日本中世史の研究は、京都や畿内を中心に進められ、関東・東北などの東国社会の研究の蓄積は比較的乏しい。本書はこうした状況を克服するため、室町期の関東に注目し、この時代の関東地方の社会の構造を、鎌倉府(鎌倉に所在し関東を統括した政権)や領主(武家や寺院)・百姓など、多くの問題に目配りしながら明らかにすることを目的としている。構成は「関東武士」「鎌倉府」「在地社会」の三部からなる。 第1部「関東武士」では、足利氏-鎌倉府と関東各地に盤踞した武家領主層(主として大名層)の関係を論じている。第1章「南北朝内乱と関東武士」は鎌倉府と領主層の関係を形成する起点となった南北朝内乱を論じたもので、内乱の中で関東の大名層がどのように動き、将軍足利尊氏や足利政権との間にいかなる関係を構築したかを検討している。建武の動乱(1335〜38)では関東の大名・国人層は足利方(小山・佐竹・結城など)・天皇方(千葉・宇都宮など)に別れて活発に動き、観応の擾乱(1349〜51)では大名層はみな尊氏に属してその勝利に貢献した。尊氏と彼らとの主従関係はここに確定し、文和3・4年(1354・55)の畿内の合戦でも彼らは尊氏に従い活躍する。尊氏は関東の武士たちの要求(北条氏によって奪われた所領の回復や、守護職の獲得)を一定度受け入れつつ、彼らの信望を得てその統率を果たしていたが、これは鎌倉の足利政権(鎌倉府)の基盤を弱体化させる結果ももたらした。そして尊氏が死去すると、鎌倉公方の足利基氏は宇都宮氏らを抑圧し、上杉氏を復帰させることで体制の転換をはかり、結果的に関東の大名層は鎌倉府の政権内部からは排除され、鎌倉府は足利-上杉氏の独裁政権として外様の大名層に対峙することになる。足利氏の政権は、内乱の勝利のために関東の大名たちを尊重したが、やがて自らの基盤確保のために大名たちを抑圧することになったのである。 第1章は関東武士全体を論じたものであるが、個々の武家に限って鎌倉府との関係を論じたのが第2章と第3章である。第2章「千葉氏と足利政権」は南北朝内乱の中での千葉氏の動向を追い、足利尊氏との関係を探ったもので、観応の擾乱後千葉氏胤が上総守護職を獲得するが、やがて尊氏の重臣の佐々木導誉によってこれを奪われてしまったことなどを指摘した。足利政権にとって千葉氏は、協力を得るために一定の厚遇はするが、その勢力拡張は阻止すべき存在であったのである。 第3章「三浦氏と鎌倉府」は相模の三浦氏と鎌倉府の関係を論じたもので、三浦氏がこの時代相模の守護職を獲得し、それが大きな意味をもっていたこと、しかしその所領は三浦半島の南端部に局限されたことを明らかにした。三浦氏の場合も、鎌倉府は一定の権利は与えるがその勢力伸張は阻止するという、そういう政権であったのである。 第2部「鎌倉府」では、室町期の関東を統括した鎌倉府の実態に迫る。第4章「鎌倉府の訴訟手続」は、所領をめぐる訴訟の受理・審理・裁決の手続きについて明らかにしたもので、安定期の鎌倉府において毎月3回の式日評定が開催され、ここで訴訟の最終裁決を行なっていたこと、訴訟の受理は関東管領や公方の近臣が行い、担当奉行の審理を経て評定に上程されたことなどを指摘した。この評定の構成員は公方と上層の奉公衆、関東管領とその一族(上杉氏)であり、彼らこそ鎌倉府の政治を運営した中枢部にあたる。安定期の鎌倉府においては、公方権力と管領権力が並立し、協同して政務を処理していたのであり、評定は両者の分裂をくいとめる装置として機能していたのである。 第5章「鎌倉府の奉公衆」は、鎌倉公方権力の基盤となった奉公衆の検出を行い、その編成過程を展望したものである。種々の史料を利用して74氏の奉公衆を検出したが、その中身は出自によってA足利氏一門・B足利氏根本被官・C鎌倉幕府官僚出身・D関東の国人出身に分かれる。このうちA足利氏一門の吉良・渋川・一色氏らやB足利氏根本被官の上杉・高・梶原・海老名・木戸・野田らと、C鎌倉幕府官僚出身の二階堂・長井・町野氏は、鎌倉府の初期から公方の近臣として組織されており、足利基氏の時代の奉公衆の主力は彼ら、とくに根本被官層であった。ところが次の氏満の時代になると関東各地の国人層が公方の奉公衆として編成されてゆき、やがて彼らが奉公衆の主力を担うようになる。本間・宍戸・海上は御所奉行もつとめ、ほか那波・高山・筑波・印東氏など多くの武士が奉公衆となった。こうした国人層の吸収は公方権力の基盤を拡大させただけでなく、上杉氏や大名層の領国形成を阻害する楔の役割も果たしたのである。 第6章「鎌倉府の直轄領」は公方の権力基盤である直轄領について全面的に検出作業を行い、その特徴をまとめたものである。ここでは上杉氏や奉公衆の所領も広義の直轄領として検出に加え、公方の宗教的基盤を担った鎌倉寺院の所領も考察に加えた。その結果、直轄領はA鎌倉とその後背地にあたる相模中部・東部と武蔵南端、B旧利根川流域を中心とした関東の中央部一帯の二地域に集中することがわかった。このうちA地域の直轄領(鎌倉・山内庄・六浦庄・糟屋庄など)は、多くが北条氏の所領であり、北条氏滅亡後足利氏が掌握し、そのまま自らの基盤としたものである。鎌倉とその周辺は鎌倉府の最も重要な基盤地域であったといえる。また足利氏は内乱の過程で北条氏領のかなりの部分を関東の大名たちに与えたが、小山・小田氏の抑圧によりこうした所領を獲得し、結果的にB地域の掌握に成功する。足立郡・太田庄・下河辺庄・葛西御厨・下幸嶋庄・信太庄と広がる関東の中央部一帯は、こうした経緯で鎌倉府の第二の基盤地域となったのである。鎌倉府の直轄領はこの両地域を中心に大きな広がりをみせており、鎌倉公方は郡や庄の地頭職を握り、その内部の郷村の地頭職を直臣層と鎌倉寺院に配分した。そしてこうした直轄領の掌握によって、鎌倉府は外様の大名・国人に対峙することができたのである。 室町期の関東は、鎌倉府の統括のもと、武家や寺院などの領主が所領支配を展開していたが、こうした所領支配の実態と、百姓たちの動きを追究したのが第3部「在地社会」である。まず第7章「室町期における鶴岡八幡宮の所領支配と代官」では、鶴岡八幡宮の所領支配の実態を、それを実際に担った代官(政所)に注目して論じた。応永初年(1396〜1400頃)当時、八幡宮領の代官には近隣の武士が任命されることが多く、彼らは代官補任にあたって八幡宮の供僧に奉公することを義務づけられており、上総佐坪の事例にみられるように、領主の要求に沿って百姓と直接交渉を行い、一定の年貢を上納させていた。八幡宮の所領支配はこうした代官層の奔走に支えられていたわけだが、こうした体制は鎌倉府が解体した15世紀後半には大きく変わる。武蔵佐々目の事例のように、代官は百姓と同心して年貢を減らす動きをみせ、八幡宮の所領支配は大きく後退したのである。 第8章「享徳の乱と鶴岡八幡宮」は、同じく鶴岡八幡宮領の武蔵関戸において寛正2年(1461)におきた代官入部を中心に、享徳の乱による権力の分立と八幡宮の所領支配の難航との関連を論じたものである。八幡宮は田口慶秋を代官に任命するが、田口は八幡宮の指令の範囲を越えた郷村を押さえたこと、この入部に対して宇都宮氏が堀越公方に訴えて抵抗し、八幡宮は堀越公方に所領の回復を嘆願せざるをえなかったことなどを指摘した。 第9章「鎌倉雲頂庵と長尾忠景」は文明5〜8年(1473〜76)のころ長尾忠景が鎌倉の雲頂庵の住持久甫淳長にあてた書状の分析を行い、長尾忠景の所領支配の実態と淳長の活動を論じたものである。淳長は内乱の中で寺を保持するために檀那である長尾忠景に奉公し、その所領の年貢を催促する職務を担っていたが、当時の忠景の所領支配は危機に直面していた。武蔵小机では諸公事を廃止して年貢額を決定したが、代官が皆損を理由に年貢を上納せず、武蔵神奈川では住人の奥山に地子の徴収を命じ、検断権を住人に委譲したにもかかわらず、地子は上納されなかった。長尾忠景はこの時代最も有力な武将の一人だが、こうした武将の所領支配さえも危機的状況にあったのである。 第10章「室町期関東の支配構造と在地社会」は、室町期の関東の支配構造を解明し、さらにそれとの関連で在地社会の状況や百姓の動向をとらえたものであり、本書全体の総括ともいえる。鎌倉府は関東の領主層(武家と寺院)を統括する政権で、その中核にあったのは直臣層と鎌倉寺院であるが、彼らの多くは鎌倉に住んで所領には居住せず、その所領支配は近隣の武士などから任命される代官(政所)によって担われていた。そして鶴岡八幡宮領や日光山領の事例からわかるように、この代官は領主側の立場に立って百姓と直接交渉を行い、年貢上納を実現していた。百姓はかなりの実力を持ち、活発な年貢減免闘争を展開するが、この代官の奔走によって大きな成果をあげることができなかったのである。しかし鎌倉府の解体によって事態は一変し、領主が在地せず代官に管理を委任する形の所領支配は行き詰まり、重大な危機に直面した。そしてこの危機を克服して新たな支配構造を構築したのが後北条氏だったのである。 |