学位論文要旨



No 213391
著者(漢字) 宇田川,悦子
著者(英字)
著者(カナ) ウタガワ,エツコ
標題(和) 小型球形下痢症ウイルス(千葉株)の研究 : 部分塩基配列の解読及び疫学への応用
標題(洋)
報告番号 213391
報告番号 乙13391
学位授与日 1997.05.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13391号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉倉,広
 東京大学 教授 牛島,廣治
 東京大学 教授 岩本,愛吉
 東京大学 助教授 佐藤,典治
 東京大学 講師 豊田,春香
内容要旨 研究目的、研究の背景

 毎年世界各国において、一億人もの人がロタウイルス(HRV)下痢症(胃腸炎)に罹患しており、そのうち90万人近い患者が死亡している。我が国でも年間40〜60万人もの胃腸炎患者が発生している。胃腸炎の起因ウイルスとしては、HRV、アデノウイルス(AdV)の他に小型球形ウイルス(SRSV、ことにNorwalk Virus(NV)、Snow Mountain Virus(SMV)、Astrovirus(HAstV))等の関与が指摘されているが、優れた検査方法が存在しないためにウイルス性胃腸炎の起因ウイルスに関する詳細な報告が得られていない事は、公衆衛生上の大きな問題点である。HAstVを除き、SRSVは未だ分離培養が出来ない為に、患者材料が唯一のウイルス供給源であり、この制約によってSRSVの物理化学的、生物学的研究は全く進んでいない。

 SRSV胃腸炎の検査方法は、(1)糞便からの電子顕微鏡によるウイルス粒子の検出(EM法)、(2)免疫電顕(IEM)法、および(3)ウエスタンブロット(WB)法、EIA法等によるベア血清中のウイルス特異抗体濃度の有意上昇の検出等があるが、技術的な煩雑さや患者材料の採取等に問題が多く一般化されていない。

 そこで、病原診断の迅速化、効率化と言う観点からも優れた方法であるRT-PCR法に着目してSRSV(千葉株)遺伝子の研究を開始した。まず、比較的大量のウイルス(SRSV千葉株)を含む患者材料を用いて、RNA遺伝子のcDNAをクローン化した。SRSV千葉株は1987年に我が国で発生した流行例の原因ウイルスである。その塩基配列(3’-末端側の一部)の解析を行いNV遺伝子の塩基配列と比較して、双方の株に共通する塩基配列からRT-PCR用プライマーを構築した。これを用いて、千葉株と同一流行時に得られた検体及びNVボランティアーの検体についてRT-PCR法により特異配列の増幅を試みた。更に、本検査法がNV/千葉株群のSRSV疫学調査に有用な方法であるのか、又、NV/千葉株群以外のSRSVが存住するかどうかを調べる為に、全国各地のウイルス性胃腸炎患者の糞便についてNV/千葉株群SRSVの検出を試みた。

材料と研究方法

 1)ウイルス:千葉県で1987年12月発生した急性胃腸炎の患者便中にSRSVが多量に含まれるものをウイルス材料とした。

 2)ウイルス粒子の精製:ダイフロン処理済便材料を30%(W/V)ショ糖液重層法で遠心後沈査をPBS(-)に再浮遊させた部分精製ウイルスからCsCl平衡密度勾配遠心法で精製ウイルス分画を得、EM法によるウイルス粒子数の計測と浮遊密度を測定した。

 3)ウイルスゲノムRNAの精製と性状:精製ウイルスからフェノール法によりウイルスゲノムを抽出し、15-30%(W/W)ショ糖密度勾配遠心法で遠心分画後、分光光度計でRNAを定量した。1%アガロースケル電気泳動法(AGE)での移動度を測定し、更にRNaseT1で消化後、ポリアクリルアミドの2次元電気泳動法で展開しフィンガーフリンティングを行った。

 4)ウイルス遺伝子のクローニング及び塩基配列の解読:本ウイルスゲノムRNAは3’-末端にポリアデニル酸(poly-A)を有するので、オリコd(T)12-18をプライマーとして逆転写し、常法に従ってcDNAを合成した。ホモホリマー法でベクターと連結後、大腸菌を形質転換してDNAライブラリーを作製した。精製ウイルスRNAから調製した放射能標識プローブを用いてスクリーニングを行いクローンを同定した。さらに、M13ベクターにサブクローン化し常法に従って塩基配列を解読した。

 5)RT-PCR法とサザーンブロット・ハイブリダイゼーション法:千葉株とNVの塩基配列の比較から双方に共通する配列を選出してPCR用プライマーとした。患者便中からCTAB(Cetyltrimethylammoniumbromide)法でRNAを抽出後cDNAを作り、これを鋳型に94℃1分、55℃2分、72℃3分で35サイクルのPCRを行いAGEで増幅産物を検出した。更に、泳動した増幅産物をナイロン膜へプロット後、非放射性標識プローブで検出した。

実験・観察・調査結果

 1)電子顕微鏡による形態観察:1987年12月千葉県で発生した急性胃腸炎患者便材料中に粒子表面が粗で特異的な突起様構造物を持つNV様SRSVが多量に検出された。このウイルスを千葉株とし以下の実験に用いた。

 2)ウイルス粒子およびウイルスゲノムRNAの性状:本ウイルスは、直径30-35nm、粗表面構造を有するSRSVで1.36-1.37cm3の浮遊密度を有する。部分精製したウイルス粒子をWB法で患者ベア血清と反応させると、回復期血清ではウイルス粒子構造蛋白と思われる約65kダルトンの単一バンドとのみ強く反応した。このウイルス粒子から抽出した核酸は、一本鎖のRNAでpoly-Aを持ち沈降係数は35Sであった。

 3)ウイルスゲノムのクローニング:本ウイルスゲノムからオリゴd(T)12-18をフライマーにしてcDNAを合成し、大腸菌を形質転換してDNAライブラリーを作製した。ウイルス遺伝子のcDNAクローンの塩基配列を解読し、現在までにpoly-Aを除いて3’末端から1,926bpの配列を決定した。このなかには208個のアミノ酸をコードするオーフンリーデイングフレイム(ORF-3)が存在した。核酸配列データ-ベース(EMBL-GDB、Genbank)および蛋白質データ-ベース(NBRF-PDG、SWISS-PROT)でホモロジー検索を行った結果、NVとの間にORF-3の塩基配列で68%、アミノ酸配列では74%の一致率を示し、千葉株のRNAはNVと類似した一次構造を持つことが予想された。

 4)RT-PCRによるSRSV遺伝子の増幅:千葉株及びNVのRNAの3’末端の塩基配列の比較から、両方のウイルスに共通する部分20-24塩基に相当する合成プライマーを作製し、千葉およびNVの患者材料から抽出したRNAからのcDNAを鋳型にしてPCR法で遺伝子増幅を行い、PCR産物を解析した結果、両者ともに明瞭な遺伝子増幅産物が観察された(図1)。

 5)RT-PCR・ハイブリダイゼーション併用法における増幅遺伝子検出感度の検討:EM法と比較すると、RT-PCR単独使用法ではSRSVの検出感度がおよそ100倍上昇した。更に、シゴキシゲニン標識プローブを用いたハイブリダイゼーション法を併用した結果、RT-PCR単独法よりも更に1、000倍感度が上昇した(図2)。このとき使用した検体にはEM観察で2x104個/mlのウイルス粒子が測定されたことから、RT-PCR単独法では104個/ml、RT-PCR・ハイブリダイゼーション併用法では10個/mlのウイルス粒子が検出可能であると判断された。

 6)分子疫学への応用:本検査法がNV/千葉株群のSRSV疫学調査に有用な方法であるのか、又NV/千葉株群以外のSRSVが存在するかどうかを調べるために、流行及び散発例から得られた183検体の急性胃腸炎患者便材料についてNV/千葉株群に属するSRSV遺伝子検索を行った。RT-PCR単独法での遺伝子検出率は約5.5%であったが、ハイブリダイゼーション併用法では陽性検体数は52例でNV/千葉株群SRSV検出率は28%に上昇し、NV/千葉株群SRSVがこれらの急性胃腸炎の一因であることが明かとなった。しかし、私が構築したプライマーではSRSV遺伝子を検出できない流行事例や散発例も存在した(表1、2)。

考察

 我が国では、年間60万人にものぼる急性胃腸炎患者が発生している。しかし、簡単で再現性のよい検査方法がないために、ウイルス性胃腸炎の占める割合についての詳細な報告はなく、公衆衛生上の大きな問題となっている。胃腸炎の起因ウイルスと考えられるSRSVについては、HAstVを除いて培養可能な細胞系や実験動物系がないために、主に電子顕微鏡による形態学的診断に頼らざるを得ない状況にある。

 私は、病原診断の迅速化、効率化と言う観点からも優れた方法であるRT-PCR法に着目してSRSV(千葉株)遺伝子の研究を開始した。ショ糖密度勾配遠心で精製したSRSV(千葉株)の35SRNAを鋳型に、オリゴd(T)12-18をプライマーとしてcDNAを合成した。これをホモホリマー法を用いてpBR322のPst1部位に挿入し、cDNAライブラリーを作製した。挿入遺伝子をサブクローニング後その塩基配列を決定した。今回解読した塩基配列とNVとの比較からNV/千葉株群SRSV検出に用いるRT-PCR法用共通プライマーを構築した。このプライマーを用いて、千葉株と同一流行から得られた検体及びNVボランティアの検体を検査した結果、全ての検体から目的とするPCR増幅産物が検出された。即ち、今回構築したプライマーがNV/千葉株群のSRSVを検出するために有用であることを示している。更に、検出感度を上げるためにサザンブロット・ハイブリダイゼーション法を併用する方法を確立した。

 本検査法がNV/千葉株群のSRSV疫学調査に有用な方法であるのか、又、NV/千葉株群以外のSRSVが存在するかどうかを調べるために、全国各地のウイルス性胃腸炎患者の糞便でNV/千葉株群SRSV遺伝子の検出を試みた。検体中の約30%がNV/千葉株群SRSV遺伝子陽性であり、NV/千葉株群SRSVが急性胃腸炎の一因となっていることが明らかとなった。一方、NV/千葉株群検出プライマーで検出できない検体も存在した事から、NV/千葉株群SRSV以外のウイルス株が我が国に存在する事が判明した。今後さらに種々のSRSVについて遺伝子解析を行い、全ての株に共通するプライマーの開発を進めることが必要であろう。

Fig.1. Detection of RT-PCR products of the SRSV/Chiba Strain and NV in stools by RT-PCR and Southern blot analysis.Fig.2. Comparative study of detection level of RT-PCR products between RT-PCR and Southern bolt analysis.表1 流行事例におけるSRSV千葉遺伝子検出率の比較表2 北九州市の散発事例におけるSRSV千葉株遺伝子検出率の比較
審査要旨

 本研究は、非細菌性嘔吐下痢症の散発及び流行において重要な役割を演じていると考えられている胃腸炎の起因ウイルスである小型球形ウイルス(SRSV、ことにNorwalk Virus(NV),Snow Mountain Virus(SMA),Astrovirus(HAstVs)等)はHAstVsを除き分離培養が出来ないために、患者材料が唯一の供給源でありこの制約によりこれらSRSVの物理科学的、生物学的研究は全く進んでいない。そこで、簡便で特異性の高いSRSV検査方法としてRT-PCR法を開発することを目的に研究を行い、下記の結果を得ている。

 1.1987年の千葉県で発生した急性胃腸炎患者便材料から電子顕微鏡法により直径30-35nm、粒子表面に特異的な粗表面構造を持つNV様SRSV(千葉株と称す)を検出した。本ウイルスの遺伝子は、3’末端側にpoly-Aを持つ一本鎖のRNAウイルスで沈降係数は35sであった。そこで、この遺伝子のcDNAクローンの塩基配列を解読し、現在までにpoly-Aを除いて3’-末端側から1,926bpの塩基配列を決定した。このなかには、208個のアミノ酸をコードするオープンリーディングフレイム(ORF-3)が存在した。これについて、核酸配列データベースおよび蛋白質データベースでホモロジー検索を行った結果、NVとの間に塩基配列で68%、アミノ酸配列で74%の一致率を示し、千葉株の遺伝子RNAはNVと類似した一次構造を持つことを示した。

 2.千葉株及びNVのRNAの3’-末端に共通する部分の合成プライマーを作製し、千葉株及びNVの患者便から抽出したRNAからのcDNAを鋳型にしてPCR法で遺伝子増幅を行った結果、両者ともに明瞭な増幅産物が観察された。

 3.RT-PCR単独法のSRSV検出感度は、電顕法に比較しておよそ100倍高かった。更に、DIG標識プローブを用いたサザンブロット法を併用するとRT-PCR単独法に比較して更に1,000倍感度が上昇した。この時の検体には、電顕法観察で2x106個/mlのウイルス粒子が測定されているので、RT-PCR単独法では104個/ml、サザンブロット併用法では10個/mlのウイルス粒子が検出可能であった。

 4.今回構築したプライマーを用いて、134検体の急性胃腸炎患者便材料についてNV/千葉株群に属するSRSVウイルス遺伝子検索を行った。RT-PCR単独法での遺伝子検出率は7.5%であったが、サザンブロット法を併用した場合にはSRSV検出率は39%に上昇した。

 5.但し、SRSVというカテゴリーには遺伝的に多様なものが含まれている可能性が高く、この方法ですべてのSRSVが検出されるとは考えられない。従って、従来の電子顕微鏡による検索が不必要になったという事を示すものではない。

 以上、本論文は簡便なSRSV検査法を確立するために、病原診断の迅速化、効率化という観点からも優れた方法であるRT-PCR法に着目して本研究を開始し、我が国で発生した急性胃腸炎から得られた千葉株SRSV遺伝子の塩基配列の解析からNVとも共通するプライマーの構築に成功した。又、このプライマーを用いて、各地のウイルス性胃腸炎患者の糞便材料についてSRSVの検出を試みた結果、約40%がSRSV遺伝子陽性であり、SRSVが急性胃腸炎の大きな原因であることを明かにした。本研究は、これまで未知に等しかった、SRSVのうちNV/千葉株に遺伝学的に近縁なるものの生物学的、疫学的研究に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に価するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51048