学位論文要旨



No 213424
著者(漢字) 松本,晃幸
著者(英字)
著者(カナ) マツモト,テルユキ
標題(和) ヒラタケのミトコンドリアDNAの多型性とその遺伝制御に関する研究
標題(洋)
報告番号 213424
報告番号 乙13424
学位授与日 1997.06.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第13424号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,和夫
 東京大学 教授 日比,忠明
 東京大学 教授 古田,公人
 東京大学 教授 寳月,岱造
 東京大学 教授 井出,雄二
内容要旨

 ヒラタケ Pleurotus ostreatus(Jacq.:Fr.)Kummerは世界の温帯地域に広く分布する食用担子菌類の一種で,嗜好性に優れた食品として,また抗腫瘍性物質などを含有する健康食品としても注目されている。我が国におけるヒラタケの栽培は,生産技術の開発・多様化と品種改良により逐年増加し,その生産量は2万トン,金額112億円に達し,我が国の特用林産物の中で重要な地位を占めている。また,本菌の栽培は世界各地でも広く行われており,その生産量は世界の食用担子菌総生産量の24%に及んでいる。しかし,このようなヒラタケ栽培の発展に比べて,その品種改良に関連した遺伝・育種学的基礎研究は限られており,とりわけ細胞質遺伝因子の一つであるミトコンドリアDNA(mitochondrial DNA:mtDNA)の遺伝学的基礎研究は皆無とも言える状況にある。したがって,ヒラタケのmtDNAに関する遺伝学的基礎研究を推進することは,学術上ならびに今後多様化すると考えられる栽培法や市場ニーズに対応しうる新品種育種などの応用上重要な研究課題である。本研究は,これを目的にヒラタケmtDNAについての制限酵素断片長多型(restriction fragment length polymorphism:RFLP)の解析を行い,RFLPを指標とした本菌自然集団間の系統的類縁関係および交配におけるmtDNAの遺伝様式を解明し,さらに,これらの知見に基づき菌糸体生長度や子実体形成能力などのヒラタケ栽培における重要な諸形質におよぼすmtDNAの影響と得られたmtDNAのRFLP情報の育種的有用性について検討した。研究結果の概要は以下の通りである。

I.高等担子菌類からのmtDNAの分離

 高等担子菌類におけるRFLP分析のためのmtDNAの分離法の検討を行い,既往の2,3のmtDNA分離法を組み合わせ,また,一部改変することで新たな分離法を開発した。この方法によって,6種類(ヤナギマツタケ,マイタケ,ウシグソヒトヨタケ,シイタケ,タモギタケおよびヒラタケ)の菌種の凍結乾燥菌糸体1gからRFLP分析に充分な量(20-50g)の純度の高いmtDNAを得ることができた。分離した高等担子菌6種類のmtDNAは各種制限酵素により切断され,それらのRFLP分析では,ヤナギマツタケ,マイタケ,シイタケおよびヒラタケの4種のmtDNAに多型性のあること,ならびにヤナギマツタケ,マイタケおよびタモギタケのミトコンドリアゲノムサイズはそれぞれ,80,127および64kbであることを初めて明らかにすることができた。さらに,上述の分離法を一部改良することによってプロトプラストから完全な環状のmtDNA分子の分離が可能であり,担子菌類では初めてそれを電子顕微鏡下で捉えることができた。このように,本研究で確立したmtDNA分離法は高等担子菌類の分子遺伝学的研究に十分活用できる効率的かつ汎用性に優れたものであると判断した。

II.ヒラタケの自然集団における遺伝的多様性

 ヒラタケの自然集団における遺伝的多様性の程度を推察する目的で,北半球において地理的分布の異なる34の野生菌株間(日本産18株,韓国産1株,ヨーロッパ産10株およびアメリカ産5株)の系統的類縁関係をmtDNAのRFLPとアイソザイムを指標として検討した。その結果,供試した34の野生菌株のmtDNAは制限酵素BamHI,EcoRIおよびEcoRVによる消化によってそれぞれ,18,19および19の異なるRFLPパターンを示し,これら3酵素のRFLPパターンを組み合わせることによって22種類のmtDNAフェノタイプに類別できた。22種類のフェノタイプは各フェノタイプ間の非類似度係数に基づいたUPGMA(unweighted pair-group method using arithmetic means)法およびFicth-Margoliash法による系統的類縁関係の解析により,それぞれ極東アジア産,ヨーロッパ産およびアメリカ産の菌株で得られたフェノタイプにより構成される3つのグループに大別され,自然集団の地理的分布の違いと系統的類縁関係に密接な関係のあることが示唆された。5酵素(アルコール脱水素酵素,酸性フォスファターゼ,エステラーゼ,ラッカーゼおよびリンゴ酸脱水素酵素)についての等電点電気泳動法によるアイソザイム分析では,全菌株がそれぞれ固有の電気泳動フェノタイプを示し,それらフェノタイプ間の非類似度係数に基づいた系統的類縁関係の解析はmtDNAのRFLPを指標とした解析とほぼ一致する結果を示した。以上のことから,ヒラタケは核DNAよびmtDNAの両方からみて地理的分布域に対応する遺伝的に極めて多様ないくつかの自然集団を包含していることが明らかとなった。

III.ヒラタケにおけるmtDNAの伝達様式

 和合性一核菌糸体間の交配におけるmtDNAの伝達様式を検討した結果,交配コロニーの接触部を除いた部分より分離される新生二核菌糸体はすべて核受け入れ側一核菌糸体のmtDNAを保有しており,mtDNAは基本的には片親遺伝(uniparental inheritance)であることが示された。加えて,上記の交配接触部に形成される新生二核菌糸体のmtDNA型は,両親mtDNAの組換えによって生じた新しいRFLPパターンを示すmtDNA(組換え体mtDNA)を保有することがわかった。接触部でのmtDNAの組換え現象は頻繁に認められ,また,特定の交配組み合わせに限定されなかったことから,ヒラタケでは片親遺伝に加え,交配接触部においては両親mtDNAの組換えによる両親遺伝(biparental inheritance)が普遍的に起きていることが判明した。さらに,交配コロニーの両親一核菌糸体接触部より発生した子実体の中に組換え体mtDNAを保有するものが認められたことから,自然界におけるmtDNAの組換え体の子孫への伝達の可能性が示されるとともに,ヒラタケの自然集団で認められたmtDNAの多型性と交配における組換え体mtDNAの出現との密接な関係が示唆された。

IV.ヒラタケmtDNAのフィジカルマップ(制限酵素切断点地図)とその組換え体の解析

 RFLPの異なる2種類のmtDNAについてフィジカルマップを作成し,ヤナギマツタケ由来の3種類のミトコンドリア遺伝子,チトクロームオキシダーゼ・サブユニット1,25S-リボゾームDNAおよび18S-リボゾームDNAをマッピングすることで,それらのゲノム構造上の配置を比較したところ,両mtDNAゲノムにおけるRFLPの違いとは対照的に3種類の遺伝子の配列順序は極めて類似性の高いことが判明した。また,両mtDNAゲノムとその組換え体mtDNAゲノムのフィジカルマップを比較することにより,mtDNAゲノム上の組換え部位は少なくとも2-3箇所あることが推定された。

V.mtDNAに認められる多型性の育種的意義

 ヒラタケの育種の効率化に寄与する知見を得ることを目的として,mtDNAのRFLPの差異が菌株の表現形質に影響しうるかを検討した。既存栽培品種のmtDNAを核構成を変えることなく異なるRFLPのmtDNAに置換した細胞質置換二核菌糸体株を作成し,それらの間で種々の生物学的性質について比較分析した結果,元の栽培品種(元株)と細胞質置換二核菌糸体株との対峙培養において,mtDNAのRFLPの違いだけでは帯線形成(個体識別反応)は誘導されないことがわかった。等電点電気泳動分析によって得られた細胞質置換二核菌糸体株のエステラーゼおよびリンゴ酸脱水素酵素のアイソザイムパターン,ならびに可溶性蛋白質の泳動パターンは元株のパターンと一致したことから,mtDNAの置換はこれらアイソザイム等の遺伝的背景に影響をおよぼさないことが示唆された。また,細胞質置換二核菌糸体株と元株の菌糸体生長度および菌糸体コロニーの形態,栽培における菌糸体生長,子実体の形成能力および子実体の形態的特徴を比較検討したところ,これらの諸形質にmtDNAのRFLPの違いに起因すると考えられる差異は認められず,さらに,細胞質置換二核菌糸体株と元株の菌糸体を混合した種菌を用いた栽培においても上記の諸形質への影響は認められなかった。しかしながら,ヒラタケmtDNAのクロラムフェニコール耐性変異は菌糸体生長度や子実体の形態など,菌株の表現形質に大きな影響をおよぼすことが明らかとなった。以上のことから,mtDNAの遺伝子領域に起こる変異は本菌の遺伝的背景に変化をもたらすと考えられるが,mtDNAのRFLPの違いがヒラタケ栽培において重要な上述の諸形質におよぼす影響は極めて小さいものであると考えられた。

 mtDNAのRFLP情報の育種への利用の可能性を検討するため,ヒラタケ自然集団の中でmtDNAのRFLPから見て遠縁あるいは近縁の関係にある菌株を用いて交雑株を作出し,それらの間で子実体の生産性を比較した。その結果,遠縁の関係にある組み合わせほど生産性に優れたF1を作出し易い傾向が示された。また,高い子実体収量値を示したF1株の自植株では,親のF1株を越える子実体収量を示したものはなく,形態的に劣悪な子実体が30%程度の頻度で認められ,明瞭な自殖弱勢が示された。このことから,品種改良によって子実体の生産性を高める上で,菌株間の遺伝的関係,すなわち遺伝的に遠縁の関係にある組み合わせの交雑を重視する育種プログラムが重要であり,その意味で本菌自然集団は育種素材として有用であり,これらを育種場面に導入する際,mtDNAのRFLPは菌株間の遺伝的類縁関係を把握するための一つの有効な分子マーカーとして利用できるものと判断した。

 以上を要するに,本研究はヒラタケのmtDNAのRFLPを指標とし,従来不明であった本菌の自然集団間の系統的類縁関係および交配におけるmtDNAの伝達様式を明らかにし,それらの知見に基づき本菌の細胞の形質発現におよぼすmtDNAの影響,ならびに育種へのmtDNAのRFLP情報の利用について遺伝・育種学的見地から検討を加えたものである。

審査要旨

 ヒラタケPleurotus ostreatusは、世界の温帯地域に広く分布する食用担子菌で、嗜好性に優れ、また抗腫瘍性物質などを含有する食品としても注目され、我が国の特用林産物の中で重要な地位を占めている。ヒラタケの栽培は世界各地で広く行われており、その生産量は世界の食用担子菌総生産量の24%に及んでいる。しかし、このようなヒラタケ栽培の発展に比べて、その品種改良に関連した遺伝・育種学的研究は限られており、とりわけ細胞質遺伝因子の一つであるミトコンドリアDNA(mtDNA)の遺伝学的研究は乏しい。今後多様化すると考えられる栽培法や市場ニーズに対応し得る新品種育種などにとって、ヒラタケの遺伝学的研究は今後の重要な課題である。

 本論文は、ヒラタケmtDNAについて制限酵素断片長多型(RFLP)の解析を行い、自然集団間の系統的類縁関係および交配における遺伝様式を解明したもので、6章よりなっている。

 第1章では、高等担子菌類からのmtDNAの分離法について検討を加え、既往のmtDNA分離法を一部改変して従来の5倍の高収率で分離する方法を確立し、この方法を用いてヒラタケなど6菌種の凍結乾燥菌糸体から純度の高いmtDNAを得ることができた。これらのRFLP分析から、ヒラタケ、ヤナギマツタケ、マイタケ、シイタケの4種のmtDNAに多型性のあること、ならびにヒラタケ、ヤナギマツタケ、マイタケ、タモギタケのミトコンドリアゲノムサイズはそれぞれ76、80、127、64kbであることを明らかした。また、担子菌類としては初めて電子顕微鏡下で完全な環状のmtDNAを捉えた。

 第2章では、ヒラタケの自然集団における系統的類縁関係について、北半球に分布する野生株を用いて調べた結果、供試した34野生株のmtDNAはRFLPパターンの類似性に基づいて極東アジア産、ヨーロッパ産およびアメリカ産の3つの系統的類縁グループに大別されることが示された。そして、自然集団の地理的分布と系統的類縁関係に密接な関係のあることが示唆された。

 第3章では、ヒラタケの和合性一核菌糸体間の交配においてmtDNAの伝達様式を検討した結果、交配接触部付近の菌糸体ではmtDNAは基本的には片親遺伝であり、新生二核菌糸体のmtDNA型は両親mtDNAの組換えによって生じた新しいRFLPパターンを示すことが明らかにされた。さらに交配接触部では、片親遺伝に加えて、両親遺伝が普遍的に生じていることが示された。

 第4章と第5章では、ヒラタケmtDNAのフィジカルマップ(制限酵素切断点地図)の作製とその組換え体の解析を行い、mtDNAに認められる多型性の育種的意義について検討を加えた。その結果、mtDNAのRFLPの違いがヒラタケ栽培における主要な諸形質に及ぼす影響は小さいものと考えられた。また、mtDNAのRFLP情報の育種への利用を検討するために、ヒラタケ自然集団の中でRFLPから見て遠縁あるいは近縁の関係にある菌株を用いて交雑株を作出し、それらの間で子実体の生産性を比較した結果、遠縁の関係にある組み合わせほど生産性に優れたF1を作出し易い傾向が示された。このことから、品種改良によって子実体の生産性を高める上で、菌株間の遺伝的関係、すなわち遺伝的に遠縁の関係にある組み合わせの交雑を重視する育種プログラムが重要であり、これらを導入する際にmtDNAのRFLPは菌株間の遺伝的類縁関係を把握するための一つの有効な分子マーカーとして利用できるものと判断された。

 第6章は、総合考察にあてられ、従来不明であったヒラタケの自然集団間の系統的類縁関係および交配におけるmtDNAの伝達様式、そしてこれらの知見に基づきヒラタケの細胞の形質発現におよぼすmtDNAの影響、ならびに育種へのmtDNAのRFLP情報の利用について、遺伝・育種学的見地からの考察が加えられている。

 以上のように、本研究は学術上のみならず応用上も価値が高い。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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