗原抗体反応においてどれくらいの寄与を果たしているかについての実験的考察は、今までに皆無であり、こうした方向をもつ研究は抗体を自在に設計する上で急務の課題であった。

 本論文は、構造解析がなされていて、原子レベルで詳細な議論が可能であるモデルとして、ニワトリ卵白リゾチーム(HEL)とその基質結合部位の一部を特異的に認識するモノクローナル抗体HyHEL10との相互作用を取り上げ、熱力学と蛋白質工学の手法を駆使して、上記の4つの相互作用を評価したものであり、7章より成る。1章はこれまでの研究状況の概観である。

 2章では微生物を利用した、可変領域(Fv)を容易に調製できる系の構築について述べている。HyHEL10Fv領域をコードする遺伝子は化学合成により調製し、pelB蛋白のシグナルペプチドの下流においた。これをT7プロモーターによる発現制御を行うベクターpGEMにクローニングし、大腸菌BL21(DE3)株を形質転換した。28℃にて培養し、終濃度1mMのIPTGで発現を誘導した。遺伝子産物は培地上清から80%飽和硫酸アンモニウムにより沈殿回収し、リゾチーム-固定化セファロースを用いた親和性クロマトグラフィー並びにセファデックスG-75を用いたゲル濾過により精製した。収量は培養液1Lあたり約10mgであった。得られたFv断片はリゾチームの酵素活性を化学量論的に阻害し、IgGと同様の結合活性を示した。

 3章では、Fv断片はドメインが解離しやすいため、ポリペプチドリンカーで両可変領域(VHとVL)をつなぎ一本鎖化することによる、Fv断片の安定化について述べている。結合順序をVH-VLにすると大腸菌で遺伝子産物が得られないのに対し、VL-VHにすると高発現した。精製産物の結合能はFv断片に比べて低下し、それがエントロピー変化の増大に起因することを見い出した。

 4章では、抗体の認識により構造変化する抗原アミノ酸残基(主鎖の構造変化として、HELのAsp101、側鎖の構造変化として、HELのTrp62)の抗原抗体反応への寄与を考察し、これらの構造変化が、ギブスエネルギーにはほとんど寄与がないものの、エンタルピー獲得に非常に重要であることを示した。

 5章では、抗原結合領域に局在する4個のTyr残基の抗原認識における役割を考察している。抗原と、ファンデアワールス相互作用、水素結合、疎水的相互作用の形成が可能であるTyr残基が、抗体の抗原結合部位(CDR)にさまざまな抗原を認識しうる構造を賦与する上で特に重要であることが示唆された。

 6章では、HELのLys97とHyHEL10のAsp32の間に形成される塩橋について考察している。抗体残基に変異を導入し相互作用を解析したところ、塩橋を形成できないことによって、脱水和しなくなることによるエントロピー変化の増大を、構造変化が大きくなっていることによる負のエントロピー変化の増大が上回っていることが結論づけられた。このことは塩橋が、抗原認識における抗体の構造変化を抑制していることを示唆する。

 7章では、抗体分子の進化分子工学的手法による、機能変換について述べた。ヒト由来のリゾチームとニワトリ由来のリゾチームでは三次構造がほぼ等しいにもかかわらず、HyHEL10はヒトリゾチームに対してほとんど認識能しか示さない。そこでHyHEL10にヒトリゾチーム特異性をもたせるため、VH鎖のCDRに無作為変異を導入し、ファージ表面に提示、クローンを選択したところ、H鎖CDR2に変異を導入したものについて、二つの型のクローンが選択された。熱力学的解析によると、これらの変異体とヒトリゾチームとの相互作用は野生型に比べて、負のエンタルピー変化が殆ど変わらないのに対し、負のエントロピー変化が減少し、結合定数の上昇になっていることが結論づけられた。

 以上要するに本研究は、熱力学と蛋白質工学的手法を駆使して抗原抗体反応の詳細な解析を行ったものであり、それを基盤として莫大な市場を持つ抗体分子の人工設計の方向性を示し、抗体分子の工学的応用面を開いた点で工学に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク