学位論文要旨



No 213393
著者(漢字) 矢守,麻奈
著者(英字)
著者(カナ) ヤモリ,マナ
標題(和) 脳血管障害症例にみられた音声医学的所見の解析
標題(洋)
報告番号 213393
報告番号 乙13393
学位授与日 1997.05.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13393号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桐谷,滋
 東京大学 教授 加我,君孝
 東京大学 助教授 水野,正浩
 東京大学 助教授 今泉,敏
 東京大学 助教授 貫名,信行
内容要旨 (目的)

 脳血管障害患者の中には、構音・言語機能の障害と併せてあるいは独立に、「声がかすれる」、「高い声が出ない」などといった音声自体の変化・障害を訴えるものがある。しかもその中には、一般外来的な耳鼻咽喉科検査では、喉頭の麻痺やその他の器質的変化が認められないとされる例が多い。また神経心理学の分野では、視床・被殼病変による声量低下が指摘されており、臨床上そのような患者を経験することも多い。しかし、こうした中枢性の神経疾患に付随して現れる音声障害の実態については、耳鼻咽喉科・神経内科・リハビリテーション科等各医学の学際的分野に属しているため、その成立機序・評価法・治療法・訓練法は未だ十分に追究されてはいない。また患者のデータと比較するべき健常者のデータも、加齢による影響の有無まで考慮したものは本邦では未だ少ない。

 本研究では、中枢性の要因によると思われる音声障害の病態を、音声機能および音響分析の両側面から、中高年齢層も含めた健常者と比較し、病巣や言語症状、身体の麻痺や運動機能による影響なども含めて検討し、喉頭所見や音声の聴覚心理的評価とも比較しながら、その実態の把握を目指した。こうした多面的な検討によって、将来中枢性の神経疾患に伴う音声障害に対する有効な評価法、ひいては適切な治療法・訓練法の選択が可能になるものと考える。

(方法)

 脳血管障害男性患者77名(12〜79歳、平均58.3±14.3歳)、健常男性41名(23〜76歳、平均56.1±16.2歳)に対して以下の検査を行なった。

 空気力学的音声機能検査:リオン社ホノラリンゴグラフで1)楽な発声時の呼気流率(Flow)、2)楽な発声時の強さと、最も大きく発声した場合の強さ(強さの最大値)、3)楽な発声時の高さ(Pitch)とその調節幅(声域)を各々測定した。またこれらとは別に4)最長発声持続時間(Maximum Phonation Time,MPT)も測定した。

 音響分析:適切な音声サンプルが採取できた患者57名(19〜79歳、平均58.6±14.2歳)、健常者39名(23〜76歳、平均56.9±16.2歳)について、楽に発声された音声サンプル(持続母音「エ」)をエンジニアリングワークステーションSUNに取り込み、1)加法的雑音成分のレベル(Noise Level)、2)基本周期や振幅のゆらぎ幅(Pitch Perturbation Quotient=PPQ(%)、Amplitude Perturbation Quotient=APQ(%))を求めた。

 また患者に対しては、以下の検査も行なった。

 病巣の同定:患者の病巣は、X線CTまたはMRIにより、脳外科医または放射線科医によって同定された。

 聴覚心理的検査:音響分析の対象とした患者57名の音声サンプルの全体(起声部や終息部も含む)に対して、GRBAS尺度を用いた聴覚心理的嗄声度の評価を行なった。

 喉頭所見:特に嗄声の訴えが強い患者18名について、耳鼻咽喉科に依頼して喉頭側視鏡、ファイバースコープ、ファイバースコープによるストロボスコープを用いた喉頭の視診を行なった。

(結果)

 1)音声機能検査・音響分析の指標中、声域のみが患者・健常者双方で各々加齢と負の相関を示した。すなわち声域は加齢にしたがって縮小し、かつ患者では全ての年代で健常者より有意に縮小していた。しかしその他の指標は年齢と相関を示さず、また健常者・患者内では若年・中年・老年の各年齢層間で有意差が認められなかった。

 2)音声機能検査において、脳血管障害患者は健常者に比して、「Flowの差」の増大、MPTの短縮、強さの最大値の低下、声域の縮小を示した。すなわち脳血管障害患者の音声機能の特徴は、起声時呼気コントロールの障害と負荷発声時の障害であった。

 3)また患者は、楽な発声時においても音響分析的に異常を示し、定常部は概して短く、雑音成分や各種ゆらぎ指標は健常者に比して有意に増大していた。

 4)音声機能検査、音響分析におけるこうした障害は患者の運動機能障害の有無やその重症度、あるいは言語症状の有無やタイプに関わらず観察された。また今回の症例は、全て重篤な呼吸器・循環器疾患の合併は無く、集中的・専門的なリハビリテーション訓練施行可能なもので、職場復帰をしているものも含まれていた。

 5)聴覚心理的評価においてR(粗性)・B(気息性)・A(無力性)を示すものは各々約60%あったが、S(努力性)を示した症例は極めて少なかった。但し日常臨床場面では発声発話の内容によって、あるいは長い発話の起声部や終息部でややSの要素を示す患者が存在した。つまり発声の長さや発話形式によって努力性の程度が変化するものが多かった。

 6)今回喉頭の視診を行なった症例中には、声帯の内外転の明らかな運動障害を示したものはなかったが、仮声帯を中心とした声門上部構造の過内転や、それに伴う声門前後径の見かけ上の短縮傾向、声帯のBowingなどが同時に認められた。ストロボスコープによる所見では、概ね声帯の粘膜波動は大きく、また中には振幅が左右非対称であったり、声門形態が各周期毎に不規則に変動する例も観察された。しかし年齢不相応な著明な萎縮は認められず、ポリープや結節など声門閉鎖不全につながる声帯の器質的異常は見出せなかった。

 7)今回喉頭の視診を受けたのは、嗄声の訴えが強い患者であったが、彼らが喉頭未検査の患者と有意差を示したのは声域とNoise levelのみであった。また健常者と比較した場合、音声機能検査・音響分析の測定値の異常パターンは、上記2指標を含めて喉頭所見(+)群・未検査群共に同一であった。

 8)皮質下損傷群と皮質損傷群の音声機能検査・音響分析の測定値を2群間および健常者と比較すると、2群間で有意差を生じたのは音声機能検査では声域、音響分析ではNoise levelであった。すなわち皮質下群は、皮質群より有意に声域が縮小し、Noise levelが上昇していた。健常者との比較では、両群とも共通して音声機能検査でFlowの差・強さの最大値・声域・MPT、音響分析でNoise levelに有意差を示した。しかし、皮質下群はAPQ・PPQも有意に増加していた。

(考察)

 1)声域は加齢にしたがって縮小し、かつ患者では全ての年代で健常者より有意に縮小していた。その他の指標は年齢と相関を示さず、また健常者・患者内では若年・中年・老年の各年齢層間で有意差が認められなかった。したがって、本研究における音声機能検査・音響分析における患者・健常者間の差は、加齢によるものではなく、疾患に特徴的なものであると考えられる。

 2)脳血管障害にみられた音声障害の直接的原因は、四肢の運動機能障害や言語症状、安静時の呼吸障害ではなく、喉頭の調節障害と呼吸・発声のタイミングの悪さにあると考えるのが妥当である。

 3)脳血管障害症例の喉頭には、喉頭の筋緊張の異常や不規則な声帯波動など独自の障害パターンが観察された。こうした喉頭筋の筋緊張の異常や呼気コントロールの拙劣さが、不規則な声帯波動を引き起こし、ひいては負荷発声時の障害やゆらぎ指標の増大、粗性・気息性・無力性といった聴覚的心理評価など、脳血管障害患者の音声症状に反映しているものと考えられる。

 従来声帯麻痺・喉頭麻痺という語は、末梢性あるいは核性の麻痺を指すことが多かったため、声帯の固定を想起させる傾向がある。しかし中枢性麻痺の多くは核上性であり、筋緊張や運動パターンの異常を伴う「痙性麻痺」を呈する。仮声帯の過内転やBowing、声門形態の不規則な変化は、こうした中枢性麻痺による筋緊張や運動パターンの異常の発現と考えられる。また今回喉頭の視診を受けなかった症例にも、異常所見の認められた症例と同様の声帯運動の異常が存在している可能性が高い。

 4)被殻・視床は皮質延髄路である放線冠や内包とも接しており、皮質下損傷群では両者の損傷を合併している症例が多い。また皮質損傷群においても皮質下が全く損傷していない症例は皆無である。したがって音声障害の責任病巣は、皮質損傷よりも皮質下損傷によるところが大きいと考えられる。

 5)脳血管障害症例に見られる音声障害に対しては、ファイバースコープやファイバースコープによるストロボスコープによって十分に喉頭の筋緊張や運動パターンの様相を観察し、音声機能検査による呼気コントロールの状態、頚部・体幹の姿勢による音声の変化なども考慮しながら、これらに対する包括的なアプローチが必要となろう。

審査要旨

 本研究は脳血管障害症例にみられる音声障害の病態を把握するため、患者の音声機能および音響分析の両側面を中高年齢層も含めた健常者と比較し、喉頭所見や病巣、言語症状との関連について検討したものであり、下記の結果を得ている。

 1.音声機能検査・音響分析の指標中、声域のみが加齢に伴って縮小し、かつ患者では全ての年代で健常者より有意に縮小していた。しかしその他の指標は年齢と相関を示さず、また健常者・患者内では若年・中年・老年の各年齢層間で有意差が認められなかった。したがって、本研究における音声機能検査・音響分析における患者・健常者間の差は、加齢によるものではなく、疾患に特徴的なものであると考えられた。

 2.音声機能検査において、脳血管障害患者は健常者に比して、 「Flowの差」の増大、MPTの短縮、強さの最大値の低下、声域の縮小を示した。また患者の定常部は概して短く、雑音成分や各種ゆらぎ指標は健常者に比して有意に増大していた。音声機能検査、音響分析におけるこうした障害は患者の運動機能障害の有無やその重症度、あるいは言語症状の有無やタイプに関わらず観察された。したがって脳血管障害患者にみられた音声障害の直接的原因は、四肢の運動機能障害や言語症状、安静時の呼吸障害ではなく、呼吸・発声のタイミングの悪さと喉頭の調節障害にあると考えるのが妥当であった。

 3.聴覚心理的評価においてR(粗性)・B(気息性)・A(無力性)を示すものは各々約60%あったが、S(努力性)を示した症例は極めて少なかった。

 4.今回喉頭の視診を行なった症例中には、声帯の内外転の明らかな運動障害を示したものはなかったが、仮声帯を中心とした声門上部構造の過内転や、それに伴う声門前後径の見かけ上の短縮傾向、声帯のBowingが認められた。ストロボスコープによる所見では、概ね声帯の粘膜波動は大きく、また中には振幅が左右非対称であったり、声門形態が各周期毎に不規則に変動する例も観察された。しかし年齢不相応な著明な萎縮は認められず、ポリープや結節など声門閉鎖不全につながる声帯の器質的異常は見出せなかった。こうした喉頭筋の筋緊張の異常や2.で述べた呼気コントロールの拙劣さが、不規則な声帯波動を引き起こし、ひいては音声機能障害やゆらぎ指標の増大、聴覚心理的には粗性・気息性・無力性嗄声といった脳血管障害患者の音声症状に反映しているものと考えられた。

 5.今回喉頭の視診を受けたのは、嗄声の訴えが強い患者であったが、彼らが喉頭未検査の患者と有意差を示したのは声域とNoise levelのみであった。また健常者と比較した場合、音声機能検査・音響分析の測定値の異常パターンは、上記2指標を含めて喉頭所見(+)群・未検査群共に同一であった。したがって今回喉頭の視診を受けなかった症例にも、異常所見の認められた症例と同様の声帯運動の異常が存在している可能性が高いことが示された。

 6.皮質下損傷群と皮質損傷群の音声機能検査・音響分析の測定値を2群間および健常者と比較すると、2群間で有意差を生じたのは音声機能検査では声域、音響分析ではNoise levelであった。すなわち皮質下群は、皮質群より有意に声域が縮小し、Noise levelが上昇していた。健常者との比較では、両群とも共通して音声機能検査でFlowの差・強さの最大埴・声域・MPT、音響分析でNoise levelに有意差を示した。しかし、皮質下群はAPQ・PPQも有意に増加していた。被殻・視床は皮質延髄路である放線冠や内包とも接しており、皮質下損傷群では両者の損傷を合併している症例が多い。また皮質損傷群においても皮質下が全く損傷していない症例は皆無である。したがって音声障害の責任病巣は、皮質損傷よりも皮質下損傷によるところが大きいと考えられた。

 従来声帯麻痺・喉頭麻痺という語は、末梢性あるいは核性の麻痺を指すことが多かったため、声帯の固定を想起させる傾向がある。しかし中枢性麻痺の多くは核上性であり、筋緊張や運動パターンの異常を伴う「痙性麻痺」を呈する。仮声帯の過内転やBowing、声門形態の不規則な変化は、こうした中枢性麻痺による筋緊張や運動パターンの異常の発現と考えられた。

 以上本論文は、脳血管障害症例に見られる音声障害の特性を明らかにし、その治療には十分に喉頭の筋緊張や運動パターンを考慮した包括的な治療アプローチが必要なことを示したもので、医学的に重要な貢献をなすものであり、学位の授与に価するものと考えられる。

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