さすがに「暗黒大陸」のような貶称はほぼ跡を断ったとはいえ、今日でも日本人がアフリカやアフリカ人に対して抱くイメージは、相変わらず野性動物が生息する大自然の風景でなければ、マサイ族やサン族(ブッシュマン)に代表されるかつての遊牧民を中心に構成されているように思われる。そうした日本人のアフリカ・イメージは何を根拠に、どのような過程をへて形成されてきたものだろうか。本論文は、日本・ポルトガル・スペイン・イギリス・ロシア・アメリカ・アフリカ諸国などに残された膨大な資料を博搜することによって、日本人のアフリカ認識の形成と変遷を、日本アフリカ交渉史と平行させながら、くわしく跡付けたものである。ここでいうアフリカとは、基本的にサハラ以南のいわゆるブラック・アフリカを指す。 これまで日本とアフリカとの関係については、アフリカに関する江戸期日本人の知見を扱った大脇岳夫論文や、明治時代のアフリカ観を主題とする西野照太郎論文など、いくつかのすぐれた研究があった。とはいえ本論文のように、直接交流が始まった16世紀中葉から現代までの約400年を通観する本格的な論考は、皆無である。筆者は十代の数年間をケニヤに過ごした経験があり、その折に胚胎した問題意識を手掛りに、以後一貫して、まだほとんど学問的に注目されることのなかったアフリカの歴史・文学の比較文化的研究に従事してきた。本論文は、そうした長年の研鑽の一部が浩瀚なモノグラフとして結実したものであり、従来のアフリカ学および比較文化史の重大な欠落を補い、今後の研究に確固とした礎石をすえる画期的な論考である。 民族イメージや人種イメージといったものは、単一ではなく、おおむねいくつかの類型から成る複合体である。その類型の多くは事実の歪曲や誇張、あるいは自己投影による先入見から生み出され、ほとんど妄想に近いものであるが、それにもかかわらず、異民族間・異人種間の交渉においては決定的な力を揮うことがまれではない。したがって、こうしたイメージの形成と変遷の経過を冷静に辿りなおして見ることは、「他者」理解のためにまず取り掛かるべき不可欠の基礎作業といえるだろう。 本論文は7章から成り、日本に初めてアフリカ人が到来した室町後期以来、ほぼ編年史的に、安土桃山、江戸、明治から昭和に至る各時代の日本人のアフリカ観を、要所でヨーロッパにおけるアフリカ・イメージとの比較を試みながら検証する。 第1章「安土桃山時代」の第1節「日本史における『黒坊』の登場-アフリカ往来事始」は、来日アフリカ黒人に関する最初の記録と思われるポルトガル人船長ジョルジ・アルヴァレスの報告をはじめ、イエズス会史料や、最初の日本側記録である『信長公記』などの古文書、屏風絵などにもとづいて、水夫や南蛮人の従僕、あるいは輸送中の奴隷として日本を通過した黒人の姿をまず明らかにし、日本人の対応を探る。そして16世紀後半に初めてアフリカを訪れた伊東マンショら天正遣欧使節の記録を検討したのち、第2節「奴隷貿易が与えた極東への衝撃」で、豊臣秀吉の対キリシタン政策や、1596年に土佐に漂着したスペイン船サン・フェリーぺ号事件を、奴隷貿易の観点から再考する。 第2章「江戸時代」では、17世紀初頭から19世紀中葉までの約3世紀にわたるアフリカ観が、日記その他の実見録や、海外情報をもとに編纂された輿地誌類、漂流民の記録、万延遣米使節の見聞録、当時の絵画などにもとづいて跡付けられる。また当時、アフリカを舞台として繰り広げられ、のちにアフリカ・イメージの形成に決定的な影響を及ぼすことになる大西洋奴隷貿易についての知識が、江戸時代の日本でどのように把握されていたかが検証される。 第3章「高貴なる野蛮人」では、日本人のアフリカ観をより大きな文脈のなかで捉えるために、英国とロシアのケースが取り上げられる。第1節「18世紀英国人の黒人観」では、明治以後の日本、ことに大衆文学のレベルで定着したアフリカ観、アフリカ人観の祖型が18世紀イギリスに源を発することが明らかにされ、第2節「18、19世紀ロシアとアフリカ」では、アフリカでの奴隷貿易や植民地経営に直接手を染めなかったロシアの場合、西欧諸国の多分に意図的、宣伝工作的な「暗黒大陸」観とは異なったアフリカ・イメージが見られる点が指摘される。 第4章「明治時代」は2部から成る。第1部「探検時代」の第1節「探検と殖民-明治期日本におけるアフリカ像」では、福沢諭吉の啓蒙書、志賀重昂の南アフリカ訪問記、民間人として初のアフリカ旅行を果たした「五大洲探検家」中村直吉の記録が辿られ、第2節「『暗黒』の系譜」では、リビングストンとスタンレーの受容が明治期日本人のアフリカ観に及ぼした影響が論じられる。また第3節「世期末戦争と日本人」では、今世紀初頭、南部アフリカの弱小民族であったボーア人が大英帝国を相手に戦った南アフリカ戦争が取り上げられ、日本の新聞でこの戦争が詳細に報道されたにもかかわらず、黒人の存在が徹底して無視されて、当時支配的であった、いわば黒人不在のアフリカ観を露呈している点が明らかにされる。一方、第2部「『佳人之奇遇』にみるアフリカとの連帯」では、早くも明治中期にアフリカ人との連帯を唱えた東海散士の政治小説『佳人之奇遇』をめぐって、南アフリカ出身の白人作家ローレンス・ヴァン・デル・ポストとも通じ合う散士の特異な思想が分析される。 第5章「冒険譚とアフリカ人-大衆文化のなかの黒人像」は、明治・大正・昭和の日本でアフリカ人のイメージがどのように一般化され、類型化されていったかという問題を、冒険小説・少年文学・映画といった大衆メディアを通して検証する。強い誇張や歪曲を含むステレオタイプをひろく浸透させるという点で、サブカルチャーの及ぼす影響力は際立っている。アフリカとの本格的な外交折衝が始まる昭和中期以前、アフリカを舞台とした読み物や「ターザン」映画が大衆から熱狂的な支持を得た結果、誤解と偏見に塗り固められた「暗黒アフリカ」像が定着することになる。 第6章「日本人のアフリカ発見-エチオピア・ブームの到来」は、日露戦争以後、日本に強い関心と「憧れの心」をもっていたエチオピア人との密接な交流と、そこから生じたアフリカ・ブームを追跡する。日本に派遣された最初のアフリカ外交団であるエチオピア使節は、昭和6年(1931)に来日し、約2か月の滞在中に全国の主要都市をまわり、その動静が連日のように大きく新聞報道された。エチオピア移住への関心が高まるとともに「エチオピア熱」という言葉が生まれ、2年後に来日したエチオピアの青年貴族と日本の華族令嬢との婚約発表で、熱狂は最高潮に達する。この婚約は実を結ばなかったが、エチオピアと日本の親密な関係は戦後まで続いた。 第7章「イメージの檻」では、戦後のアフリカ・イメージを象徴する2つの作品が検討される。第1節「アフリカン・ヒーローの誕生-『少年ケニヤ』」では、文字どおり日本で初めてアフリカ人を主役にすえた山川惣治の絵物語が論じられ、第2節「チビクロサンボの運命」では、近年日本でも人種差別をめぐって深刻な議論を招いたこの童話の実像と虚像、厄介な争点の機微が論じられる。 このように本論文は、信長にひとりの「黒坊」が献じられて以来、おおよそ1960年頃までをひと区切りとして、日本とブラック・アフリカとの交渉史を辿りながら、日本人のアフリカおよびアフリカ人イメージとその形成・変遷の経緯とを、さまざまな分野の膨大な資料によって厳密に跡付けるものであり、日本におけるアフリカ研究、比較文化史研究にめざましい寄与を果たすすぐれた論考である。文体はよく整理されて読みやすく、文献表も詳細を極めている。ただ、本論文にはまだ不十分な点もある。たとえば「虚像」としてのアフリカ人像に対する現実のアフリカ人についての記述が、やや単純化・理想化の方向に流れるために、逆向きのステレオタイプ化に陥る危険なしとはしないことと、またイギリスやロシアなどの情勢分析に厚みが欠けること、さらには近年海外でめざましい進境をとげているアフリカ研究への目配りがじゅうぶんでないことなどが、今後のさらなる掘り下げに期待される点である。 とはいえ、それは本研究の価値を損なうものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。 |