学位論文要旨



No 213463
著者(漢字) 伊藤,隆
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,ユタカ
標題(和) NMRを用いたGDP結合型およびGTP結合型ヒトc-Ha-Rasタンパク質の解析
標題(洋) NMR Studies of GDP-and GTP-Bound Forms of Human c-Ha-Ras Protein
報告番号 213463
報告番号 乙13463
学位授与日 1997.07.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第13463号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 横山,茂之
 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 教授 深田,吉孝
 東京大学 教授 宮島,篤
内容要旨

 ヒトc-Ha-Rasは,アミノ酸189残基,分子量約21Kのタンパク質である.RasはGDP結合型(Ras・GDP)とGTP結合型(Ras・GTP)の2つの状態をとり,前者はシグナル伝達活性を持たないのに対して,後者はRaf-1,Ral-GEFs(Ral-GDS,RGL)といったターゲット分子と相互作用してシグナルを下流に伝え,最終的に細胞の増殖や分化を引き起こす.またRas・GTPはPI3-Kとも結合することも報告されている.一方でRas・GTPは負の調節因子と考えられるGAPs(p120-GAP,NF1,Gap1mなど)と結合しGTPがGDPに加水分解されてRas・GDPに戻る.

 Ras・GTPとRas・GDPの活性の顕著な差は2つの状態の高次構造の差に起因していると考えられる.したがって2つの状態の詳細な高次構造情報は,Rasの活性発現とその制御のメカニズムを理解するために極めて重要である.

 本研究では,Ras・GDPおよびRas・GTPの双方について異種核多次元NMRの手法を用いて解析を行った.まず,溶液状態におけるRas・GDPの高次構造を高分解能で決定した.次に,Ras・GTPについては,GTPの非水解アナログであるGMPPNPを結合させたRas・GMPPNPを用いて主に解析を行い,Ras・GTPの「局所的構造多形性」を初めて見い出した.またこの「局所的構造多形性」とシグナル伝達活性との相関について考察を行った.

 さらに,以上の解析と並行して,将来想定されるRas・GTPとターゲット分子のRas結合ドメインの複合体の解析のために,分子量30K程度のタンパク質(および複合体)についてのNMR法を用いた高次構造解析法の開発を行った.

図1: Ras(1-171)・GDPの水溶液における高次構造.simulated annealing法によって計算された30個の構造の主鎖を重ね合わせて表示してある.
Ras(1-171)・GDPの高次構造決定

 NMRを用いた解析には,大腸菌内での大量発現に適しており,かつ熱安定性に優れた短鎖型タンパク質Ras(1-171)を用いた.

 Ras(1-171)・GDPの主鎖シグナルの帰属は,タンパク質をユニフォームに13C/15Nで標識し,HNCA,HNCO,HCACO等の幾つかの3次元三重共鳴NMRスペクトルを測定し解析することで行った.側鎖シグナルの帰属は,13C標識試料,もしくは13C/15N標識試料について,HCCH-COSY,HCCH-TOCSY,HNCACB等の3次元,4次元三重共鳴NMRスペクトルを測定し解析することで行った.

 つづいて,(1)2次元および3次元NOESYスペクトルの解析から得た距離情報(2381個),(2)HMQC-J,HNHB,HN(CO)HAスペクトルの解析から得た主鎖角および側鎖1角の2面角情報(154個),および(3)主鎖アミド基の水素結合の情報(59個)等を用い,hybrid distance geometry-dynamical simulated annealing法(DG-SA),ab initio simulateda annealing法(SA)によって高次構造計算を行った.最終的に30個の構造を計算した結果,主鎖原子についてのRMSDが0.71Å(DG-SA),0.61Å(SA),プロトン以外の全ての原子についてのRMSDが1.28Å(DG-SA),1.18Å(SA)の精度で水溶液中の高次構造を決定することができた.SA法によって決定された30個の構造の重ね合わせを図1に示す.

図2: Ras(1-171)・GMPPNPにおいて「局所的構造多形性」のために1H-15N HSQCクロスピークの著しいブロードニングが観測される領域(黒で表示).アミノ酸残基10-13,57-64の領域はGDP/GTP結合活性およびGTPase活性に,31-39の領域はRaf-1,Ral-GEFs,GAPsなどとの相互作用に重要である.NMRによって決定されたRas(1-171)・GDPの水溶液中の高次構造の摸式図の上に示してある.
Ras(1-171)・GTPの「局所的構造多形性」の解析

 Ras(1-171)・GMPPNPについても異種核多次元NMRを用いた同様な解析を行ない,86%の残基について主鎖シグナルの帰属を行った.ところが,ターゲット分子との相互作用に重要な「エフェクター領域」と,GDP/GTPのリン酸基の結合とGTPase活性に重要な領域を中心にした,アミノ酸残基で10-13,21,31-39,57-64,71の領域において1H-15N HSQCピークが著しくブロードニングしていることが明らかになった(図2).この1H-15N HSQCピークのブロードニングは,Ras(1-171)・GDPにおいては全く観測されないのに対し,Ras(1-171)・GTPおよびRas(1-171)・GTPSにおいては(程度の差こそあれ),Ras(1-171)・GMPPNPと同様に観測されたため,GTP結合型Rasに特有の性質と考えられる.

 Ras(1-171)・GMPPNPの1H-15N HSQCスペクトルにおける,測定温度と磁場強度の依存性の解析,およびタンパク質主鎖15N核の緩和パラメータ解析の結果,前述の領域についての1H-15N HSQCピークの著しいブロードニングは,これらの領域においてコンフォメーションが複数存在し,それぞれのコンフォメーションの間をNMRのタイムスケールに対して中程度の速度で交換しているためであることが明らかになった.またこの「局所的構造多形性」はRaf-1のRas結合ドメインとの結合によって失われることも判明した.

 Ras・GTPはRaf-1,Ral-GEFs,PI3-K,GAPsと,エフェクター領域を中心としたほとんど同一の結合インターフェイスで結合する.ところがこれらのタンパク質のRas結合領域には一次構造上のホモロジーがほとんど見当たらない.Ras・GTPにおける「動的構造多形性」は,「Ras・GTPが複数のタンパク質とほぼ同一のインターフェイスで結合できる性質」と関連があるのではないかと考えられる.すなわち,Ras・GTPでは結合インターフェイスは複数の安定な構造をとっていて,その中に,Raf-1結合型,Ral-GEFs結合型,PI3K結合型,GAPs結合型のコンフォメーションが存在するという仮説である.それに対して,Ras・GDPは,結合インターフェイスは一つの不活性な構造をとっており,したがってRaf-1,Ral-GEFs,PI3K,GAPsとは結合できないと考えられる.

分子量30K程度のタンパク質のNMRによる高次構造決定法の開発

 最近のNMR測定技術と解析法の進歩によって,タンパク質を均一に13C/15N標識し,三重共鳴NMRの手法を用いることで,150-200残基のタンパク質の詳細な高次構造決定が可能になってきている.しかし,それ以上の分子量のタンパク質のNMRを用いた高次構造解析は困難であり,たとえばRas(1-171)・GMPPNPとRaf-1のRas結合ドメインの複合体については,分子量が30Kを越えることから,現在のところ立体構造決定に到る解析は極めて困難である.

 そもそも200-300残基のタンパク質の構造決定の際に問題になる要因としては,(1)観測可能な核の総数が増大し,シグナルの分離が困難になること,(2)NOEの強度の低下(特に13C標識タンパク質では深刻である),の2点があげられる.本研究では,数種類のアミノ酸残基(例えば,タンパク質の疎水的コア部分を形成する,Ile/Leu/Val残基およびPhe/Tyr残基)をプロトン標識し,残りの残基を重水素化したサンプルを調製することで,シグナルの分離を容易にするとともに緩和によるNOE強度の低下を軽減することを試みた.

 アミノ酸選択的プロトン標識の有効性を調べるために,Ile/Leu/Val/Phe/Tyr残基が重水素化されたRas(1-171)・GDPの試料を数種類作成した.つづいて,これらの試料について,3次元NOESYスペクトルを測定した.NOESYの解析から得られた限られた距離情報に,,の化学シフトから得た主鎖の2面角の情報を加えて高次構造計算を行った結果,主鎖のRMSDで2-3Å程度の精度で構造を決定できた.

 アミノ酸選択的プロトン標識を用いることで,従来の構造情報の約1/3の数の距離制限からある程度の分解能でタンパク質の高次構造を決定できることが明らかになった.この方法を用いることで,NMR解析可能なタンパク質の分子量の限界を30-40Kまで引き上げることができると考えられる.

審査要旨

 本論文は3章と補遺1章からなる.第1章は序章である.第2章ではGDP結合型ヒトc-Ha-Rasタンパク質(Ras・GDP)の溶液状態における高次構造解析結果について述べている.第3章はGTP結合型ヒトc-Ha-Rasタンパク質(Ras・GTP)について,NMRによって初めて明らかにされた「局所的多形性」について議論している.補遺ではアミノ酸選択的プロトン標識によるタンパク質のglobal fold決定法について述べている.

 Rasは細胞の増殖や分化に重要な役割を持つタンパク質である.最近の研究によって,Rasが関与するシグナル伝達経路に存在するRasの活性調節因子(GEFs,GAPs)やターゲット分子(Raf-1,RalGEFs,PI3-K)が明らかになってきているが,これらのタンパク質とRasの相互作用のメカニズムについてはいまだ不明である.第1章(序章)に続く第2章では,異核種多次元NMR法を用いたRas・GDPの解析と高次構造決定の詳細が述べられているが,NMRによる解析の結果,Ras・GDPについて主鎖重原子のRMSDで0.71Å,全ての重原子のRMSDで1.18Åという高分解能で高次構造を決定している.本研究によって得られたRas・GDPの詳細な高次構造は,Rasと活性化因子GEFsとの相互作用を理解するため,またRas・GTPと比較してRasの活性化のメカニズムを明らかにするために重要と考えられる.

 第3章では,主鎖アミド基由来の1H-15N相関クロスピークがRas・GMPPNPの生物活性発現に重要な領域で観測されないことに注目し,観測可能なクロスピークについて帰属を行った後に,クロスピークの線形の温度・磁場強度依存性の解析,15N核の緩和パラメータの解析を行っている.その結果,Ras・GMPPNPではこれらの領域に複数のコンフォメーションが存在し,お互いの間を数百s-msのタイムスケールで交換していることを初めて明らかにした.またこの現象はRas・GMPPNPのみならずRas・GTPS,Ras・GTPにも共通に起こっている現象であることも確認した("regional polysterism"(「局所的多形性」)と名付けている).NMRによって初めてRas・GTPの「局所的多形性」を確認し得たということは極めて意味深い.また,第3章において,Raf-1,RalGEFs,PI3-K,GAPsが「局所的多形性」の中の特定の構造を認識し結合するというモデルを提案しているが,これはタンパク質-タンパク質相互作用のメカニズムとしては全く新しいものである.これが検証されればタンパク質-タンパク質相互作用の研究に大きなインパクトを与えるものになるであろう.

 補遺では,重水素化とアミノ酸選択的プロトン標識を組み合わせて,分子量の大きなタンパク質(およびタンパク質複合体)のglobal foldを決定する極めて先駆的な試みについて述べている.たとえばRas・GMPPNP(20K)とRaf-1 RBD(12K)の複合体は,従来のNMRの手法で構造決定が可能な分子量の限界を超えており,何らかの新たなアプローチが求められる.この研究においては,重水素化によってシグナルの急速な緩和を押さえ,かつアミノ酸選択的にプロトンを残すことによってシグナルのオーバーラップを回避している.今回提案されている手法を用いることによって,従来法で必要とする半分以下の距離情報からある程度の分解能でタンパク質の高次構造を決定することが可能であることが示された.この手法はNMR解析可能なサンプルの範疇を大きく広げることを可能にしたという意味で非常に価値があり,波及的効果も大きいと考えられる.

 なお,本論文第2章および第3章は,山崎和彦氏,岩原淳二氏,寺田 透氏,紙谷聡英氏,白水美香子氏,武藤 裕氏,河合剛太氏,横山茂之氏,Ernest D.Laue氏,Markus Walchli氏,柴田武彦氏,西村 暹氏、宮澤辰雄氏との共同研究,また本論文補遺は,Brian O.Smith氏,Andrew Raine氏,Sarah Teichmann氏,Liat Ben-Tovim氏,Daniel Nietlispach氏,R.William Broadhurst氏,寺田 透氏,Mark Kelly氏,Hartmut Oschkinat氏,柴田武彦氏,横山茂之氏,Ernest D.Laue氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

 したがって,博士(理学)を授与できると認める.

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