『平家物語』の現存本文は極めて多様な姿を呈しているが、それは本文の流伝のなかでさまざまなテキストが生み出されたためであり、したがって、それをそのまま遡らせてオリジナルな原型本文とみなすことは出来ない。そこで『平家物語』の研究においては、常に、原型をさぐる古態論の視点が重視されるのであるが、本論文は、『平家物語』の源流に遡る方法を理論的に構築するとともに、具体的に実践したものである。 本論文は四部から構成されている。第一部「『平家物語』古態論」は「第一章『平家物語』古態論の方法」、「第二章『平家物語』の『愚管抄』依拠」、「第三章『平家物語』の『方丈記』依拠」、「第四章延慶本『平家物語』の〈編集錯誤〉について」の四章から成る。第一章では理論的な検討を行い、所謂〈古態〉論の対象が、〈異本〉から〈原態〉を探る作業であることを明確にする。従来、研究者間に古態論の観念にずれがあり、古態論に混乱をもたらしていることを踏まえて、一般的な本文批判の方法である系譜法によって系統図を描く伝本論は、『平家物語』の場合はそのままでは適用できないことを明らかにする。第二章・第三章では、『平家物語』に先行する典拠とされる『愚管抄』と『方丈記』を例にとり、従来の古態説を批判して、四部本の特殊な引用方法を後次的なものとする。第四章では記事の構成を分析することによって、〈編集錯誤〉と呼ぶべき現象が、物語成立当初の姿を伝えている可能性を論じている。 第二部「四部合戦状本『平家物語』論」及び、第三部「『平家物語』と説話・伝承」においては、四部合戦状本というテキスト及び、『平家物語』を構成する説話・伝承の分析を通して、具体的に源流へ遡る試みを実践している。 まず第二部は、「第一章 四部本研究の見取り図」において、真名表記の問題と最終的改作の具体的解明が重要な論点であることが示され、「第二章 「法滅先蹤」と最終的改作」以下、「第九章 『保暦間記』と四部本・盛衰記共通祖本の想定」までの各章で、四部本の古態論の具体的検討が行われている。かつて、四部合戦状本は『平家物語』の諸異本の中で古態性をもつテキストであるとみなされたが、延慶本古態論が盛んに論じられるようになってから、四部本は等閑に付されてしまった感がある。本論文は、四部本の重要性は失われたわけではないとして、読み本系共通祖本から分岐した四部本・源平盛衰記共通祖本から、さらに最終的改作を経て、現存四部本が成立したものであることを明らかにした。これは、『平家物語』古態論の一つの局面を大きく進展させたものとして、高く評価できる。また、四部本を成り立たせている言語圏が、真名本『曽我物語』や『神道集』『平家物語族伝抄』『平家打聞』と共通することを明らかにし、『平家打聞』と古今集注釈に係わる人々とに接点が予想されることなどを指摘した点は、今後の研究に大きな示唆を与えると思われる。 第三部は、「第一章 有王説話と冥界訪問譚」「第二章 『平家物語』と『予章記』」「第三章 「いくさがたり」をめぐって」「第四章 『足摺』考」「第五章 重衡造形と『平家物語』の立場」の五章から成る。『平家物語』を構成する説話的部分は個別説話としての原型をもつとする想定に基づいて、個別の説話として遡源を試みている。伊予の河野家の記録として作られた『予章記』の分析から、読み本系『平家物語』と『予章記』との共通祖本を想定し、また、有王説話と冥界訪問譚や、橋合戦などの「いくさがたり」の分析から、物語を生み出す人々の欲求や志向を析出するなど、源流の個別説話・伝承が物語に取り入れられてゆく時の問題点を論じている。 第四部「『平家物語』の視点とその時代」においては、三つの章で、『平家物語』が歴史を語る視点の在り方を時代背景に遡って明らかにしようと試みている。「朝敵」という言葉が平安末ごろに新たに作られた和製漢語であることを指摘して、「将軍による朝敵の追討」という構図が軍記物語の重要な枠組となっていることを明らかにし、「夷狄」という言葉が主として「もののふ」の如きものとして観念されていたことを明らかにする。そして、頼朝または頼朝の時代が現在の秩序の創始であるという観念が中世の人々の基底にあって、物語を深いところで支えていると論じている。第四部で論じられた事柄は、単に『平家物語』や軍記物語のジャンルにとどまらず、中世のあらゆる事象の根底に存在する問題として、今後さまざまに展開する可能性を豊かに孕んでいる。 本論文の論述に従えば、古態論は結局〈原作〉には辿り着かない。とすると、遡源の射程には大きな限界があることが前提されていることになり、古態論は何を目指すのかが、もっと明瞭に示される必要があるであろう。しかしながら、間然するところのない明晰な論述で、本論文が挙げた成果は上記の諸点を中心に極めて多く、今後の研究の進展に対しても極めて重要な示唆をもたらしていると言える。 よって、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。 |