学位論文要旨



No 213461
著者(漢字) 繁政,英治
著者(英字)
著者(カナ) シゲマサ,エイジ
標題(和) アンジュレーター放射光を用いた二原子分子の対称性分離K殻光吸収スペクトル
標題(洋) Symmetry-resolved K-shell photoabsorption spectra of free diatomic molecules using undulator radiation
報告番号 213461
報告番号 乙13461
学位授与日 1997.07.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第13461号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 浜口,宏夫
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 市川,行和
 物質構造科学研究所 教授 柳下,明
内容要旨

 分子が光を吸収して内殻正孔状態が形成されると、引き続いて起こる電子緩和過程によって、化学結合を維持している結合性の価電子が失われ、その結果分子は種々のフラグメントイオンに解離する。軽元素からなる分子の内殻正孔状態は、光子放出による量子収率は低く、主にオージェ過程により先ず電子緩和が起こり、引き続いて原子間結合の解離が起こるという崩壊の筋道が考えられる。近年、VUV・軟X線領域の連続光源であるシンクロトロン放射光の利用技術、及びその光源としての特性を生かした実験技術の進歩に伴い、分子の内殻励起状態の形成及びその崩壊過程に関する詳細な情報が得られつつある。分子の励起状態を研究する上で、最も簡便で基礎的な情報が得られる方法は、光吸収スペクトル測定であり、シンクロトロン放射光の実用化以来盛んに行われている。しかしながら、分子の内殻光吸収スペクトルの帰属については、二原子分子でさえも統一的な見解が得られていない。これは、主として実験から得られる情報の不足と適切な近似法に基づく理論計算の欠如に依っている。緩和過程や解離のダイナミクスを研究するためには、それらの出発点である内殻励起状態の電子構造を明らかにすることが求められる。本研究は、このような要請に応えるべく、研究対象を最も基礎的な二原子分子に絞り、内殻励起状態の電子構造を明らかにすることを目的として、実験装置及び手法の開発を含めて遂行されたものである。

 一般に、二原子分子のK殻光吸収スペクトル中には、空位の価電子軌道、Rydberg性軌道、連続状態中の形状共鳴、あるいはK殻電子の励起に伴う価電子励起状態(二電子励起状態)の各々に対応した構造が観測される。二原子分子のK殻励起の場合、双極子選択則に基づく遷移は1s(=0:平行遷移)または1s(=1:垂直遷移)の2種類であるから、これらの構造もまたはの対称性を持つ。実験的に対称性が決定できれば、理論計算からの情報と組み合わせて正確な帰属が可能となる事が期待される。また、内殻光吸収スペクトルが高分解能で測定されれば、内殻励起状態に関するより詳細な知見が得られるであろう。我々は、直線偏光に対する二原子分子のK殻光吸収が、遷移の種類(平行または垂直)に依存して非等方性を示すことと、それが解離生成イオンの角度分布に直接反映されるという性質を応用して、内殻励起状態の対称性を分離することができる光吸収分光法を開発した。これは、内殻励起分子の解離過程は、およそ10-14sの時間スケールであり、分子の回転周期(〜10-10s)に比べて充分に速いので、解離イオンの角度分布には光吸収の異方性が直接反映されるという事に基づいている。偏光方向に対して0°方向に放出されるイオンは平行遷移を、90°方向に放出されるイオンは垂直遷移を反映するので、これらの信号強度の波長依存性を測定すれば、対称性を分離した光吸収スペクトルが得られる。この分光法は、挿入型光源であるアンジュレーター放射光の優れた直線偏光性と、角度分解光イオン分光法との組合せにより初めて可能になった。これを用いて、N2、CO、O2、NOについて対称性を分離したK殻光吸収スペクトルの観測を行った。更に開殻系のO2及びNOについては、高分解能光吸収スペクトルを測定し、SCF-CI法による理論計算に基づいてスペクトル構造の帰属を行った。

 新開発の電子-イオン同時計測装置(EICO装置)は、位置敏感型検出器を内蔵した平行平板型静電式エネルギー分析器2台と、飛行時間型質量分析器(TOF)1台を、目的に応じて組み合わせて、最高3台まで組み込み可能な自由度の高い装置である。この装置はアナライザー、TOFともに光軸の回りに回転することができ、解離のダイナミクスの研究には不可欠な、オージェ電子と解離イオンの同時計測実験及びそれらの各相関測定も可能である。アナライザーを2台用いることにより、電子・電子同時計測や、本研究の主たる実験手法である対称性を分離した光吸収分光を行うことが出来る。この装置のテスト実験は、高エネルギー物理学研究所放射光実験施設(KEK-PF)に新設されたBL-3Bの24-m球面回折格子分光器を用いて行った。テスト実験の結果は極めて良好であり、実験装置の性能及び同時計測の実験方法の妥当性が確認された。

 本研究における実験は、KEK-PFのビームラインBL-2Bのアンジュレーター放射光を用いて行われた。アンジュレーター放射光は、優れた直線偏光性を示すことがHe光電子角度分布測定により確かめられており、本研究には非常に適している。このビームラインに設置されている10-m斜入射分光器は、疑似ローランドマウントを採用している事と、大半径の球面回折格子を用いて分散を大きくしている事により、270eV〜1keVの範囲で最高分解能/〜5000を達成出来るように設計されている。近年、光学素子の綿密な調整により、理論分解能に近い性能を定常的に発揮することが出来るようになった。分光器により単色化された放射光は、EICO装置のイオン化領域の中央に集光される。イオン検出には2台の平行平板型静電式エネルギー分析器を、偏光方向に対して0°、90°の位置に固定して用いた。エネルギー分析器は、運動エネルギーを持って解離してくるフラグメントイオンだけを検出するように偏向電圧を調節した。充分な信号強度を得るために、分光器の入射、出射スリット幅は50mとした。また、高分解能光吸収分光の実験は、飛行時間型質量分析器を用いて全電子、全イオン収量法により、入射、出射スリット幅5mの条件で行った。

図1 CO分子の炭素K殻吸収端近傍での対称性分離光吸収スペクトル。

 測定例として、図1にCOのC-K殻励起領域における対称性分離スペクトルを示す。実線は励起光の電気ベクトルに対して90°方向、点線は0°方向で検出した解離イオン収量であり、それぞれ対称性、対称性光吸収スペクトルに対応する。通常の光吸収スペクトルからは、エネルギー位置と光吸収強度に関する情報しか得られないので、スペクトルの同定には多くの曖昧さが残ってしまう。一方、図1から分かるように対称性分離分光法では、スペクトルの重なりを対称性に関して分離することができるので、スペクトルの同定は確かなものになる。図1中の293eV付近のピークでは、Rydberg性の3p状態と3p状態に帰属されるピークが明確に分離されているのが分かる。この3p状態は、通常の光吸収スペクトルでは直接検出することは困難で、対称性分離により初めて観測可能になった構造である。

 観測された及び対称性成分のスペクトルは、どの分子に対してもK殻光吸収スペクトルを対称性についてほぼ完全に分離している事が確認された。その結果、空位の価電子軌道及びRydberg性軌道の対称性に関する帰属を実験的に初めて行うことが可能となった。特に、対称性は異なるが、エネルギー的に分離し得ない構造の観測に対して、対称性分離分光法は極めて有効である事が確認された。また、連続状態に関しては、対称性を分離したことにより、通常の光吸収分光法や光電子分光法では観測し得ない1sの縮重した2チャンネルの部分断面積を直接観測できた。これにより、形状共鳴状態及び二電子励起状態は、理論的予測通り対称性及び対称性であることが検証された。N2、COについては、連続状態における各チャンネルの断面積の理論計算との定量的な比較が可能となり、内殻電離断面積の計算においては、core-relaxationの効果を取り入れる事が本質的に重要であることが明らかになった。また、CO、及びNOのO-K殻電離領域中では、二電子励起状態に対応する構造が実験的に初めて観測された。これらの二電子励起状態は、*形状共鳴による断面積の増大に埋もれており、通常の光吸収分光法では、その存在を予言することさえ困難であった構造である。

 O2、及びNOについて行った高分解能光吸収分光の実験では、イオン化閾値に収斂するRydberg遷移に対応する多くの構造を新たに発見した。これらの構造の同定は、観測された対称性を分離した光吸収スペクトル及び非経験的SCF-CIの計算結果に基づいて行われ、従来のスペクトル帰属の誤りを指摘し、より信頼性の高い帰属を行うことが出来た。O2のRydberg性状態については、対称性の構造に関してvalence-Rydberg混合の可能性が示唆された。また、O2のK殻励起領域、NOのK殻電離領域中に観測される1s→2p*の分裂は交換相互作用による事が見出された。このことは、内殻励起状態の帰属によく用いられるequivalent-coreモデルは、開殻系に対しては有効でなく、内殻電子のスピンをあらわに考慮した理論計算がスペクトルの正しい解釈に不可欠である事を意味している。

審査要旨

 本論文は6章から成る。第1章は序論、第2章は実験方法、第3章では理論的背景とN2の対称性分離K殻光吸収スペクトル、第4、5、6章はそれぞれ、O2,NO,COの対称性分離K殻光吸収スペクトルと高分解能光吸収スペクトルの測定結果とその解析の詳細が述べられている。

 第1章では、分子分光学における軟X線分光の位置づけをし、特に分子の軟X線分光の研究の現状を概観している。そして、本研究の目的である直線分子の内殻励起状態の電子構造の解明のために、直線偏光に対して、非等方的な光吸収が起こることを利用した「対称性分離分光法」の原理を説明している。

 第2章では、放射光を用いた直線分子の電子・イオン同時計測実験のために改良した10m斜入射分光器と新規に開発した電子・イオン同時計測装置について述べている。特に、今回開発した計測装置では、運動エネルギー2eV以上の解離イオンの検出に、位置敏感型検出器を内蔵した平行平板型静電式エネルギー分析器を作成し、取り込み角度を放射光の電気ベクトルの水平方向、垂直方向に変えられる設計にしている。

 第3章では、2原子分子のK殻光励起の場合について、解離イオンの角度分布の理論背景と対称性分離光吸収分光法の詳細について述べている。この方法は、分子の回転周期に対してオージェ崩壊が数桁速く起こることを利用して、光の電気ベクトルに対して0または90度方向での解離イオン生成の光エネルギー依存性を測定するものである。これによって1s-,1s-励起状態への遷移を完全に分離することができる。代表的な例としてN2のK殻光吸収スペクトル測定に応用した例を示している。この方法により、特に連続状態で混在した2電子励起と形状共鳴状態を分離することに成功し、理論計算と直接比較可能なスペクトルを得ている。

 第4章ではO2の対称性分離K殻光吸収スペクトルと高分解能光吸収スペクトルの測定結果と、その量子化学計算による解釈について述べており、これまで帰属が不可能であった連続状態のピークを厳密に帰属している。そして、開殻系では交換相互作用を正しく取り入れることが必要であることを指摘している。

 第5章では同じ開殻系のNOについて同様の実験と理論計算を行い、帰属と共にそれぞれの連続状態に対するイオン化断面積の光エネルギー依存性を求めている。

 第6章ではCO分子に対して、C-K、O-K殻の対称性分離光吸収スペクトルを測定し、内殻空孔の緩和を取り入れたSCF計算で実験結果が満足に説明できることを示している。

 以上を要約すると、本論文の提出者繁政英治氏は、放射光を用いた高分解能分光器、さらに、高感度の角度分解型イオン、電子同時計測装置を開発した。そして、「対称性分離光吸収分光法」という新しい方法論を考え出し、これをいくつかの代表的な直線分子に適用して、それらの内殻励起状態の詳細を解明する事に成功した。この研究は、連続状態への光イオン化断面積の理論計算との比較を可能にしただけでなく、引き続いて起こる脱励起、解離のダイナミックスの研究へつながるものであり、内殻励起分子分光の今後の研究の発展に大きく寄与するものである。

 したがって、繁政英治氏は博士(理学)の学位を授与される資格を有するものと認める。

 なお、本論文に述べられている研究成果は共著論文の形で公表済みである。共著者は研究の指導者、研究協力者であるが、論文提出者の寄与が最も大きいと判断される。また、共著論文の内容を学位論文にすることについては、全ての共著者の承諾を得ている。

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