[目的] 日本人の死亡原因は、1981年より癌死が第1位であり、癌死のうち長らく胃癌が1位であったが、最近肺癌が胃癌を抜いて第1位となった.その理由の一つは胃癌検診の普及と胃癌の診断・治療技術の進歩による救命胃癌患者の増加であると言われている.しかし胃癌による死亡は依然として多く、我国の胃癌患者は高齢化していくと予測されており、高齢者に対するより効果的な対策が必要とされている. 胃癌検診はX線を一次検査に用いる方式が主流であるが、この方法は、受診者への負担が大きく、受診者の固定化がみられる.近年胃癌の一次検査に血清ヘリコバクター抗体(HPG)および血清ペプシノゲン値を導入することが検討されている.その理由は、ヘリコバクターの感染は慢性活動性胃炎の原因とされ、慢性萎縮性胃炎への移行、さらに胃癌への役割が推定されるからである. 血清ペプシノゲンは本来、慢性胃炎のマーカーであり、主として胃底腺領域で生産される血清ペプシノゲンI(PGI)や、胃全体で生産される血清ペプシノゲンII(PGII)及びPGIとPGIIの比(PGR)の単独または組み合わせての解析が消化性潰瘍・慢性萎縮性胃炎の診断及び治療指標に有用とされ、さらに最近では胃癌のスクリーニングへの適応が検討されるに至った.間接X線検査は形態学的な診断法であり、胃癌は発見出来る程度の大きさにならなければ見つからないが、上述の血清検査法は腫瘍産生マーカーと異なり、胃癌の先行病変といわれる慢性萎縮性胃炎のマーカーであり、早期癌の発見率や救命率を高めることが期待されるからである.しかし、血清検査法の胃癌スクリーニングへの適応については、若い年代への検討はなされているが、高齢者への適応の検討報告は少ない.著者はおよそ20年間にわたり、横浜市西区で地域老人データバンクの設立と運営に参加し、老人健康診断のデータを得た.横浜市西区の老人の死亡動態を観察すると共に胃癌の血清検査法や健康診断血清検査項目が胃癌死亡予測に有用であるかどうかを検討した. [対象と方法] 1.死亡動態の調査は、横浜市西区の1972年より1987年迄の16年間の老人健康診断受診者5495人を対象とした.横浜市衛生年報より、西区の性別、死因別死亡数を調査し、1985年全国値を標準人口とする間接法を用いて年次別の胃癌の年齢調整死亡率を計算、各年次の全国及び横浜市の年齢調整死亡率と比較することにより、西区の死亡動態を見た.また、住民票を使用して1987年12月迄の受診者の転出と死亡を確認し、死因については保健所の協力により死亡小票に基づいて確認して国際疾病分類「第9回修正」に従って死因別死亡を分類し、観察集団の性別、死亡年別の推移を観察した. 2.胃癌死の概観及び血清検査法の胃癌死亡予測能の検討老人健康診断受診者5495人より、死亡動態調査時に確認した転出者391人を除いた5101人の中で胃癌死亡者は87人であった.その内、残余血清の凍結保存されていた39人(男28人、女11人)を胃癌死亡の症例とした.対照は症例と健康診断の受診日、性、年齢が一致し、1987年の観察終了時点において重篤な疾患なく生存していることを確認しており、問診より胃癌、胃潰瘍、胃炎、胃部不快感、十二指腸潰瘍、腎透析、肝硬変の既往歴のない39人とした.なお症例の受診日より死亡迄の期間は平均4.3年であり、受診日の平均年齢は71.8歳であった.また、対照については1996年9月現在までの追跡調査により血清採取時より10年以上経過した胃癌死亡の有無を確認した。 (1)血清検査法 老人健康診断検査項目中解析の対象としたのは、赤血球沈降速度(1時間値:ESR)、赤血球数(RBC)、白血球数(WBC)、ヘマトクリット(Ht)、ヘモグロビン(Hb)、総蛋白(TP:屈折計法)、アルブミン(Alb:BCG法)、尿素窒素(BUN:ウレアーゼインドフェノール法)、ZTT(硫酸亜鉛混濁法)、GOT(酵素法、一部ライトマンフランケル法)、GPT(酵素法、一部ライトマンフランケル法)、総ビリルビン(T.Bil:エブリンーマロイ法)、アルカリフォスファターゼ(ALP:Kind-King法)、空腹時血糖(Glc:酵素法)、総コレステロール(TC:ザックヘンリー変法)、中性脂肪(TG:酵素法)であり健康診断実施施設にある検査センターで測定した.PGI、PGIIの測定は1993年12月にダイナボット社製ペプシノ-ゲンI,II・RIABEADキットを使用し、Hp抗体はBiomerica Inc.(米国)製の免疫グロブリンGヘリコバクター抗体を使用し、いずれもSRL社に依頼して行なった. (2)解析法 血清検査項目が単独で胃癌死に及ぼす影響については、先行研究と比較するため各検査項目について[対応のあるt検定]を行った後、健康診断実施施設内設定基準値と比較した.また、多変量解析によるでの胃癌死亡へのリスクは基準変数を胃癌死亡の有無とし、説明変数はHPGとPGIおよびPGIIの自然対数変換値(LPGI,LPGII)を加えた全血清検査項目の19変数とした.「判別分析」によりP値および「見かけの的中率」より有用な説明変数を求めてから、有用な説明変数について先行研究と比較するため「条件つき多重ロジスティックモデル」により妥当性を検定した. Hp感染の有無と胃癌死の関連については、単独ではCochran-Mantel-Haenzel検定を実施した.多変量解析による胃癌死へのリスクは説明変数としてHPGが採択されるかどうか検討した. PGI、PGII値、PGRについては、胃癌死の有無別に各々の分布特性を観察した後、胃癌死へのリスクについては説明変数としてLPGI,LPGIIが採択されるかどうかを多変量解析にて検討した.胃癌死の指標として3項目間での有意性については胃癌死の有無を基準変数に、PGI、PGII値、PGRを説明変数とした「条件つき多重ロジスティックモデル」により検討した.胃癌死亡を予測するためのカットオフ値(基準値)についてはPGI、PGII値、PGRそれぞれの基準値を変化させてCochran-Mantel-Haenzel検定により有意なカットオフ値を推定した.更に、PGI、PGII値、PGR各々に、同じように基準値を変化させて敏感度及び特異度を求めROC曲線を作図し、ROC曲線の左上の頂点に近い敏感度・特異度を示す値を最適なカットオフ値とした. [結果] 老人健康診断受診者の胃癌の死亡率は1.58%であった。横浜市西区の胃癌死亡率は全国に比べやや高く、胃癌死亡の減少傾向もゆるやかな地域であった. 1996年9月現在迄の対照集団の追跡結果では、生存者は18名(平均年齢86.2才)であり、転出者は7名(平均観察機関9.9年)であり、死亡者は14名(平均死亡年例82.4才)であった. 一般健康診断血清検査16項目のなかで、胃癌死亡群は対照群と比較し総蛋白とAlbは下降し、GOTは上昇していた.RBC、Hb、TC、TGは胃癌死亡群で低下傾向を示しているが有意差はなく、WBC、GPT,Bilは胃癌死亡群が対照群より高い傾向ではあるが有意ではない.また、いずれの項目も胃癌死亡群・対照群ともに分布は設定基準値内であった.条件つき多重ロジスティックモデルでは、TP(オッズ比0.43)とPGI(オッズ比0.68)が低くなり、GOT(オッズ比1.77)とWBC(オッズ比1.32)が高くなると胃癌死亡群となる確率が高い傾向となった. 胃癌死亡の有無による血清Hp抗体の陽性率については今回対象の高齢者においては胃癌死亡群は92.3%、対照群は94.8%と両者間で有意差無く、いずれの群でも高い感染率であった. 高齢者での血清PG諸値については、PGIは胃癌死亡群(平均値25.0±SD25.0ng/ml)は対照群(41.3±36.5ng/ml)より有意(P<0.05)に低く、女より男が高い傾向(女32.6±23.2:男44.7±39.4ng/ml)を示し、PGIIは胃癌死亡群(13.3±18.7ng/ml)と対照群(12.7±8.8ng/ml)に差は見られず、男より女に減少傾向(男13.5±9.8:女10.6±4.4ng/ml)を示し、PGRは胃癌死亡群(2.3±1.6)は対照群(3.1±2.0)より低いが有意ではなく、また男女差も認めなかった(男3.0±2.0:女3.2±2.1)。 胃癌の死亡予測能においては、PGIは「t検定」、「判別分析」、「条件つき多重ロジスティックモデル」による検定ともに胃癌死亡群で有意に低く、PGIIはいずれの検定でも有意差はない.PGRは「t検定」で低い傾向を示したが有意ではない.また、胃癌の死亡予測を高めるための指標としての血清PG諸値のカットオフ値はPGIとPGRを組み合わせて用いた場合の敏感度・特異度が高く、高齢者の最適PGI値は60.0ng/ml以下で、かつPGRは3.0未満であり、その時の敏感度・特異度は76.9%・51.3%であった. [考察] 観察集団の胃癌死亡率が先行研究と比べ観察期間が16年間と短いにもかかわらず高いのは、(1)65歳以上の高齢者集団であること(先行研究は40歳以上からが多い)、(2)西区の受療圏には高度医療実施機関が有り、死亡診断書の精度も高く胃癌発見率が高いことによると考える.胃癌の年齢調整死亡率についても(2)の精度の高い診断書の影響と、西区は1980年より現在迄横浜市で人口の高齢化が一番進んでいる区であり、過去において死亡率の高かった脳卒中死亡の減少を反映し、高齢者の癌死亡が相対的に増加したことも一因と考える. Hp感染と胃癌との関連については、先行研究では若い年代の胃癌群や当観察集団と同年代のハワイ日系II世での陽性率が高いと報告されているが、本研究の高齢者では胃癌死亡群、対照群いずれもHp感染の陽性率が高く、両者に有意差は認められない.当観察集団のHp陽性率の高いことは社会的背景や環境衛生によると考えられる. 地域健康診断の結果と胃癌の死亡予測の関係については、今回のように胃癌死亡の4.3年前に行った検査においては、明確な自覚症状もなくすでに胃癌が存在していた可能性があるが、この時点で既に判別分析ではTPとPGIの低下や、GOTの上昇、WBCの増加が認められることは、単独では設定基準値内であっても、これらの指標をもとに分析すれば胃癌死亡の数年前に胃癌の存在を予測できる可能性を示している. 血清PG諸値については、PGI、PGII、PGRの3指標の中ではPGI、次にPGRの死亡予測能が比較的良好であった.また、PGIとPGRの組み合わせが、3指標単独の敏感度・特異度よりわずかながら高く、高齢者においては先行研究の胃癌の診断及び本研究の胃癌の死亡予測いずれにおいても有用と思われる. 1996年の追跡調査により新たに判明した2名の胃癌死亡者に本研究の判別関数及びPG値を適用すると、死亡より14年前と12年前の判別得点およびPG値ともに対照群と判別され、健康診断の時点では胃癌死亡のハイリスク群ではないといえる.しかし、健診データに判別関数を適用して胃癌死亡のハイリスク群となった時点で胃癌検診を実施していたなら胃癌を発見でき、結果として延命できた可能性もありうると考えられる.癌のスクリーニングは無症候の早期癌を救命可能なうちに発見するのが目的であり、健康診断の判定時に検査結果が基準値内であっても一律に異常無しとせず、総蛋白、GOT、WBC値、PGI値を用いた判別関数およびPGIとPGRの組み合わせから胃癌死亡のハイリスク群を選定し、X線検査や内視鏡による検査を勧奨すれば、胃癌死亡を減少させられる可能性がある。 |