学位論文要旨



No 213483
著者(漢字) 原,不二夫
著者(英字)
著者(カナ) ハラ,フジオ
標題(和) マラヤ華僑と中国 : 帰属意識転換過程の研究
標題(洋)
報告番号 213483
報告番号 乙13483
学位授与日 1997.07.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第13483号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 桜井,由躬雄
 東京大学 教授 石井,明
 東京大学 教授 木畑,洋一
 東京大学 教授 長崎,暢子
内容要旨

 「大東亜戦争」開始前、とりわけ1937年に「日華事変」が始まって以降、マラヤ華僑の政治活動は、祖国中国とのつながり、中国の抗日闘争への支援、という側面から分析がなされてきたが、「大東亜戦争」でマラヤが日本占領下に置かれた時期に関しては、マラヤ華僑の抗日戦争をひとえにマラヤを守るための闘いとみなし、中国との関係に触れないまま、抗日戦争のなかで華僑のマラヤ帰属意識が確立した、とする見方が一般的である。

 本稿は、このような見方は歴史を正しく反映していないのではないか、という疑問から出発しており、マラヤ華僑のマラヤ帰属意識が現実にはいつどのような過程を経て確立したか、を探ろうとしたものである。

 中国と華僑との結びつきは、華僑の中国帰属意識の強さ、中国の国内政治への関与を目的とする人物(とりわけ指導者)・組織・活動の存在、中国政府の華僑問題への関与、という三つの要素から成り立っている。本稿では三要素それぞれに光を当てている。

 本稿は、2部に別れる。第I部では第2次大戦前と戦中を、第II部では戦後を扱う。

 第I部では、日本占領期の華僑の政治活動と意識形態に焦点を当て、併せて、それらが第2次大戦前どのようにして形成されたかを検討する。

 戦前については、南洋共産党およびマラヤ共産党(マ共)の指導者がどのような人物であり、中国、中共とどのような関係をもったか、マ共は同党の党員、路線のマラヤ化のためにどのような努力を払ったか、なぜマラヤ化が進まず中国重視(抗日救国)路線が確立していったか、日本占領下に入ってからは、華僑抑圧・種族分断策のなかで華僑の置かれた状況、マ共と同党傘下のマラヤ人民抗日軍の抗日闘争の実態、戦前の抗日運動との関連、こうした状況、闘争が華僑一般及びマ共に及ぼした影響、あるいは意識変容、とりわけ、彼らの意識における中国とマラヤとの位置付けの変化、マレー人との関係などが、分析の中心になる。ここでの最大の要諦は、日本軍による占領が華僑の中国帰属意識払拭、マラヤ帰属意識確立をもたらしたか否か、もたらしたとすればどのような形態、意味においてか、である。戦後抗日軍が英軍との合意に基づいて武装解除したのはなぜか、については、従来はマ共党員あるいは抗日軍隊員の帰属意識と結びつけて論じられることはなかったが、その点も再検討する。

 第II部では、戦後の華僑の意識の変容、マラヤ帰属意識の確立の過程を追っている。

 戦後についても、現実には華僑と中国とのつながりは依然根強く残り一部ではむしろ逆に強化されたにも拘らず、中国と華僑との具体的な関係及びその変容をあとづけた研究はほとんどなかったといってよい。抗日戦争を「分水嶺」とする見方が大前提となっていた上に、華僑の経済力についての分析やマラヤの独立運動への関わりについての分析が余りにも大きな主流となったために、中国とのつながりは軽視されたのである。とりわけ、戦後の政治活動の支柱の一つとなったマラヤ共産党(マ共)については、マラヤ政治における役割のみに焦点が当てられて、中国政治への関与、彼らのもつ中国帰属意識は全く閑却されてきた。この空隙を埋めるため、本稿は、どのような中国関連の組織・運動があったか、それはどの程度の広がりをもち、どう変容あるいは衰退・消滅したか、華僑の戦後の中国指向はどのようなもので、それは、いつ、いかなる理由で、いかにしてマラヤ指向に転換していったか、を分析している。

 1947年半ば時点で、96%の華僑が中国国籍を保持したままのマラヤ公民権取得を望んでいたこと、こうした認識に支えられて、「中国民主同盟」(民盟)など中国解放運動への関与を求める中共派組織が大きな影響力をもち、マ共も中国を「祖国」と呼び中国国籍保持を主張したこと、マ共の明白なマラヤ指向への転換がその路線急進化・武装闘争開始とほぼ時を同じくしていること、などに触れる。

 華僑大衆一般の認識を斟酌するうえでの重要な指標として、その他、華字紙の論調(中国とマラヤの位置付け)、中国政府(1949年以降は中華人民共和国政府)の現地における具体的な華僑政策(華僑教育、オリンピック代表選抜方法など)を取り上げた。マラヤ華僑と中国(とりわけ中国共産党)との具体的なつながりを見るため、中国帰還者の両国にまたがる活動、中華人民共和国政府の帰還者に対する処遇の仕方、をも追跡した。

 結論は以下のとおりである。

 マラヤ華僑全般がマラヤ指向を強めた最大の理由は、彼らが、日本の占領政策(強制献金、強制入植など)がもたらした経済基盤の破壊、イギリス植民地当局による強制移住で苦境に陥り、戦前同様中国政府(具体的にはマラヤ各地の領事館)に救済を求めたのに対し、中国政府・領事館が無力だったことである。替ってマラヤの問題はマラヤ内部で解決しなければならないとする勢力が力を伸ばしていった。この、華僑保護の任務を負う機関の交代は、1950年代前半に起きた。その他、双十節集会の消滅(マラヤ連邦1957年、シンガポール58年)、中共派諸組織の消滅もしくはマラヤ指向組織への変容(50年代半ば)、「全マラヤ華人登録団体代表大会」(56年)、華字紙における「祖国」「故国」「我が国」の中国からマラヤへの転換(57年)、華字紙の休刊日の中国離れ(50年代後半)、華文学校教科書のマラヤ化(50年代半ば)、オリンピック代表のマラヤ化(56年)など、華僑のマラヤ帰属意識確立の指標となるべき重要な項目がことごとく1950年代半ばに集中している。これはまさにマラヤ連邦独立(57年)の前夜である。独立国家形成への歩みが国民意識の醸成・助長に深く関わっていたことは言を俟たない。

 変容は、総てが自らの意思によるものではなく、大量強制送還などの’痛み’を伴うものだった。中国政府が、帰還した中共関係者に比してマ共関係者を冷遇した嫌いがあることも、’痛み’を大きくし、また、華僑と中国との距離を広げる作用を果たしたと思われる。こうした’痛み’を理解せずして帰属意識確立を論ずることはできない。

審査要旨

 原不二夫氏の論文『マラヤ華僑と中国-帰属意識転換過程の研究』は、第二次世界大戦期からマラヤの独立が達成される1957年までの時期を中心として、マラヤ在住華僑の間での中国への帰属意識とマラヤへの帰属意識の間の葛藤を検討した論文である。

 第二次世界大戦期を中心に扱った第一部(3章により構成)では、この時期のマラヤ華僑の抗日戦争によって、彼らのマラヤ帰属意識が確立したとする、従来の主流的見解に疑問を提示し、当時のマラヤ華僑の間では依然として中国への帰属意識が強く、彼らにとっては、抗日戦争は中国の抗日戦争の一環であり、だからこそ、第二次世界大戦が終了した時点で、マラヤにおける権力奪取の機会があったにもかかわらず、マラヤ共産党が武装闘争を停止するといった事態も生じたのだとしている。

 第二次世界大戦後の時期を扱った第二部(8章により構成)では、この時期の新聞・雑誌、華僑組織の動態などの緻密な分析によって、大戦直後の段階では、世論調査で「マラヤ公民になるが中国国籍は保持する」とする華僑が96%に達するなど、マラヤ華僑の中国指向がきわめて強かったことが解明され、それが、1950年代の前半になって、(1)中華人民共和国の成立、(2)イギリス当局による強制送還、(3)マラヤの独立、(4)マラヤでの生存権確保という切実な課題の浮上という過程のなかで、ようやくマラヤ帰属意識の本格的な成長を促すことになったことが分析されている。

 本研究は、当該時期におけるマラヤ華僑の政治活動と帰属意識の変化を、きわめて実証的に丹念にあとづけた研究で、第二次大戦期から独立期にかけてのマラヤ華僑研究としては、日本を代表する、世界的な水準にある研究である。特に、イギリス側資料のみならず、華僑の政治運動参加者の回想を中心とする当事者の資料を丹念に発掘し、史料批判をしながら個々の事実や人物像を確定していった作業は、きわめて貴重な意義をもっている。また、本研究は、東南アジア在住華僑に関して、20世紀前半には中国ナショナリズムの強化が指摘されていながら、20世紀後半は居留国への帰属意識が強まる過程として描かれるという、従来の研究の断絶・空白を埋め、第二次大戦の戦中・戦後におけるマラヤ華僑の中国指向の強さを明らかにしつつ、その中にどのようにその後のマラヤ帰属意識の強化という転換の契機が生まれていったのかを丹念に解明している点で、マラヤに限らず、東南アジア華僑研究全体の水準を大きく高める研究業績と評価できるものである。

 本論文は、筆者のこれまでのマラヤ華僑政治運動史研究の集大成であり、すでに発表された論文を、一貫した視角から統合して単一の論文に統合したものである。華僑の中国指向を丹念にあとづけたため、筆者のマラヤ像、マレー人像が鮮明でないなど、本論文が、若干の欠陥をもっていることは否定できないが、この弱点は、本論文の基本的な価値を損なうようなものではない。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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