1.目的 痙攣性発声障害(SPD)は声帯や喉頭の形態的異常を伴わない謎に満ちた音声障害で、音声外来患者の約3.3%程度に認められる低頻度の疾患である。発声中に意図に反して生じる喉頭の過剰な内転や外転による痙攣的変動や突発的失声を特徴とし、実に苦しげな発声になる。この疾患を特徴つける痙攣的変動は歌唱時や咳払いなど話し言葉以外の発声モードでは生じにくく、話し言葉に特異的に生ずる傾向が強い。そのため流暢な発話が困難になり、話すことを職業とする患者の苦しみが特に大きく、職業の変更を余儀なくされることも少なくない。 痙攣性発声障害の音声は従来「正常な音声の中に突発的な痙攣的変動を含む音声」とされ、主として声の痙攣的変動を聴覚的印象によって検出することによって診断されてきた。その病態や病因は多くの研究にも関わらず未だに不明のままである。また、喉頭内転筋へのボツリヌストキシン注入などによる音声外科的治療や、音声訓練による治癒は、現在までのところ一時的、限定的で、長期的治癒には成功していない。 本論文ではこのように残された問題の多い痙攣性発声障害、特に外転型に比して出現率の高い内転型の痙攣性発声障害患者の音声を対象に、その音響的特性の解析を通してこの疾患に独特な発声パタンの生成機序を考察した。 この疾患に独特な発声障害パタンが如何に生成されるかに関する最近の研究では、MRI画像診断や筋電図学的研究によって神経系に病因を認める視点と、ストレスなど心理的要因を強調する視点とが、双方とも決定的証拠を欠いたまま併存している。一つの可能な視点として、喉頭内転筋の緊張状態、喉頭の内転状態を中枢にフィードバックする神経経路に誤りが生じ、内転度を過剰に増大してしまうために、声の痙攣的変動や突発的失声が生じるとする仮説が提案さている。事実、内転筋の筋活動が意図に反して一次的に増大する現象が筋電図学的検討によって確認されている。 この仮説は痙攣的変動や突発的失声の生成機序を良く説明するものの、なぜ喉頭の内転状態を中枢にフィードバックする神経経路に誤りが生じるのか今の所合理的な説明がない。これに対して本論文では、喉頭調節に関与する筋群とそれを調節する遠心性、求心性の神経系に内在するゆらぎが変動しており、それがある閾値を越えた場合に声の痙攣的変動や突発的失声が生じるとする、と仮定した。健康な話者でも神経系に内在するゆらぎに起因する声のゆらぎを持つことや、訓練によってその大きさを意図的に制御・抑制し得ることがすでに知られている。このゆらぎを制御ないし抑制できなくなった状態の一つが痙攣性発声障害なのではないかという視点である。もし本論文の仮説が正しければ、「正常な音声の中に突発的な痙攣的変動を含む音声」という従来の伝統的な定義は正しくなく、「正常な音声」にも健康な話者でも持つゆらぎより大きな、従って正常ではないゆらぎが存在していると予測される。 痙攣性発声障害の音声解析はたびたび行われてきたものの、痙攣的変動を含まない「正常な音声」と目される音声のゆらぎを解析した報告は無い。そこで、本研究では、18名の痙攣性発声障害者の音声から、聴覚心理的評価によって、「痙攣的変動を含む音声区間」と「含まない音声区間」、および中間的区間を抽出し、それらを音響的に解析して、以下の作業仮説を検討した。 作業仮説:「痙攣性発声障害の痙攣的変動を含まないいわゆる正常な音声区間にも、健康な音声に比較すれば大きなゆらぎが存在する。」 2.方法 18名の痙攣性発声障害者と年齢分布を一致させた20名の健康な話者の母音持続音声を防音室にて録音した。まずすべての音声をランダムな順序で再生し、耳鼻咽喉科専門医3名に突発的な痙攣的変化を含む部分に-印を付けてもらった。つぎにその印を含まない区間と含む区間で、0.5秒以上それぞれの特性が持続する区間を合計102区間を切り出して、再度聴取してもらい、痙攣的変化を含むか、含まないかの判定をしてもらった。この実験で3名とも痙攣的変化を含まないとした(NSpmdと略記する)22区間、3名のうち1名が痙攣的変化を含むとした(SSpmdと略記する)12区間、3名のうち2名が痙攣的変化を含むとした(MSpmdと略記する)17区間、3名とも含むとした(RSpmd)51区間に分類した。 これらの音声区間からサンワークステーションの音響分析ソフトSongspdを用いて、声のゆらぎを多方面から評価するために以下の音響的パラメータを抽出・解析した。1)ピッチ変動率(PPQ):基本周期の瞬時平均値に対する残差の割合、2)振幅変動率(APQ):基本周期内の最大振幅値の瞬時平均値に対する残差の割合、3)加法的雑音レベル(Noise Level):5基本周期分の平均波形に対する残差波形のパワー比、4)基本周波数変動率(FoV):基本周波数のサンプル全体に対する平均値に対する標準偏差の割合、5)基本周波数の低速変動率(FoS):基本周波数時系列のパワースペクトルのうち16Hz以下の成分のDC成分に対するパワー比、6)基本周波数の高速変動率(FoF):基本周波数時系列のパワースペクトルのうち16Hz以上の成分のDC成分に対するパワー比、及び7)基本周波数の瞬時変動率(ICFo):基本周波数時系列の2個分の瞬時平均値に対する差分の割合、基本周波数の瞬時変化率と変化方向を表す指標。 3.結果・考察 結果を列記すると以下の通りである。 1)痙攣的変化を含まないとされた音声区間(NSpmd)の音響的パラメータは全て正常対照群音声(NC)より有意に変位していた。つまりピッチ変動率、振幅変動率、加法的雑音レベル、基本周波数全変動率、基本周波数の低速変動率、基本周波数の高速変動率の何れも有意に正常群より大きな値になった。この結果は、本論文の作業仮説:「痙攣性発声障害の痙攣的変動を含まないいわゆる正常な音声区間にも、健康な音声に比較すれば大きなゆらぎが存在する。」を支持する。 2)痙攣的変化を含まないとされた音声区間(NSpmd)と正常対照群音声(NC)の間で、基本周波数瞬時変動率(ICFo)の分布曲線を比較すると、差は小さいものの前者の方がより広がっていた。このことは聴覚的には痙攣的変動として検出できないものの、正常対照群音声よりも大きな基本周波数の瞬時的変動が存在することを示唆する。 3)何れの音響パラメータも、NC<NSpmd<SSpmd<MSpmd<RSpmdの順に変位した。特に、痙攣的変化を含まないとされた音声区間(NSpmd)と、評定者全員一致で痙攣的変化を含むとした音声区間(RSpmd)を比較すると、何れの音響パラメータも有意に後者の方がより悪化していた。このことは、痙攣性発声障害の音声が、いわゆる正常な区間と、痙攣的変動区間とに2分されるような単純な構造にはなっておらず、広い範囲に渡って連続的に悪化することを示す。 4)さらに、基本周波数の瞬時変動率の分布曲線をNC、NSpmd、SSpmd、MSpmd、RSpmdの各群で比較すると、後者の方が先鋭度が低く分布の広がりが大きかった。このことは、より大きな基本周波数の瞬時変動がより多く起こっている音声を痙攣的変化として評定者が診断したことを示唆する。 上記の結果1、2)は、本論文の作業仮説:「痙攣性発声障害の痙攣的変動を含まないいわゆる正常な音声区間にも、健康な音声に比較すれば大きなゆらぎが存在する。」を支持する。痙攣性発声障害音声の従来の伝統的な定義、「正常な音声の中に突発的な痙攣的変動を含む音声」は正しくなく、痙攣性発声障害音声のいわゆる「正常な音声」にも、健康な話者でも持つゆらぎより大きな、従って正常ではない大きさのゆらぎが存在していることを示唆する。 さらに、結果3、4)は、評定者全員一致で痙攣的変化を含むとした音声(RSpmd)と、全員一致で痙攣的変化を含まないとされた音声(RSpmd)の中間段階が聴覚心理的にも音響分析的にも存在し、それらの音声のゆらぎは両者の中間的な値をとることを示す。つまり、痙攣性発声障害音声のゆらぎには正常音声のゆらぎより有意に大きいものの痙攣的変化とは知覚されない小さなレベルから、全員一致で痙攣的変化と知覚される大きなゆらぎのレベルまで、広い範囲に渡って連続的に存在する。このことは、基本周波数の瞬時変動率の分布曲線がNC、NSpmd、SSpmd、MSpmd、RSpmdの順で広がっていくことからも明らかである。これらのことは、痙攣性発声障害音声のゆらぎが変動しており、それがあるいき値を越えた場合に声の痙攣的変動として検出されることを示す。 これらの知見は、健康な話者でも持つ神経系に内在するゆらぎに起因する声のゆらぎを制御ないし抑制できなくなった状態の一つが痙攣性発声障害なのではないかという視点と矛盾しない。攣性発声障害には神経系に何らかの病因があること、ストレスなど心理的要因は神経系の病因への影響を介した間接的要因であり得るものと考えられる。 4.結論 痙攣性発声障害音声は従来「正常な音声の中に突発的な痙攣的変動を含む音声」と考えられてきた。しかし今回の解析は、痙攣性発声障害音声のいわゆる「正常な音声」にも健康な声のゆらぎに比較して有意に大きなゆらぎが存在し、その大きさは変動しており、あるいき値を越えた場合に声の痙攣的変動として検出されるという特性を持つことを示唆した。この知見は、痙攣性発声障害が健康な話者でも持つ神経系に内在するゆらぎに起因する声のゆらぎを制御できなくなった状態の一つである可能性を示唆し、痙攣性発声障害の神経系病因説を支持する。さらに今回開発した各種のゆらぎパラメータ、特に基本周波数の瞬時変動率が、痙攣性発声障害音声の解析・評価に有効であることも示された。 |