本論文は「Theory and design of energy analysing systems for electron spectroscopy(電子分光法のためのエネルギー分析系の理論と設計)」と題し,現在、固体表面の電子状態や元素組成を研究する基本的な手段となっている電子分光法に用いられる電子光学系の高次収差解析と最適化についての理論および実験的研究成果をまとめている。従来の電子光学的研究は主として、電子顕微鏡に関してなされてきたもので,高分解能化を達成するために収差補正の研究が積み重ねられてきている。これに対して,電子分光の分野においても、光学要素の収差が装置の性能を決めているという点は共通しているが,電子顕微鏡においては電子ビームは非常に細く絞られ、最低次の収差係数の評価で十分であるのに対し、分光系では非常に大きな開き角のビームまでとり込む必要があり、高次の寄与まで取り入れた摂動論の適用が要求される点に大きな差異がある。しかしながら,電子分光系の光学要素に対して高次収差まで取り入れた電子光学的な解析と収差補正の研究は従来,ほとんどなされておらず,電子分光系において感度およびエネルギー分解能を決める主要な要因であるエネルギーアナライザ本体とトランスファーレンズ系の収差についての定量的評価は極めて不十分であった。電子分光法の開拓的研究分野では,今日,測定感度の向上,ミクロン領域でのエネルギー分析,ナノメーターオーダーの高空間分解能での結像機能を実現することが強く望まれてきているが,分光系における高次収差の影響を定量的に評価し、収差補正を可能ならしめることを目的としてなされた本研究は,このような要請に直接答えるものである。 本論文は6章から構成されている。 第1章は,序論であり,電子光学における収差理論の歴史的発展経緯を要約している。 第2章では摂動展開にもとずく収差理論の議論を行っている。本章では、量子力学の摂動論で用いられている相互作用表示を適用して高次収差公式を導出する試みを行っている。この概念を用いることで、収差公式の表現のなかで摂動項による寄与のみが抽出され、従来の定式化に比べ、はるかに見通しの良い表現が与えられる。本章では、現実の設計に必要な収差公式をラグランジュ形式の下で導き、その数学的な構造を明らかにする目的でハミルトン形式による導出を併記している。 第3章では、電子分光系の構成要素、すなわち電子の減速を行うトランスファーレンズとエネルギーアナライザーの収差が、分光系としての性能及ぼす影響を解析している。現状の装置では、感度を決めている要因はトランスファーレンズの球面収差であり、この収差が補正された場合に始めて、アナライザの収差が寄与することを定量的に示している。 第4章では、静電場中にメッシュを挿入することにより、球面収差を補正する方法を提案している。これは、光学で知られている原理、すなわち球屈折面を含む系において球面収差を発生しない共役点が存在することを応用したものである。この原理を用いて、単一の球面メッシュを導入して±30°の開き角まで球面収差を補正するような電子分光器入射光学系の設計過程が述べられている。メッシュ孔がもつレンズ作用の評価、および試作実験の結果は本章の後半で述べられている。この発案は、球面収差を補正するために考案されたいずれの試みよりも,シンプルで実現性が高く,電子分光系の感度を飛躍的に向上させる手段として高く評価されてる。 第5章では、エネルギーアナライザを低エネルギー反射電子顕微鏡(LEEM)に導入してエネルギー選別像の観察を可能にした装置の開発、およびこの装置で採用されている電磁場の分布の最適化によって収差の補正が可能なウイーンフィルタの電子光学特性の解析が述べられている。論文提出者は,2次と3次の収差係数を電磁場分布のフーリエ成分の関数として求め、エネルギー分散方向の開口収差を3次まで補正することに成功している。このような低収差のアナライザは現在まで知られておらず、イメージングフィルタとしてのみならず、通常の分光系に対しても、ウイーンフィルタが優位であることが初めて明らかになった。 第6章では、総括であり,各章で得られた結果をまとめ,本論文で得られた成果を要約している。 以上を要約すると、本研究では,電子分光測定に用いられるエネルギー分析系に対して高次収差解析と最適化設計に関する電子光学的研究を行い,収差補正電極要素の新しい着想と相俟って,分光用電子光学系の電子収量の飛躍的増大を達成するとともに,表面微細領域のイメージング電子分光法を実現することに成功した。これらの成果は、電子顕微鏡の結像系に較べて,電子光学的考察に乏しかった電子分光器の結像系の研究に新たな展開を拓くと同時に,固体表面や界面の局所的性質や動的な現象の研究に有力な手段を提供するものであり,物理工学に寄与するところが大きい。よって本論文は,博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。 |