学位論文要旨



No 213368
著者(漢字) 金子,大二郎
著者(英字)
著者(カナ) カネコ,ダイジロウ
標題(和) 衛星リモートセンシングと気象台ルーチンデータを用いた広域地表面熱収支の解析に関する研究
標題(洋)
報告番号 213368
報告番号 乙13368
学位授与日 1997.05.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13368号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 虫明,功臣
 東京大学 教授 玉井,信行
 東京大学 助教授 河原,能久
 東京大学 助教授 柴崎,亮介
 東京大学 助教授 清水,英範
内容要旨

 近年の地球温暖化問題により,気候変動対策が世界的に急務とされている.この問題を検討するために用いられる大気大循環モデルのサブシステムとして,地表面の広域的な熱収支が注目されている.この地表面熱収支は水文学の分野における蒸発散と直接的な関係があり,植生域からの蒸発散に伴う潜熱フラックスのメカニズムの解明が,地球上の熱エネルギーの流れを算定するために重要となっている.さらに蒸散は,気孔の開閉によって植生の光合成(CO2固定)に係ることから,地球上の炭素循環の視点からも,地表面熱収支の広域的研究が注目されて来ている.

 この地表面熱収支の有力な推定方法として,広域観測の特性を持つ衛星リモートセンシングのデータを用いた潜熱フラックス(蒸発散)の推定法が急速に研究されて来ている.これらの研究の多くは,衛星から測定される地表面温度を用いて顕熱フラックスを求め,次に純放射から顕熱フラックスを差し引き残差として間接的に潜熱フラックスを算定する方法の開発であった.しかし,この方法は潜熱フラックスの推定にあたり植生からの蒸散の機構を考慮しないために,他の誤差要因を含みやすい短所を持っている.

 一方,上述の残差法でなく植生量の要因と植生の気孔開度を考慮して潜熱フラックスを推定する幾つかの方法がある.しかし,それらの方法は次の二点が考慮されていない.第1に,リモートセンシングデータ自身が蒸発散量の指標となる特性を利用していない.従って,それらの方法はリモートセンシングデータから潜熱フラックスを直接に推定する方法ではない.第2に,潜熱フラックスの推定に大気安定度を考慮していないのである.本研究では,一般に公開されているリモートセンシングデータと気象台ルーチンデータを使用し,最初に大気安定度の広域的推定法を示している.次に,地表面温度降下量と植生指標の関係から蒸発散指標を定義した.この蒸発散指標をもとに,上述の植生量の要因(蒸発散面積率)と気孔開度を推定している.さらに,この大気安定度・蒸発散面積率・気孔開度および葉温における飽差を考慮した地表面熱収支の算定法(葉温飽差-相似則法)を提案している.従って,この方法は蒸散の植物生理学的メカニズムと大気境界層の乱流理論を応用した広域地表面熱収支の直接的算定法となっている.

 一方,従来の研究に,上述の蒸散のメカニズムに基づく方法とは推定概念の全く異なる補完法による研究例がある.しかし,この方法は一地点における潜熱フラックスの算定法であって,広域的な方法となっていなかった.また,熱収支の推定対象域が広大になると,気温が地点ごとに異なる性質を熱収支の算定に考慮する必要がある.ところが,気温の広域的な平面分布を推定する方法が今まで未確立であった.本研究では,Monin-Obukhov相似則を適用して気温を推定する方法を開発し,この方法を取り入れた広域補完法を提案している.

 この広域補完法や気象実測値等の様々な方法を用い,前述の葉温飽差-相似則法から得られた潜熱フラックスの推定結果の妥当性を検証している.また,本研究の各章で提案した推定方法により,植生の視点から広域地表面熱収支の特性を明らかにしている.これらの研究成果は,水文学の分野ばかりでなく,都市気象や海陸風等のメソスケール気象の研究分野にも適用可能である.即ち,本研究は地表面熱収支の係る広い分野に応用可能な基礎研究となっている.

 以下,各章の要点について順を追って述べる.

 第1章の序論に引き続き,第2章では大気安定度の広域的な算定法を提案している.この方法では,Landsat TMから得られる地表面温度データと気象台ルーチンデータを用い,最初にバルク・リチャードソン数を算定する.次にMonin-Obukhov相似則を適用し大気安定度を広域的に算定する.この方法を取り入れる事により,後述する潜熱フラックスの算定法を始め,気温推定法,広域補完法による実蒸発散量の算定法,そして総合法による比湿の推定法を,全ての大気安定度の範囲について適用可能な汎用的算定法に改善することができる.

 第3章では,Landsat TMから得られる地表面温度Ts・植生指標NDVIと国土数値情報の土地利用・標高データとの関係から,地表面温度Tsと植生指標NDVIの地域特性を分析した.また,地表面温度に影響を及ぼす要因の一つとして,海風による地表面温度の低下効果を検討している.

 第4章では,蒸発散指標と気孔開度指標ならびに蒸発散面積率を導入し,その誘導と定義をまとめている.リモートセンシングにより得られる森林域の地表面温度と植生指標NDVIの間には,植生指標の増大と共に地表面温度が低下する関係がある.この地表面温度低下の勾配は,森林からの蒸発散量を表す指標とみなすことができる.次に,蒸発散指標と気象要因との感度解析から,森林の蒸発散量を左右する主たる要因は,葉温飽差(葉温における飽和比湿qcと大気比湿qaの差(qc-qa))であることを明らかにしている.さらに推論を進め,蒸発散指標と葉温飽差との関係から気孔開度を導いている.

 さらに,調査地点の面積に占める植生の割合,すなわち,日射を受け活発に光合成と蒸散の作用をしている有効な葉面積が測定地点の面積に占める割合に近似可能な「蒸発散面積率NDVI」を定義している.

 第5章では,リモートセンシングデータから得られる植生指標NDVIと気象台ルーチンデータを用い,Monin-Obukhov相似則の適用による潜熱フラックスの算定法を提案している.

 植生からの蒸散のメカニズムと蒸発散に及ぼす要因の感度解析結果に基づき,今まで定式化の困難であった植生域の地表面飽差を,前述の三因子(パラメーター):蒸発散面積率NDVI・気孔開度s・葉温飽差(qc-qa)の積によって表示している.各地点におけるこれらの因子の数値は,衛星リモートセンシングデータと気象台ルーチンデータから得られる.次にMonin-Obukhov相似則を適用し,地表面飽差の算定値をもとに潜熱・顕熱フラックスを広域的に算定している.

 第6章では,リモートセンシングによる地表面温度データを用い,接地境界層の気温を推定する方法を示している.この推定法は,第2章で述べた方法により各地点の大気安定度を求めた後,Monin-Obukhov相似則を適用して接地気温を推定するものである.この際,森林域の「熱の粗度」の高さにおける地表気温をリモートセンシングによる地表面温度を用いて近似する.次に,収束計算によって気象台ルーチンデータの観測高さでの接地気温を推定している.また,植生指標NDVIと推定された気温との関係から,植生による気温の緩和効果を定量的に求めている.

 第7章では,気温の平面分布を考慮した広域的な補完法を提案している.従来の方法では,実蒸発散量の推定に一地点で実測した気温を用いていたが,本方法では,第6章の気温推定法により地上実測なしに気温を推定している.従って,推定域が広域化すると気温が地点ごとに異なる性質を考慮した広域的な補完法となっている.

 第8章では,第5章で提案された葉温飽差-相似則法や第6章の気温推定法の信頼性を以下に示す方法により検証している.最初に,第5章の葉温飽差-相似則法による潜熱フラックスの算定結果を,推定の基礎となる概念の異った広域補完法を用いて検証している.次に,第2章から第7章までの潜熱フラックスの算定法を発展させ,相似則・熱収支式・補完法を総合的に用いて地表面比湿と地表面熱収支を算定する方法(熱収支-相似則法)を示している.この方法により得られる地表面比湿と大気比湿の差と,第5章の葉温飽差-相似則法による地表面飽差とを比較し,飽差式の妥当性を検証している.また,AMeDASによる快晴日の日最高気温と観測地点の植生指標NDVIとの関係から,植生による気温の緩和効果を抽出した.得られた結果と第6章の気温推定法による緩和効果の推定値とを比較し,気温推定法の結果の妥当性を裏付けている.

 第9章では,第8章までに得られた各章の研究成果を,以下に示す気候学的分野へ応用することを試みている.

 光合成は蒸散と同じく気孔という径路から炭酸ガスを取り入れるので,光合成は蒸発散と密接な関係がある.この関係を利用し,潜熱フラックスの算定の際に定義した気孔開度sと,有効葉面積指数に近似可能な蒸発散面積率NDVIを用い,光合成(CO2固定)速度を推定している.そのほか,AMeDASによる快晴日日最高気温の方法を用い,植生による気温緩和の季節変化についての実態を抽出している.また一方では,気象衛星NOAAのデータを用い,地表面熱収支を推定する対象域の拡大を図っている.

 最後の第10章では,各章の内容をとりまとめて結論としている.

審査要旨

 広域な地表面での熱収支の研究は,グローバルな熱・水循環系における大気陸域相互作用の解明,植生が気候形成に及ぼす効果の評価,メソスケール局地気象現象の解明,さらに気候変動の予測などにとって基礎的課題である.

 本論文は,衛星リモートセンシング(以下,リモセンと略称),主にLANDSAT/TMから得られる地表面温度Tsと植生指標NDVIおよび気象台定常観測データのみを用いて,地表面熱収支の広域的な算定を可能にする手法を構築,検証し,その応用について議論したものである.

 論文は10章で構成されており,第1章では,衛星リモセンの水文学分野への応用をレヴューした後,本研究の意義と目的を明示するとともに,論文の構成と概要がまとめられている.

 第2章では,LANDSAT/TMのTsデータと気象台での気温と風速の定常観測データから,バルク・リチャードソン数を計算し,これにモニン-オブコフ相似則を適用して,大気安定度を広域的に算定する方法を提案している.大気安定度は,顕熱フラックスや潜熱フラックスを評価する際の基本的なパラメータであるが,従来のリモセンの利用による熱収支の評価では,考慮されていないか中立との仮定の下で扱われてきた.ここで提案された方法は,安定から中立,不安定の全ての大気安定度の範囲に対して汎用性のある熱収支の算定を可能にした点で高く評価できる.この大気安定度の算定法は,第5章の潜熱フラックスの算定,第6章の気温の平面分布の推定,第7章の広域補完法による実蒸発散の算定,および第8章の総合法による比湿の推定,それぞれに共通の基礎となっている.

 第3章では,主な研究対象地域である松江北東部において,LANDSAT/TMのTsおよびNDVIデータと国土数値情報の土地利用および標高データとの関数から,TsとNDVIの局知的な分布特性を調べている.主な結論として,NDVIが高い森林では蒸発散が多いため,市街地・住宅よりTsが低いこと,水域の風下でTsの低下が認められる,すなわち風向きによっては移流の効果が無視できないこと,などが指摘されている.

 第4章では,Tsの分布とNDVIの分布との関係をより詳細に分析することにより,森林からの蒸発散の指標として,「蒸発散指標」,「気孔開度」および「蒸発散面積率」を誘導,定義している.まず,森林のTsはNDVIの増大と伴に線形に低下することに着目して,この勾配を蒸発散指標と定義し,これが森林からの蒸発散の程度を表わすことを解析的に示している.次いで,この蒸発散指標に及ぼす諸要因の感度分析を通して,葉温飽差(葉温における飽和比湿と大気比湿との差)が支配的要因であることを明らかにし,蒸発散指標と葉温飽差との関係から気孔開度を誘導,定義している.さらに,対象地点の面積の中で蒸発散に有効に作用する植生の割合を表わす蒸発散面積率をNDVIを用いて定義している.これらの指標は次章以降の潜熱フラックスの算定に用いられる.

 第5章では,NDVIと気象台定常観測データを用い,モニン-オブコフ相似則を適用することにより,潜熱フラックスを直接算定する方法「葉温飽差-相似則法」を提案している.モニン-オブコフ相似則中の地表面飽差の項はリモセンデータや定常気象観測データから直接求めることはできない.本研究では,この項が衛星リモセンと定常気象観測データとから計算できる蒸発散面積率,気孔開度および葉温飽差の積で表わせることを誘導し,通常容易に得られるデータのみから潜熱フラックスの算定を可能にしている.この方法を島根県北東部に適用し,潜熱と顕熱フラックスの妥当な推定値が得られることを示している.

 第6章では,地表気温の平面分布をモニン-オブコフ相似則の適用により衛星リモセンのTsから推定する方法を提案し,推定された気温分布を基に植生の気温緩和効果について議論している.

 第7章では,地点ないしは流域平均の実蒸発散量の推定法として用いられている補完法に2章で算定可能になった大気安定度と前章の方法で算定される気温の平面分布とを導入することによって,従来の補完法を広域な実蒸発散推定法に拡張している.

 第8章では,5章で提案された「葉温飽差-相似則法」と6章で提案された「気温の平面分布推定法」の妥当性が4種類の方法で検証される.まず,アメダスの快晴日の日最高気温と観測地点のNDVIとの関係から評価される植生による気温緩和効果と6章の気温分布推定法による植生の気温緩和効果の推定値とがよく対応することから,気温の平面分布推定法が妥当であるとしている.次に,葉温飽差-相似則法により算定される潜熱フラックスと7章の拡張補完法によるそれがほぼ一致することを示している.さらに,モニン-オブコフ相似則,熱収支式および補完法の総合化に基づく比湿の推定値から算定される地表面飽差と葉温飽差-相似則法の飽差式からの算定値とを比較することにより,葉温飽差-相似則法の妥当性を確認している.最後に,松江市周辺22地点での気温の現地観測値との比較によって気温分布推定法の検証を行なっている.

 第9章では,前章までの研究成果の気候学分野への応用の試みとして,葉温飽差に基づく広域的な光合成速度算定法の提案,植生による気温緩和効果の季節変化の分析,植生の水ストレス抽出の可能性,および気象衛星NOAAデータの利用による算定域の拡大,について議論している.

 第10章では,結論が要約されるとともに,この研究のさらなる発展へ向けての展望が述べられている.

 以上のように本研究は,衛星リモートセンシングによる地表面データと気象台定常観測データという入手が容易なデータのみを用いながら,そうしたデータだけでは得られない物理量を大気境界層の乱流理論あるいは植物生理学的機構の定式化を導入することにより補完し,物理的に根拠のある広域地表面熱収支算定法の構築に成功しており,水文・水資源工学,気象学,気候学,森林生態学など広い分野における衛星リモートセンシングの利用の発展に大いに貢献している.

 よって,本論は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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