本研究は、進行性の神経変性疾患である家族性アルツハイマー病(ア病)の一型(A アミロイド前駆体APPの第642V残基のI、F、Gへの突然変異)における神経脱落の分子機構を明らかにするため、これら変異体を、一過性導入系を用いて、マウス培養神経細胞F11に発現し誘導される細胞死の解析を行ったものであり、以下の結果を得ている。 1.3種の家族性ア病V642型APP変異体は、F11細胞に発現されると、DNAの断片化を惹起する。正常型APPや、細胞内領域H657-K676を欠くV642I APP変異体は、有意なDNA断片化を誘導しないので、V642変異体による細胞障害は、人工的なものではなく、神経細胞内機構を介するものと考えられた。 2.合成A 蛋白あるいはV642I APPを発現したF11培養上清の処理、家族性ア病APP変異体導入F11細胞の上清中A 蛋白の濃度測定、細胞内領域を欠くV642I APPを用いた検討、更には、V642I変異を持ちA 領域の第41と第42残基目を欠損したAPP変異体の検討から、家族性ア病APP変異体による神経細胞死には、分泌A の神経毒性は中心的に介在しないことが示された。 3.これに対して、Gi/Go蛋白のインヒビターである百日咳毒素を用いた実験、Go結合配列を欠くV642I APP変異体を用いた検討等により、同神経細胞死には、細胞内でAPPと直接相互作用して働く、神経特異的G蛋白Goが介在する証拠が得られた。 4.F11細胞では、APP変異体は強発現されており、以上の結果を直ちに実際の家族性ア病の原因に結び付けることはできない。しかし、わずか1残基のみ異なる野生型APPでは、同様の強発現にもかかわらず細胞死は惹起されない為、APP膜貫通領域の1残基変異が神経細胞の細胞死経路を入力することが分かる。同様に、膜貫通領域の家族性ア病変異がAPPにあっても、細胞内領域の一部を失うだけで、細胞死を誘導できなくなる事実も又、本実験系における家族性ア病APP変異体による神経細胞死が分子生物学的基盤に支えられた現象であることを示唆している。家族性ア病患者では、変異APPは原則として1コピーである事実を考慮すると、APP変異体の発現量と細胞死の関係の検討は重要である。この検討は、今後、変異体の誘導発現系によってなされねばならない。 5.本研究に先行する蓄積された研究は、以下の点を明らかにしてきた。(i)正常型APPは膜貫道型蛋白として、細胞外ドメインに起きたリガンドの結合を、細胞内情報伝達系に伝える受容体として機能する。(ii)正常型APPの既知の細胞内シグナルの一つはGoの選択的な活性化である。(iii)3種の家族性ア病V642型APP変異体は、いずれも恒常的にGoを活性化する異常機能を有し、その場合のGo共役ドメインは正常型APPと同一である。本研究は、これらの先行研究の差し示す結論と合致するばかりでなく、F11神経細胞内に発現した家族性ア病型APP変異体は、神経細胞のGo蛋白の恒常的活性化を誘導することによって、その結果DNA断片化を伴う細胞死を遂行することを示している。 以上、本論文は、培養神経細胞に遺伝子導入する手法によって、家族性ア病V642型APP変異体が、細胞内のシグナル伝達装置を使って細胞死を誘導することを明らかにした。本研究は、これまで未知に等しかった、アルツハイマー病の原因蛋白が誘導する神経細胞死における細胞内情報伝達機構の意義を明らかにし、アルツハイマー病の原因機構や治療法の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。 |