学位論文要旨



No 213410
著者(漢字) 田所,辰之助
著者(英字)
著者(カナ) タドコロ,シンノスケ
標題(和) 20世紀初頭のドイツ近代建築の発展過程における近代工芸理念成立史の研究
標題(洋)
報告番号 213410
報告番号 乙13410
学位授与日 1997.06.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13410号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 横山,正
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 大野,秀敏
 東京大学 助教授 藤井,恵介
内容要旨 1.本研究の目的

 本研究は、20世紀初頭のドイツにおける近代建築の発展について、19世紀中葉以降の工芸理念の再編という考察軸をもとに、相互の影響関係を検証し、近代建築史におけるこの時期独自の性格とその諸相を明らかにすることを目的とするものである。

 20世紀初頭における近代建築の展開を考察する際、産業革命以降の近代技術の発展をいかにして建築領域の言説として回収していくかという問題が、その理念上の主要な命題を形成してきた。概説的な近代建築史諸研究において、この視点が叙述の中核に位置付けられていることは、たとえばS.ギーディオンの技術史観にもとづく歴史認識、N.ペヴスナーの工学技術の成果に近代建築の源泉を読み取る態度、などに顕著にみられる。とくにドイツにおいては、バウハウスなどへの言及をとおして、ワイマール期を頂点とする近代建築史の枠組が定説化されてきている。その中で技術と芸術の統合という評価項が、歴史叙述の主軸のひとつをなしてきたのである。

 しかし、次に述べるように、近代主義の批判的再検討の動きと呼応して、この命題を巡る研究状況も裾野を広げ、新たな視点の導入が可能となってきた。

 70年代におけるJ.ポゼナーの建築物類型を基礎とした研究、T.ブッデンズィークによるペーター・ベーレンス研究、S.ムテジウスの改革運動研究、そしてJ.キャンベルのドイツ工作連盟研究は、プレ・ワイマール期としての、第一次大戦前のドイツ帝政期における近代建築の様相に光を当てた。80年代に入ると、ブッデンズィークを中心とする研究グループによる相次ぐ展覧会の開催とカタログの発刊、ドイツ6都市の美術館の共催によるDer westdeutsche Impuls 1900-1914展などの成果をはじめとして、この時期の建築単体あるいは特定の建築家に対する個別的な研究も着手されるようになった。さらに近年では、V.M.ランプニャーニの伝統主義の再検討、K.J.ゼンバッハの10年代研究などにより、1900-1914年のヴィルヘルム体制を背景とする近代主義運動前史という枠組が、ドイツにおける近代建築研究の主要な研究領域を形成するようになった。

 こうした研究対象の変化と再評価の試みは、従来の合理主義、機能主義を背景とする一枚岩的な近代建築史観に対する修正を促し、現在では、それを多様性、複合性の中で多面的に描写することが要請されてきているといえる。近代建築の展開において「技術」の果した役割も、即物的な技術史観、繰り返される機械論による造形的な観点からの解釈を越えて、時代的な固有性を考慮したうえでの、理念的、そしてまた個別的解読がなされる必要があると考えられる。

 本論では、こうした視座にたち、近代建築の発展過程における技術と芸術の相関関係を、20世紀初頭のドイツにおいて工芸理念の組み替えが行われる経緯を検証することで、跡付けようと試みるものである。さらに、こうした作業を通して、近代建築運動の基盤がこの時期に潜在的に整備されていった過程を描出することを目的としている。

2.論文構成について

 本論は、1)ヘルマン・ムテジウスを軸とする、ドイツにおける工芸学校教育の改革、2)ペーター・ベーレンスと電機企業AEGの技術者との協同、3)ドイツ工作連盟の設立経緯にみられる芸術家と製造業者の関係の再編、の三つの主題を取り扱い、それぞれについて個別的な検討を加えている。

 英国よりもたらされた工芸理念が、工芸教育という局面においてその問題を露呈させ、つぎに近代技術の生産機構へ建築家が参入していくことでそこにどのような変容がなされ、さらに当時のドイツの社会的、政治的状況を背景としながらいかなる構想のもとに経済的観念と結び付き、理念構築がなされていったのか、といった点について重点的に記述を行っていく。

 こうした方法上の枠組と対応して、本論は序章、結章を含め全5章より構成される。

 第1章「工芸理念の受容-ドイツにおける工芸学校教育の改革」では、ムテジウスによってイギリスからもたらされた工芸理念が、ドイツにおいてどのように受容され、実践されていったのかという点について考察している。従来はムテジウスの著書『英国の住宅』を介して記述されるこの問題を、工芸学校の教育改革に着目することによって、別の角度から再検討を試みる。

 まず、ムテジウスの工芸に対する認識を、大使館付技官としてイギリスに滞在していた時期の雑誌論考、および1902年の著書『様式建築と建築芸術』を典拠として検証する。とくに、「即物的芸術」とムテジウスが呼ぶ新たな芸術像の内実を分析する。つづいて、ドイツにおける工芸学校教育の改革の全体像について整理している。商務省州産業局に配属されたムテジウスの活動と、工芸学校改革の具体的な構想の内容について言及する。そして、教育カリキュラムへの工房コースの導入によって、当時の実践的技術を工芸学校の造形教育の中に取り込もうとした点について述べている。つぎに、ベーレンスによるデュッセルドルフ工芸学校の造形教育を取り上げる。履修カリキュラムの再編、新たな講師の招聘などの点に着目し、実践的な局面における、ムテジウスの構想との照応を検討する。

 第2章「近代生産機構への参入-電機企業AEGにおけるペーター・ベーレンスの活動」では、AEGの生産管理技術者と芸術顧問ベーレンスとの協同に焦点を当てている。技術者からの技術的要請に、ベーレンスがどのように応答し、新たなデザインの方法論に結実させていったのかを検討する。

 はじめに、アーク灯および電気ポットのデザインを取り上げている。まず、電気機器製造工場長M.v.ドリフォードブロヴォルスキーの言説から、AEGの生産システムに関する概要を得る。そして、価格リスト番号の検証、AEGの旧型製品との比較などをとおして、ベーレンスの提案が形態上の刷新にあったわけではないことを指摘した。製品製造の技術的条件を造形の原理に置くことで旧来の「工芸」を拡張する試みがベーレンスによってなされ、それは「工業芸術」という理念に結実する。

 また、AEGタービン組立ホールの設計経緯に着目し、ベーレンスと、AEGの生産管理技術者0.ラシェおよび構造技術者K.ベルンハルトの二人の技術者との協同形態に、独自の性格が観察されることを述べる。そして、この時期に、建築家と技術者が新たな関係を結び、建築家の社会的意義もまた変質しはじめた点を指摘する。

 第3章「社会的枠組の変容-ドイツ工作連盟設立の経緯」では、ドイツ工作連盟の理念的枠組を設立当初に溯り検証する。工作連盟については、1914年のムテジウスとアンリ・ヴァン・ド・ヴェルドの「規格化」をめぐる論争に言及のおよぶ場合が多い。本章では、規格化という問題が顕在化する以前の、とくにその設立の経緯のなかに観察される、工作連盟のもうひとつの考察軸を見い出すものである。

 はじめに、工作連盟設立の端緒となった、1906年の第3回ドイツ工芸展をめぐる状況を整理している。ドレスデン工房の主宰者カール・シュミットが、ムテジウスの『様式建築と建築芸術』を高く評価し、両者の工芸に対する認識がこの時点ですでに共有されたものだったことを指摘する。つぎに、工作連盟設立の直接の契機となったいわゆる「ムテジウス問題」の経緯を検証し、ムテジウス、シュミットらを中心とする芸術家側の勢力と、製造業者側のそれとの対立構造を明らかとした。また、ムテジウスが工作連盟の設立総会出席を、期日直前に突然取りやめた事由を検討する。そして、ドイツ工作連盟資料館に残されている「未使用の工作連盟宣言」と題されたムテジウスの講演草稿を分析し、設立時点における工作連盟の理念的枠組についてまとめる。

 最後に、工作連盟の主導者との関わりをとおして、その理念定立に大きな影響力をもった政治家フリードリヒ・ナウマンについて述べる。貿易振興と内政改革を組み合わせてドイツの民主化をすすめようというナウマンの構想のなかで、「芸術」にどのような役割が要請されていたのかについて、ナウマンの唱導する「工業芸術」を軸に検討する。

 結章「近代工芸理念の定立」では、各章で得られた知見をまとめると同時に、20世紀初頭のドイツという歴史的段階の固有性について言及する。

 「技術と芸術の統合」というドイツ近代建築史の中核をなす理念は、工芸教育の改編(第1章)、近代生産機構への建築家の介入(第2章)、新組織の設立(第3章)という三つの局面において、その枠組を共有するものであった。そして、それぞれの事象をとおして、工芸理念がこの時期に大きな変容を受け、第一次大戦後の近代建築の発展を準備する理念的基盤が潜在的に形成されていったことを明らかにした。

 工芸理念の再編がすすめられていく過程で、19世紀に汎用され、工芸製品の質の低下を招いた「芸術」の解体がなされることによって、近代的な意味での工芸という理念が定立されるという逆説的な事態が観察された。ムテジウスの提唱する「即物的芸術」も、またナウマン、ベーレンスによる「工業芸術」も、「芸術」という枠組に強く疑義を突き付けるものであった。ここに、バウハウスなどの、のちの近代建築の展開へ継承され得る理念的射程を獲得することができたのである。

審査要旨

 本論文は19世紀から20世紀初頭のドイツにおける近代建築の発展について、工芸理念の再編という観点に注目して分析を行なったものである。

 本論文は、1)ヘルマン・ムテジウスを軸とする、ドイツにおける工芸学校教育の改革、2)ペーター・ベーレンスと電機企業AEGの技術者との協同、3)ドイツ工作連盟の設立経緯に見られる芸術家と製造業者の関係の再編、の三つの主題を取り扱い、それぞれについて個別的な検討を加えている。そこに序章と終章が加えられ、全体は5章から構成される。

 まず序章において研究史と方法論の展望を行なったうえで、これまでの近代建築史研究に見られた機能主義、合理主義的視点からの一定の近代建築像を批判的に再検討しうる可能性をのべる。

 第1章「工芸理念の受容-ドイツにおける工芸学校教育の改革」では、ムテジウスによってイギリスからもたらされた工芸理念が、ドイツにおいてどのように受容されていったのかという点について考察している。従来はムテジウスの著書『英国の住宅』を介して記述されてきたこの問題を、ここでは工芸学校の教育改革に着目することによって、別の角度から検討している。その結果、システムとして工芸理念がドイツに根付いてゆく過程を明かにすることに成功した。

 第2章「近代生産機構への参入-電機企業AEGにおけるペーター・ベーレンスの活動」では、AEGの生産管理技術者と芸術顧問ベーレンスとの協同に焦点を当てている。技術者からの技術的要請に、ベーレンスがどのように応答し、新たなデザインの方法論に結実させていったかを検討している。ベーレンスの役割をAEGの旧製品と比較することによって、彼の提案が形態上の刷新にあったのではなく、技術条件を造形の原理に据えることが目標であり、結果として「工業芸術」という理念を生み出すものであったことが論証された。

 第3章「社会的枠組の変容-ドイツ工作連盟設立の経緯」では、ドイツ工作連盟設の設立当初の理念的枠組みを検証している。これは従来、アンリ・ヴァン・ド・ヴェルドによる「規格化」論争を軸にして分析されてきた方法を変え、ドイツ工作連盟設設立の端緒となった1906年の第3回ドイツ工芸展、初期ムテジウスの理念、そして政治家フリードリッヒ・ナウマンの思想について分析を行なってゆくことによって、達成される。ここでも時代の趨勢が「工業芸術」という理念に向かうものであったことが示される。

 終章「近代工芸理念の定立」では、これまでの各章で得られた知見を総合し、20世紀初頭のドイツの固有性を検討する。「技術と芸術の総合」というドイツ近代建築史の中核をなす理念は、工芸教育の改変(第1章)、近代生産機構への建築家の介入(第2章)、新組織の設立(第3章)という三つの局面のそれぞれにおいて、その枠組みを共有するものであった。そして、それぞれの事象をつうじて、工芸理念がこの時期に大きな変容を遂げ、第一次大戦後の近代建築の発展を準備する理念的基盤が潜在的に形成されていったことを明かにした。

 工芸理念の再編がすすめられてゆく過程で、19世紀に汎用され、工芸教育の室の低下を招いた「芸術」の解体がなされることによって、近代的な意味での工芸という理念が定立されるという逆説的な事態が観察された。ムテジウスの提唱する「則物的芸術」も、またナウマン、ベーレンスによる「工業芸術」も、「芸術」という枠組みに強く疑義を突き付けるものであった。ここに、バウハウスなどの、のちの近代建築の展開へ継承され得る理念的な道筋をドイツは獲得したのであった。

 近代建築史研究は、現在もっとも多くの研究者を引きつけている分野のひとつであるが、本研究はドイツにおける事例研究を通じて、近代造形理念の性格を明かにし、その形成過程を検証したものであり、きわめて特徴のあるものである。

 こうした論考は、極めて限定された概念と事象を取り扱いながらも、近代建築の根幹に触れる概念の成立と意義を明かにしており、その成果は大きい。こうした方法は、日本における西欧近代建築史研究の方法に新しい可能性を開いたところがあり、日本における今後の近代建築史研究にとって刺激となるものである。その意味で、本論文が明かにした事実と、そうした事実を明かにするための方法との両面において、本論文は価値がある。

 以上の論考は、建築史研究の成果として極めて有益なものであり、この分野の発展に資するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51049