地球環境問題は現代社会の最重要課題のひとつである。特に、チェルノブイル発電所事故に見られるように、放射性汚染物質の地球環境への影響の研究は急務である。本博士論文では、そのように長期にわたる汚染問題を研究する際の数学的取扱の重要性を強調する。 従来のこの分野の研究では、地球環境という大規模な体系の挙動を、個々のプロセスを複雑に組み合わせて説明しようとするため、コンピュータによる数値計算に重点がおかれてきた。しかしそのような計算では、体系のパラメータを少し変えただけで長期的な振舞に大きな変化を来し、一般的な法則としての長期予測は非常に困難である。この点で数学的取扱は数値計算より大いに優れている。数学的モデルの解析からは体系の長期的な振舞を法則として導き出すことができるのである。 その好例が第2章におけるチェルノブイル近郊の大気汚染問題の研究である。チェルノブイル原子力発電所事故で放出された放射性核種の大気中濃度がどのように減衰していくかについて、世界で初めて長期予測を行う。ここで強調するのは、長期的振舞を「法則」として予測することが数学的取扱によって初めて可能になるという点である。 1986年4月26日に起こったこの事故では大量の放射性核種がばらまかれ、北半球全体にまたがる大規模な汚染が引き起こされた。しかし、現状では事故現場付近の汚染の除去と地域住民の健康問題の研究が主で、広範かつ長期的な大気汚染問題という視点からの研究は殆どない。そこで、第2章では大気中エアロゾルの拡散に対する理論的モデルを提唱する。 このモデルをもとに、チェルノブイル30km圏内での放射性エアロゾルの大気中濃度の長期的時間変化を予測した。モデルによる主な予想は以下の3つである。 予想1 ある場所でのある核種の大気中濃度Cの長期的時間変化は次式で与えられる: ここでtは事故からの日数、=(崩壊定数)+(降水による地表からの除去率)+(植物による取り込み率)+…であり、一次反応の形で書けるプロセスによって核種が再浮遊-沈降のサイクルから除かれる速さを表す。 予想2 ある期間T中に測定された全ての濃度データの標準偏差は のように変化する。これはMandelbrotによるフラクタル揺らぎの形と一致する。 予想3 再浮遊率Kの長期的時間変化は次式で与えられる: 第1の予想に基づいてチェルノブイル近郊の実測データをフィットしたものを図1(a)-(d)に示す。第2の予想については、Gargerらが実測データを解析した結果(T)〜T-0.33±0.08と非常に良い一致を示している。第3の予想についても、やはりGargerらが実測データを解析して経験的に導いた式K(t)〜t-1.4とよく一致している。以上のように、3つの予測はいずれも実測結果と大変良い一致を示している。 図1:チェルノブイル発電所の東4kmの地点における134Cs,137Cs,144Ce,106Ruの大気中濃度。折れ線は実測データの6カ月平均値。曲線が本モデルによる式(1)の予測。 ここで強調しておきたいのは、式(1)のような数式の形として長期的振舞を予測するのは、従来のような数値シミュレーションでは不可能であろうということである。このような「法則」は数学的取扱でのみ得られる結果である。式(1)のような数学的枠組みが与えられて初めて数値計算が大きな役割を果たす。例えば、今後などのパラメータと個々の移行プロセスとの関連を明らかにする数値計算が必要となるだろう。 以下にモデルの概略を述べる。事故による火災中およびその直後は発電所近郊に短期間に大量の核種が地表に降り積もった。発電所近郊の大気中エアロゾルは、この短期沈積核種の再浮遊と沈降に由来することがわかっている。(これと比較するとフォールアウトの寄与は非常に小さい。)そこで、風によるエアロゾルの拡散と再浮遊、および重力による沈降を考慮に入れた移流方程式によってモデル化する: ここでv1,v2はそれぞれx,y方向の(実質的)風速、関数は事故による核種の放出を表わす。現実の風はまったくランダムに吹いているのではなく、その風速は時間的にフラクタルな相関を持っている。この関係は、乱流理論でCorrsin-Obukhovの関係と呼ばれ、 と書かれる。本モデルでは、風速の時間揺らぎに式(5)のフラクタル的相関を取り入れたことが大きな特徴である。式(4)を解くことによって上の3つの予想が得られる。式(5)が示すように、長時間の後にも風速の相関は消失しない。この長期相関を考慮に入れて初めて、長期予測が可能となるのである。 さて、上のモデルはチェルノブイルに限らず一般の大気汚染に普遍的に適用できるものであることを示唆する事実がある。Giffordは、米国の核施設から放出された85Krの米国北東部にわたる実測データを解析して、上の予想2にほぼ一致する結果(T)〜T-0.35を得ている。この場合、測定範囲は南北に1100kmという広範囲にわたり、しかもクリプトンは希ガスなので、上述のチェルノブイルの核分裂生成物とは異なる移行をするはずである。にもかかわらず、濃度の揺らぎは同一の関数で書かれるのである。本論文で示されたような濃度の揺らぎのフラクタルな時間相関は、大規模大気汚染に普遍的に見られるものではないかと予想される。 このような「普遍性」は数学的取扱のもう一つの長所である。一見、全く異なるシステムにおいて共通の振舞が見られることがある。それら異なるシステム間でも共通な一般的な特徴を数学的に抽出することによって、初めてこのような普遍性が明らかにされる。第3章では、この特徴を生かした解析を行なう。具体的には、高レベル廃棄物から環境中に放出された汚染物質の挙動を表わす新しい数学的モデルを、半導体中の電子の拡散の理論のアナロジーを用いて提唱する。特に、イオン状の放射性核種が吸着性媒体中を移行する場合を扱う。 このモデルをもとにして、原研の行ったカラム試験の結果を説明する。このカラム試験では、の希薄水溶液を、破砕カコウ岩を詰めたカラムに注入し、95日後に輪切りにして各セグメント中に吸着されたイオンの濃度を測定している。この結果を本モデルに基づく予測式でフィットしたものが図2である。従来の移流拡散モデルでは、特に注入口から遠い部分における濃度が過小評価されてしまい、実験結果を正しく再現できなかった。本モデルでは全領域で結果を再現している。 図2:原研によるカラム試験のデータ(低流速・中流速・高流速の実験結果を平均自由行程Lmeanでスケール変換したもの)と、本モデルによるフィット。フィット線は全領域での濃度を正しく再現している。図3:本理論の模式図。吸着サイトは「平均自由行程」の間隔で格子状に並んでいると仮定する。各サイトの吸着ポテンシャルの強さVがランダムに分布しているため、イオンが吸着されている時間もランダムに分布する。 注入口から遠い部分の濃度に長いテイルが現われるという特徴は、実は半導体中の電子の拡散の問題で以前から知られていた。吸着性媒体と半導体では物理的化学的な性質が全く異なる。しかしそれらを抽象化して数学的モデルとして定義したとき、両者が同じモデルで表わされることが期待される。そこで本論文では半導体に対する数学的モデルをイオンの吸着問題に適用する。 本モデルでは、ある格子間隔(「平均自由行程」)で並んだ吸着サイト上をイオンが確率的にホップしていく(図3)。各サイトにイオンが吸着されている時間がP()〜-aの形でランダムに分布していると仮定すると、図2に示すようなイオン濃度分布が得られる。ここで、従来のモデルのようにを一定としたり、分散が有限であるようなP()を仮定してしまうと、イオン濃度分布は長期的にはガウス分布となり、実験結果の長いテイルと矛盾する。 なお、カラム試験は注入する水溶液の流速を変えて3種類行なわれた。本モデルでは流速の違いは「平均自由行程」の大きさの違いとして表現される。実際、平均自由行程の比をと取ると、低流速・中流速・高流速の3種のデータを図2のように一本の曲線でフィットできるようになるのである。これは本モデルの正当性を示唆するもう一つの証拠である。 また、本理論によると破瓜曲線は と書かれる。この式を実験結果と比較すれば本理論のもうひとつの検証となるであろう。 第4章では高レベル放射性廃棄物の処分環境が徐々に劣化する場合について、拡散方程式の解析解を導く。(この解析解は第2章の解析でも使われている。)この解析解をもとに、体系の拡散の様子を指定する新しい無次元数「拡張Thiele数」を提唱する。これは、化学工学の分野では古くから知られているThiele数という無次元数をより一般的に拡張し、経時劣化のある場合に適用できるようにしたものである。Thiele数とは、化学工学プロセスにおいて反応装置の内部における原料物質の濃度の増減の特徴を表す指標であり、物質が拡散してくることによって増加する分と化学反応によって消えていく分との競合を表現する。最近になって、環境に放出された汚染物質の増減を示す指標として、環境工学の分野でこのThiele数が使われ、その重要性が再認識されている。汚染物質が環境中を移動するメカニズムは拡散と除去過程であり、これが数学的に上記の化学反応装置の場合と共通であるため、このような適用が可能なのである。 廃棄物問題における拡張Thiele数は次式で与えられる: ただし、Tdec=-1は崩壊定数の逆数、Tdifは方程式D()/R()d=(r-a)2/4の解、またD(t)とR(t)はそれぞれ時間に依存する拡散係数と遅延係数であり、aは高レベル廃棄物の半径、rは廃棄物中心からの距離である。拡張Thiele数が1より非常に大きいときは崩壊による減少分が拡散による増加分を上回り、核種はほとんど放出されない。反対に、が1より小さいときはかなりの放出が起こる。これを用いると図4のようなダイアグラムが描かれ、放出が起きるかどうかが一目瞭然に把握できる。 図4:拡張Thiele数を用いたダイアグラム。斜めの直線より上に点がある場合は、核種の放出はほとんど起こらない。下に点がある場合は、放出される核種濃度に大きなピークが現れる。 式(7)のような数式の形で新たな指標を定義することは数値計算では不可能であり、数学的議論を経て初めて可能となることを再び強調しておく。この拡張Thiele数を用いて、具体的にベントナイトが経時劣化(イライト化)した場合の、様々な核種の廃棄物としての安全性を議論した。 最後に、長期かつ広域にわたる汚染の移行を解析する際、システムのパラメータの見積もり誤差は避けて通れない問題である。第5章では、この誤差が体系の長期的振舞にどのように伝播していくかを数学的に解析した。この研究も第4章で得られた拡散方程式の解析解に基づくものである。 この論文の結論として、次のことを主張したい。環境汚染問題は、そのプロセスの複雑さ・系のサイズの巨大さから数値計算に依存しがちであり、従来数学的取扱はおろそかにされてきた。しかしこの論文で明らかにされるように、長期的・広範囲の環境汚染に対処するには「法則」や「普遍性」の発見が非常に重要であり、それは数学的モデルを解析的に議論しなければできないものである。数値計算はこのような数学的枠組みが設定された後で、細部を議論するのに活用されるべきであると考える。 |