学位論文要旨



No 213441
著者(漢字) 橋本,守
著者(英字)
著者(カナ) ハシモト,マモル
標題(和) マルチチャンネルフーリエ赤外分光とその時間分解測定への応用
標題(洋) Multichannel Fourier-transform Infrared Spectroscopy and Its Application to Time-resolved Measurement
報告番号 213441
報告番号 乙13441
学位授与日 1997.06.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第13441号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 桜井,捷海
 東京大学 助教授 遠藤,泰樹
 東京大学 助教授 永田,敬
 東京大学 助教授 古川,行夫
内容要旨

 本論文では、マルチチャンネルフーリエ赤外分光法の開発、開発した装置の時間分解測定への応用研究、そして信号対雑音比の理論的考察について述べられている。

 近年の高性能なマルチチャンネル検出器の発達に伴い、紫外可視領域分光では分散型分光器と組み合わせたマルチチャンネル分散型分光法が広く使用されるようになってきた。この分光法は一度に波長情報を得ることができ、分散素子を走査するための機械的駆動部分がないため、高い信頼性を持つ。しかし、赤外領域に感度をもつマルチチャンネル検出器が存在しなかったことにより、赤外領域ではフーリエ変換赤外分光法が回折格子を使った分散型赤外分光法を凌駕している。

 近年、半導体製造技術の向上に伴い、いくつかの赤外マルチチャンネル検出器が実用化された。これらの検出器を用いて赤外分光をマルチチャンネル化するためには、分散型分光法は必ずしも最適ではない。分散型分光法は細いスリットを必要とするため、光の利用効率という点で問題があり、また分散素子に回折格子を用いた場合高次の回折光が低次の回折光に重なるため、一度に測定することができる波長範囲に制限が加わる。これらの問題は、紫外可視よりも赤外領域で顕在化する。紫外可視領域の検出器は単一光子を計測できるほど高性能であるため、光の利用効率という問題は赤外領域ほどには問題にならない。また400-700nmの可視領域のみならば、高次の回折光の影響なく一度にすべての波長情報を得ることができる。一方、25-2.5mの中赤外領域では10倍もの波長差があるため、回折格子分光器では全波長を一度に測定することはできず、必ず波長選択フィルターを交換しなければならない。

 マルチチャンネルフーリエ分光法は、マルチチャンネル検出法とフーリエ分光法を組み合わせた方法で、ミラーの走査を必要としないフーリエ分光法である。したがって、マルチチャンネル分散型分光法と同様に高い信頼性を有し、高次の回折光による影響がなく、また通常のフーリエ分光法以上の光学的スループットを有する光学系を構成することができるなどの特徴を持ち、赤外分光のマルチチャンネル化に最も適していると考えられる。本研究では、PtSi赤外検出器を用いて、マルチチャンネルフーリエ赤外分光装置を開発した。

 第一章では、これまでに研究されてきたマルチチャンネルフーリエ変換分光法で用いられる干渉計について述べられている。また、赤外マルチチャンネル検出器の開発の展開についても述べられている。

 第二章では、著者らが初めて試作したマルチチャンネルフーリエ赤外分光器について述べられている。この分光器は、サバール板複屈折干渉計と4096素子のPtSiショットキーバリア型マルチチャンネル赤外検出器から成る。光学系、及び偏光を利用した照射むら補正等について述べられ、また実際に測定したポリスチレンやPETフィルムの吸収スペクトルが示されている。開発した分光器の光学系の大きさは20cm x 6cm程度とコンパクトで、分解能は27.6cm-1、測定可能波数範囲は5000-2000cm-1であった。

 第三章では、第二章の結果に基づき新たに設計・製作した、三角光路コモンパス干渉計を用いたマルチチャンネルフーリエ赤外分光器について述べられている。この新しいシステムでは、4500-2500cm-1の波数範囲を波数分解能13cm-1で、単発現象を5.14msの時間分解能で観測できるという特徴を持つ。5.14msの露光時間で吸光度変化0.01が観測でき、第二章で試作した装置に比べて信号対雑音比で約10倍向上し、実用に十分な性能が得られた。その性能を検証するために、開発したシステムによって飽和炭化水素(n-アルカン)の相変化測定を行い、固相-固相、固相-液相間の相変化を時間分解能5-50msで観測した。

 第四章では、第三章で開発した分光器を用いて、再結晶過程を実時間観測した結果について述べられている。レーザー光入射による温度ジャンプを用いて、良く配向したデカン酸薄膜の表層(130層)での融解、再結晶過程を観測した。再結晶化過程はミリ秒の時間分解能で十分観測することができた。アルカン部分のゴーシュ・トランス変化(2800-3000cm-1のCH伸縮振動でモニターした)と、分子全体の配向(3100cm-1のOH伸縮振動)が同時に観測された。CH及びOH伸縮振動の時間的変化は、温度変化後(レーザー光入射後)200msの間大きく異なっており、500ms後からは二つの変化は同一であった。ゴーシュ・トランス異性化が再結晶化の前に起こっていることを示唆し、再結晶は液体中のオールトランス型を通して起こることを示しているものと考えらる。

 第五章では、マルチチャンネルフーリエ分光法と、他の手法(シングルチャンネル分散型分光法、マルチチャンネル分散型分光法、シングルチャンネルフーリエ分光法)との信号対雑音比を理論的に考察した結果について述べられている。マルチチャンネルフーリエ分光法の信号対雑音比は、その大きな光学的スループットを十分に生かした時に、他の分光法より大きいことが示された。しかしながら、光学的スループットが同一の時には、他の分光法より優れてはいない。

 本研究で開発した新しいマルチチャンネルフーリエ赤外分光システムは、ミリ秒の時間分解能ではあるが単発現象の赤外吸収変化を観測することが可能であり、相変化等の繰り返しが不可能な過渡現象の観測に有効である。しかしながら、観測可能な波数領域は2500-4500cm-1に限られている。1000-2000cm-1の指紋領域、あるいはそれ以下の波数領域まで観測できるマルチチャンネル検出器は未だ研究段階であるが、これらの検出器が実用化された段階でマルチチャンネルフーリエ分光は、その性能を十分に発揮することができるようになると思われる。そのとき、本研究が、赤外分光のマルチチャンネル化の指針となることが期待できる。

審査要旨

 赤外線吸収スペクトルは、「分子の指紋」ともよばれ、分子の構造を鋭敏に反映する。分子構造の変化を時間を追って捉えることができる時間分解赤外分光法は、物質変化の過程を分子レベルで調べる有力な研究手法として、とくにここ10年で飛躍的に発展した。フェムト秒からミリ秒の時間領域にわたって、さまざまな方式の時間分解赤外分光法が競って開発されたが、これらの手法の対象は繰り返しが可能な現象に限られていた。本論文提出者が開発したマルチチャンネルフーリエ赤外分光法は、繰り返しが原理的に不可能な単発現象に関する時間分解赤外スペクトルを、実時間で同時測定することができる手法であり、時間分解赤外分光法の適用範囲をさらに拡大する第一歩となった。

 本論文は5つの章からなる。第1章では、論文全体への導入として、マルチチャンネルフーリエ変換分光法の原理と用いられる干渉計について述べられている。

 第2章では、サバール板を用いたプロトタイプの製作について述べられている。赤外分光の標準試料であるポリスチレンについて測定を行った結果、分解能、感度ともに実用目的には不十分であるという結果が得られた。

 第3章では、前章の予備的実験の結果をふまえ、三角光路コモンパス干渉計を用いた実用型マルチチャンネルフーリエ赤外分光計の設計、製作、性能評価が述べられている。得られた波数分解能は約13cm-1で理論的に予測された値と良い一致を示した。吸光度0.01から1の範囲で良い直線性が得られ、歪のない正確なスペクトルが得られることがわかった。アニリンの測定結果から、開発されたマルチチャンネルフーリエ赤外分光計を用いると、測定時間5ミリ秒で、従来のフーリエ変換赤外分光計で1秒の測定時間を要したものと同等のスペクトルが得られた。以上のことから、開発されたマルチチャンネルフーリエ赤外分光計は、波数分解能、感度ともに十分実用レベルにあり、5ミリ秒の時間分解能で、単発現象を時間分解測定する能力を有することが示された。

 第4章では、開発されたマルチチャンネルフーリエ赤外分光計の単発過渡現象への応用として、脂肪酸の融解/再結晶過程をレーザー誘起温度ジャンプ法で調べた実験の結果が述べられている。実験結果の解析に不十分な点が残されているが、融解直後では、液体相におけるゴーシュ/トランスの異性化速度と再結晶化による配向の回復の速度が異なるという興味深い結果が得られた。

 第5章では、マルチチャンネルフーリエ分光法におけるS/N比を、他の分光手法、シングルチャンネル分散法、マルチチャンネル分散法、シングルチャンネルフーリエ法におけるS/N比と理論的に比較している。光源の大きさに制限がない場合には、マルチチャンネルフーリエ分光法が最大のS/N比を与えることを結論している。

 以上のように本論文提出者は、新しい分子分光手法としてのマルチチャンネルフーリエ赤外分光法の開発(設計、製作、性能評価)を行い、実用レベルに達した分光計を完成させ、それが単発過渡現象のミリ秒時間分解赤外測定に極めて有用であることを示した。これらの業績は、分子分光学の分野の発展に少なからず寄与した。

 よってと本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認定される。

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