本論文では、マルチチャンネルフーリエ赤外分光法の開発、開発した装置の時間分解測定への応用研究、そして信号対雑音比の理論的考察について述べられている。 近年の高性能なマルチチャンネル検出器の発達に伴い、紫外可視領域分光では分散型分光器と組み合わせたマルチチャンネル分散型分光法が広く使用されるようになってきた。この分光法は一度に波長情報を得ることができ、分散素子を走査するための機械的駆動部分がないため、高い信頼性を持つ。しかし、赤外領域に感度をもつマルチチャンネル検出器が存在しなかったことにより、赤外領域ではフーリエ変換赤外分光法が回折格子を使った分散型赤外分光法を凌駕している。 近年、半導体製造技術の向上に伴い、いくつかの赤外マルチチャンネル検出器が実用化された。これらの検出器を用いて赤外分光をマルチチャンネル化するためには、分散型分光法は必ずしも最適ではない。分散型分光法は細いスリットを必要とするため、光の利用効率という点で問題があり、また分散素子に回折格子を用いた場合高次の回折光が低次の回折光に重なるため、一度に測定することができる波長範囲に制限が加わる。これらの問題は、紫外可視よりも赤外領域で顕在化する。紫外可視領域の検出器は単一光子を計測できるほど高性能であるため、光の利用効率という問題は赤外領域ほどには問題にならない。また400-700nmの可視領域のみならば、高次の回折光の影響なく一度にすべての波長情報を得ることができる。一方、25-2.5mの中赤外領域では10倍もの波長差があるため、回折格子分光器では全波長を一度に測定することはできず、必ず波長選択フィルターを交換しなければならない。 マルチチャンネルフーリエ分光法は、マルチチャンネル検出法とフーリエ分光法を組み合わせた方法で、ミラーの走査を必要としないフーリエ分光法である。したがって、マルチチャンネル分散型分光法と同様に高い信頼性を有し、高次の回折光による影響がなく、また通常のフーリエ分光法以上の光学的スループットを有する光学系を構成することができるなどの特徴を持ち、赤外分光のマルチチャンネル化に最も適していると考えられる。本研究では、PtSi赤外検出器を用いて、マルチチャンネルフーリエ赤外分光装置を開発した。 第一章では、これまでに研究されてきたマルチチャンネルフーリエ変換分光法で用いられる干渉計について述べられている。また、赤外マルチチャンネル検出器の開発の展開についても述べられている。 第二章では、著者らが初めて試作したマルチチャンネルフーリエ赤外分光器について述べられている。この分光器は、サバール板複屈折干渉計と4096素子のPtSiショットキーバリア型マルチチャンネル赤外検出器から成る。光学系、及び偏光を利用した照射むら補正等について述べられ、また実際に測定したポリスチレンやPETフィルムの吸収スペクトルが示されている。開発した分光器の光学系の大きさは20cm x 6cm程度とコンパクトで、分解能は27.6cm-1、測定可能波数範囲は5000-2000cm-1であった。 第三章では、第二章の結果に基づき新たに設計・製作した、三角光路コモンパス干渉計を用いたマルチチャンネルフーリエ赤外分光器について述べられている。この新しいシステムでは、4500-2500cm-1の波数範囲を波数分解能13cm-1で、単発現象を5.14msの時間分解能で観測できるという特徴を持つ。5.14msの露光時間で吸光度変化0.01が観測でき、第二章で試作した装置に比べて信号対雑音比で約10倍向上し、実用に十分な性能が得られた。その性能を検証するために、開発したシステムによって飽和炭化水素(n-アルカン)の相変化測定を行い、固相-固相、固相-液相間の相変化を時間分解能5-50msで観測した。 第四章では、第三章で開発した分光器を用いて、再結晶過程を実時間観測した結果について述べられている。レーザー光入射による温度ジャンプを用いて、良く配向したデカン酸薄膜の表層(130層)での融解、再結晶過程を観測した。再結晶化過程はミリ秒の時間分解能で十分観測することができた。アルカン部分のゴーシュ・トランス変化(2800-3000cm-1のCH伸縮振動でモニターした)と、分子全体の配向(3100cm-1のOH伸縮振動)が同時に観測された。CH及びOH伸縮振動の時間的変化は、温度変化後(レーザー光入射後)200msの間大きく異なっており、500ms後からは二つの変化は同一であった。ゴーシュ・トランス異性化が再結晶化の前に起こっていることを示唆し、再結晶は液体中のオールトランス型を通して起こることを示しているものと考えらる。 第五章では、マルチチャンネルフーリエ分光法と、他の手法(シングルチャンネル分散型分光法、マルチチャンネル分散型分光法、シングルチャンネルフーリエ分光法)との信号対雑音比を理論的に考察した結果について述べられている。マルチチャンネルフーリエ分光法の信号対雑音比は、その大きな光学的スループットを十分に生かした時に、他の分光法より大きいことが示された。しかしながら、光学的スループットが同一の時には、他の分光法より優れてはいない。 本研究で開発した新しいマルチチャンネルフーリエ赤外分光システムは、ミリ秒の時間分解能ではあるが単発現象の赤外吸収変化を観測することが可能であり、相変化等の繰り返しが不可能な過渡現象の観測に有効である。しかしながら、観測可能な波数領域は2500-4500cm-1に限られている。1000-2000cm-1の指紋領域、あるいはそれ以下の波数領域まで観測できるマルチチャンネル検出器は未だ研究段階であるが、これらの検出器が実用化された段階でマルチチャンネルフーリエ分光は、その性能を十分に発揮することができるようになると思われる。そのとき、本研究が、赤外分光のマルチチャンネル化の指針となることが期待できる。 |