学位論文要旨



No 213455
著者(漢字) 嘉藤,誠
著者(英字)
著者(カナ) カトウ,マコト
標題(和) 電子分光法のためのエネルギー分析系の理論と設計
標題(洋) Theory and Design of Energy Analysing Systems for Electron Spectroscopy
報告番号 213455
報告番号 乙13455
学位授与日 1997.07.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13455号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡野,達雄
 東京大学 教授 河津,璋
 東京大学 教授 黒田,和男
 東京大学 教授 二瓶,好正
 東京大学 助教授 福谷,克之
内容要旨

 本論文は、電子光学の立場から、エネルギー分光系の理論および最適化を議論したものである。従来の電子光学は主として、電子顕微鏡、およびこれから派生する装置に関してのものである。電子顕微鏡においては、電子ビームは非常に細く絞られ、レンズ場中で光軸から大きく離れることがない。これは、電子レンズが大きな収差をもつために、ビームの開き角を制限しなければ所定の空間分解能が得られないからである。この事実によって、摂動展開を基盤にした収差理論の適用が正当化される。一方、電子分光系においては、電子顕微鏡に比べて大きなビームのボケが許される。この制約のなかでどれだけ大きなビーム開き角まで利用できるかで、感度とエネルギー分解能の関係が決まる。この場合は摂動論のみでは有意な結果は得られず、最終的な評価は光学での光線追跡に対応する手法、すなわち、電磁場中で運動方程式を解くことが必要である。しかし、これは非常に時間を消費するものであり、ある精度を保ちながら高速に処理するための数値計算手法が要求される。また、ある場合には摂動論による結果も併用しながら、光学系の最適化を効率良く行うアルゴリズムが不可欠である。このような、摂動論のみに依存できない系に対しての計算手法は、現在まで十分に確立されているとは言えない。

 第1章の序論に続き、第2章では摂動展開にもとずく収差理論の議論を行っている。従来のラグランジュ形式による収差論に比べ、ハミルトン形式によってより数学的に美しい収差公式が導かれることは、すでにいくつかの文献で指摘されている。しかしながら、ハミルトン形式で独立変数として用いられる、いわゆる正準運動量が幾何学的な量ではないという事実により、光学理論に対するこの形式の優位性は自明なものではない。本章では、現実の設計に必要な収差公式をラグランジュ形式のもとで導き、その数学的な構造を明らかにする目的でハミルトン形式による議論を併用している。電子分光系への適用を考え、位置と傾きに関する収差を、面の位置座標の関数として示した。また、非線形常微分方程式の解法に際し、量子力学の摂動論で用いられている「相互作用表示」を適用している。一般の面における収差は、相互作用表示ではそこから物面換算した収差となり、物理的に明確な意味を有する。摂動論を補うものとして、今回開発した光線追跡および光学系の最適化のための数値計算手法を、付録A〜Cで述べた。

 第3章では、電子分光系の構成要素、すなわち電子の減速を行うトランスファーレンズとエネルギーアナライザーの収差が、分光系としての性能、特にエネルギー分解能と感度に及ぼす影響を議論している。この問題は電子源の大きさによって本質的に異なった結果となる。まず、十分大きな面光源の場合には、トランスファーレンズの収差は本質的に寄与しない。これは、輝度の法則、あるいは力学の言葉ではリュービルの定理から来るものであり、ある減速比のもとで輝度が収差に依存しないことによる。ところが、光源の広がりが有限になってくると、この原則が成り立たなくなる。特に、点光源の極限では、輝度の概念そのものが成立しなくなり、この場合に感度を決めるのはトランスファーレンズの球面収差となる。

 第4章では、静電レンズ、特に電子分光系のトランスファーレンズの球面収差を補正する方法を提案している。通常の軸対称電子レンズの球面収差は0にできないことはシェルツァーによって既に証明されており、この制約は、自由空間において場のポテンシャルがラプラス方程式を満たすことから来るものである。この章では、静電レンズ中にメッシュを挿入することにより、シェルツァーの定理の制約をのがれる方法に関するものである。従来行なわれてきた球面収差補正の研究は、そのほとんどが電子顕微鏡に対してのものであり、最低次、すなわち3次収差の補正に関するものである。電子分光系に適用できるためには、非常に大きな開き角まで補正する必要があり、顕微鏡と同じ手法は適用されない。ここでは、光学で知られている原理、すなわち、球屈折面を含む系において球面収差を発生しない共役点が存在することを応用した。この原理を用いて、球面メッシュを導入して±30°の開き角まで球面収差を補正したレンズの設計例を図1に示す。メッシュ孔がもつレンズ作用の評価、および試作実験の結果は本章の後半で述べている。この技術は、電子分光系の感度を飛躍的に向上させる手段として重要な意味をもっている。

図1 球面収差補正レンズの設計例。EL1からEL4までの4電極からなり、接地したEL1に球面メッシュが取り付けられる。

 第5章では、低エネルギー反射電子顕微鏡(LEEM)に分光系を導入して、エネルギー選別の機能をもたせた装置の開発を述べている。この装置では、分光系としてウイーンフィルタを採用しており、結像を行う系としては始めての試みである。ウイーンフィルタの特徴は、電磁場の分布の最適化によって収差の補正が可能なことである。この章では、2次と3次の収差係数を電磁場分布のフーリエ成分の関数として求め、エネルギー分散方向の開口収差を3次まで補正できることを導いた(表1、図2)。この事実は、イメージングフィルタとしてのみならず、通常の分光系に対しても、ウイーンフィルタの優位性を示すものである。フーリエ成分の最適化によって収差が低減される様子を図2に示す。図3は、開発した装置の光学系の構成を示している。この装置では、照射電子と反射電子の振り分けに別のウイーンフィルタを用いており、これによって、全結像光学系の光軸が直線に保たれている。エネルギー選別を行ったLEEM像の観察例を最後に示した。

表1 ウイーンフィルタの電磁場のフーリエ成分(e2,b2,e3,b3,e4,b4)と収差次数の関係。条件Cは、今回求めた3次収差補正条件。図2 表1のA〜Cの条件でのスポットダイヤグラム。ウイーンフィルタへのビームの入射角は±10°。図3 LEEM光学系の構成。COL:カソード対物レンズ、BSE:ビームセパレータ、CL:コンデンサーレンズ、IL:中間レンズ、PL:投影レンズ、RL:減速レンズ、AL:加速レンズ、SC1:中間スクリーン、SC2:最終スクリーン(MCP)、D:2段偏向系、Q:非点補正系。
審査要旨

 本論文は「Theory and design of energy analysing systems for electron spectroscopy(電子分光法のためのエネルギー分析系の理論と設計)」と題し,現在、固体表面の電子状態や元素組成を研究する基本的な手段となっている電子分光法に用いられる電子光学系の高次収差解析と最適化についての理論および実験的研究成果をまとめている。従来の電子光学的研究は主として、電子顕微鏡に関してなされてきたもので,高分解能化を達成するために収差補正の研究が積み重ねられてきている。これに対して,電子分光の分野においても、光学要素の収差が装置の性能を決めているという点は共通しているが,電子顕微鏡においては電子ビームは非常に細く絞られ、最低次の収差係数の評価で十分であるのに対し、分光系では非常に大きな開き角のビームまでとり込む必要があり、高次の寄与まで取り入れた摂動論の適用が要求される点に大きな差異がある。しかしながら,電子分光系の光学要素に対して高次収差まで取り入れた電子光学的な解析と収差補正の研究は従来,ほとんどなされておらず,電子分光系において感度およびエネルギー分解能を決める主要な要因であるエネルギーアナライザ本体とトランスファーレンズ系の収差についての定量的評価は極めて不十分であった。電子分光法の開拓的研究分野では,今日,測定感度の向上,ミクロン領域でのエネルギー分析,ナノメーターオーダーの高空間分解能での結像機能を実現することが強く望まれてきているが,分光系における高次収差の影響を定量的に評価し、収差補正を可能ならしめることを目的としてなされた本研究は,このような要請に直接答えるものである。

 本論文は6章から構成されている。

 第1章は,序論であり,電子光学における収差理論の歴史的発展経緯を要約している。

 第2章では摂動展開にもとずく収差理論の議論を行っている。本章では、量子力学の摂動論で用いられている相互作用表示を適用して高次収差公式を導出する試みを行っている。この概念を用いることで、収差公式の表現のなかで摂動項による寄与のみが抽出され、従来の定式化に比べ、はるかに見通しの良い表現が与えられる。本章では、現実の設計に必要な収差公式をラグランジュ形式の下で導き、その数学的な構造を明らかにする目的でハミルトン形式による導出を併記している。

 第3章では、電子分光系の構成要素、すなわち電子の減速を行うトランスファーレンズとエネルギーアナライザーの収差が、分光系としての性能及ぼす影響を解析している。現状の装置では、感度を決めている要因はトランスファーレンズの球面収差であり、この収差が補正された場合に始めて、アナライザの収差が寄与することを定量的に示している。

 第4章では、静電場中にメッシュを挿入することにより、球面収差を補正する方法を提案している。これは、光学で知られている原理、すなわち球屈折面を含む系において球面収差を発生しない共役点が存在することを応用したものである。この原理を用いて、単一の球面メッシュを導入して±30°の開き角まで球面収差を補正するような電子分光器入射光学系の設計過程が述べられている。メッシュ孔がもつレンズ作用の評価、および試作実験の結果は本章の後半で述べられている。この発案は、球面収差を補正するために考案されたいずれの試みよりも,シンプルで実現性が高く,電子分光系の感度を飛躍的に向上させる手段として高く評価されてる。

 第5章では、エネルギーアナライザを低エネルギー反射電子顕微鏡(LEEM)に導入してエネルギー選別像の観察を可能にした装置の開発、およびこの装置で採用されている電磁場の分布の最適化によって収差の補正が可能なウイーンフィルタの電子光学特性の解析が述べられている。論文提出者は,2次と3次の収差係数を電磁場分布のフーリエ成分の関数として求め、エネルギー分散方向の開口収差を3次まで補正することに成功している。このような低収差のアナライザは現在まで知られておらず、イメージングフィルタとしてのみならず、通常の分光系に対しても、ウイーンフィルタが優位であることが初めて明らかになった。

 第6章では、総括であり,各章で得られた結果をまとめ,本論文で得られた成果を要約している。

 以上を要約すると、本研究では,電子分光測定に用いられるエネルギー分析系に対して高次収差解析と最適化設計に関する電子光学的研究を行い,収差補正電極要素の新しい着想と相俟って,分光用電子光学系の電子収量の飛躍的増大を達成するとともに,表面微細領域のイメージング電子分光法を実現することに成功した。これらの成果は、電子顕微鏡の結像系に較べて,電子光学的考察に乏しかった電子分光器の結像系の研究に新たな展開を拓くと同時に,固体表面や界面の局所的性質や動的な現象の研究に有力な手段を提供するものであり,物理工学に寄与するところが大きい。よって本論文は,博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。

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