学位論文要旨



No 213486
著者(漢字) 金,鍾徳
著者(英字)
著者(カナ) キム,チョントク
標題(和) 『源氏物語』主題論 : 伝承と作意
標題(洋)
報告番号 213486
報告番号 乙13486
学位授与日 1997.09.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第13486号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,日出男
 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 戸倉,英美
 東京大学 教授 吉田,光男
内容要旨

 『源氏物語』に内在するさまざまな伝承話型は如何に虚構化され、恋の人間関係を造型しているのか。夙に本居宣長は「物のあはれ」として、折口信夫氏は「色好み」として、この物語の本意を把握している。ところが、「物のあはれ」も「色好み」も、光源氏を中心とする恋の人間関係を定義している点では、同じ概念であるといえよう。この研究では、伝承話型と光源氏の人間関係がどのように作意され、『源氏物語』の主題を形成しているのかを究明した。以下、『源氏物語』の主題を具体的に眺望した本論の主な論点を整理する。

 第一章では、桐壺巻の高麗人の予言、若紫巻の夢占い、澪標巻の宿曜の判断を分析し、光源氏の栄華と王権を達成する過程を考察した。予言は十一年単位に、光源氏の七歳、十八歳、二十九歳に行われて、四十歳の賀宴前にほとんど実現され、栄華と王権をもたらした。光源氏は冷泉帝による潜在王権、斎宮女御による准摂関、明石女御による摂関的な関わり方で栄華の予言を達成した。そして藤裏葉巻で准太上天皇の位を得て、冷泉帝、朱雀院が六条院に行幸し、同列に座ることで名実相伴う六条院の王権が実現される。すなわち、光源氏の栄華と王権は、予言を実現させようとする光源氏の努力と、恋の人間関係をもった結果によって実現されるものであった。

 第二章では、桐壺更衣の父故大納言、桐壼院、明石入道、六条御息所の遺言がいかに光源氏の王権獲得に重要な役割をしているのかを分析した。桐壺更衣の父故大納言と明石入道は娘一人に家運のすべてをかけた遺言をしている。桐壺院の遺言は朱雀帝に働きかけて須磨・明石に退去していた光源氏を救出する。そして須磨・明石から帰京した光源氏も遺言を守り、冷泉帝の後見として潜在王権を獲得する。また光源氏は六条御息所の遺言を守り、前斎宮を養女として入内させることで、准摂関的な栄華をもたらす。すなわち、遺言は予言や夢占い、宿曜の判断とともに物語の主題を展開させ、光源氏の王権獲得に重要な役割を果たすことになる。

 第三章では、〈色好み〉がいかに和歌を詠むことと関わりながら伝承されているのかを考察した。孔子の儒教理念や王道思想で、〈好色〉は常に警戒すべき行為であったが、孟子は自然状態の人間性であると説いている。『古事記』の古代英雄たちは、多くが〈色好み〉で、歌によって美しい女性の魂を引きつけている。しかし〈色好み〉の用例が全く見えないのは、光源氏に〈色好み〉の用例がない点と共通している。平安時代の〈色好み〉は、脇役くらいの人物に喩えられ、歌や音楽、舞などの諸芸能にすぐれた資質をそなえた風流士であった。ところで、〈色好み〉の体現者である光源氏は、多くの恋の人間関係をかかえ込んだ結果、最高の栄華と王権を獲得するようになる。すなわち、光源氏の理想性は、〈色好み〉の修飾だけでは収まりきれず、平安時代の〈色好み〉をあらためて古代的な本性に溯らせて再構築したものと思われる。

 第四章では、貴種流離譚の類型として、光源氏の須磨流離の動機や人間関係の内奥を究明した。記紀以来、流離の主人公はかぐや姫や在原業平、俊蔭、落窪の姫君など、虚構物語の作意によって、さまざまの変形が行われている。光源氏の流離譚は須磨退去と明石の霊験物語からなっているが、結果的には栄華を獲得することになる。光源氏が須磨に退去する動機は、朧月夜との密通が右大臣によって露顕されたことであった。ところが、裏面の動機は夢占いの「違ひ目」であって、藤壼との密通によって生まれた東宮の安泰を守ることであった。澪標巻で思い出す宿曜の予言は、将来后になるべき明石の姫君が生まれる人間関係を先取りしていた。光源氏の須磨流離には後見の象徴である月影に見守られ、話型と人間関係が表裏一体になっていたと思われる。

 第五章では、光源氏の栄華に関わる住吉信仰と霊験譚の伝承について考察した。『源氏物語』の霊験譚には、光源氏を危機から助ける桐壺院の山陵の霊験、明石入道に幸運をもたらした住吉明神、右近と玉鬘に再会をかなえてくれた長谷観音などがある。住吉の神は光源氏を須磨の暴風雨から救ってくれるばかりでなく、光源氏の摂関的栄華を実現させる最も重要な役割を果たすことになる。須磨流離から帰京した光源氏は、まず最初に故桐壺院の追善供養のための法華八講を行った。そして澪標巻と若菜下巻では、住吉の神に参詣して願ほどきをする。すなわち、光源氏の栄華は、源氏と藤壼、源氏と明石の君という恋の人間関係と、その裏面にある予言や霊験などによって成就される。

 第六章では、貴種流離譚のバリエーションであると言われる継子譚の類型と伝承を考察した。つとに折口信夫氏は継子譚を貴種流離譚の分岐として、関敬吾氏は成年・成女式の通過儀礼の反映として成立したと分析されている。『古事記』の須勢理毘売命、石之日売皇后などの神話伝説から考えると、後妻妬みに継子いじめという潜在意識が内在されていたのではなかろうか。『源氏物語』の典型的な継母子関係としては、弘徽殿大后と光源氏、式部卿宮の北の方と紫の上、頭中将の北の方と玉鬘などを取り上げた。『源氏物語』の継子譚は、話型を取り込みながら、恋の人間関係と複雑に絡み合っている。その好例が光源氏、紫の上、玉鬘であり、幸せになっても復讐をすることなく、逆に自分たちが継父と継母になると、継子によい父母として慕われるようになる。継子譚は女性の享受者によって支持され、育まれたものであるが、婚姻制度や家族関係によって話型も変形・超克されてきたと思われる。

 第七章では、「月日の光」や「玉の光」の伝承と、光源氏の王権獲得について考察した。月日や玉の表現群は大陸の神話伝説や日本の神話、物語などで王権の象徴となっている。日月の人格神は古代においては女性が太陽で、男性が月であった。ところが、律令体制が整うにつれて、その反対になってしまう。『古事記』や『万葉集』の「高光る日の御子」という類型的な表現群は男女の区別よりも皇権の象徴表現であった。『源氏物語』では「日の光」が皇権、「月の光」が後見と王権に象徴されている。ところが、もともと「月の光」も皇統の象徴表現であったが、「日の光」に相対化され、後見役の立場になる人物は「月の光」になる。『源氏物語』では、皇位につく藤壼と冷泉帝、明石女御と明石女御腹の皇子などは「日の光」に、後見の立場になる光源氏と明石の姫君は「月の光」に比喩されている。まるで自然界の月が太陽の光に反射されて輝くように、光源氏は皇権との関わりを持つことによって光り輝いている。すなわち、光源氏が栄華の王権を獲得していく過程で、 「月日」とか「玉」などの比喩表現は、人間関係を先取りしていたのであった。

 第八章では、天人女房譚の伝承が桐壺更衣、藤壼、紫の上、空蝉、玉鬘などにどんな形で投影されているかを考察した。羽衣の話型は全世界的に流布されているが、『風土記』の「伊香小江」や「奈具社」伝説以来、さまざまに変形されて物語の主題を拘束している。例えば、かぐや姫の流離と多くの求婚者を引きつける美貌は、紫の上などの女君ばかりでなく、〈色好み〉の光源氏の容貌表現にも投影されている。また女君たちの人物像にも羽衣伝説と求婚説話が重層的に引用され、光源氏との人間関係を中心に主題を形成する。それで、桐壺更衣と藤壺、紫上、空蝉などには羽衣伝説、玉鬘には求婚譚、光源氏や玉鬘は貴種流離譚を中心に物語の主題が作意されている。すなわち『源氏物語』には、羽衣、天人女房譚という話型が人間関係の場面ごとに変形されて伝承されている。

 第九章では、光源氏の栄華と宿世について考察した。光源氏は藤壺、女三宮、紫の上など、多様な恋の人間関係を持つことで栄華を獲得したが、またそれがためにわが宿世を思い知らされることになる。『源氏物語』の宿世の語は一一六例もあって、仏教的因果の思想から男女関係の葛藤を語るのに必要不可欠の表現になっている。若菜上巻で六条院に降嫁した女三宮の密通、出産、出家の過程で、光源氏は藤壼事件を思い出し、数寄な人生の宿世であることを痛感させられる。そして冷泉帝が皇子のないまま譲位すると、光源氏はわが罪と冷泉皇統の断絶が「宿世」によるものと実感する。また藤壼、女三宮、紫の上もそれぞれ光源氏との関わりにおいて、自分たちの宿世を実感している。すなわち光源氏の栄華は、女三宮の降嫁で絶頂に達したようであった。だがしかし、女三宮と柏木の密通、紫の上の絶望と死去で、光源氏はわが宿世を痛感し、もう出家の道しか残されていないことを自覚する。

 第十章では、光源氏の愛執と出家願望について、「思し立つ」「世を背く」「本意」などの用例を中心に考察した。光源氏の出家願望にも六条御息所、藤壼、紫の上との人間関係が深く関わっていた。光源氏は葵の巻、絵合巻、藤裏葉巻で、出家を決意していたが、紫の上、冷泉帝との「絆」のために、それを延ばしていたのである。若菜上巻で女三宮が降嫁すると、紫の上は栄華のなかで憂愁の人生を述懐してから発病し、出家を望むが、光源氏はこれをきびしく制止する。ところで、光源氏が深刻に出家を決意するようになるのは、若菜下巻以後、絶望的な愛執の権化となった六条御息所の物の怪が出現してからである。しかし、光源氏は紫の上が亡くなってからも、四季の循環に身を委ねて出家を延ばし、ついに物語の外側で出家を遂げることになる。

 『源氏物語』の第一部と第二部の主題は、伝承話型と作意が光源氏をめぐる人間関係の物語のうちに溶け込んで、その人生の歴史の光と影になっている。光源氏は「世になくきよらなる玉」((1)九四)のような美貌に生まれ、〈色好み〉の人間関係をかかえこんだ結果、栄華と王権を獲得することになる。しかし、紫のゆかりへの執着ゆえに、光源氏は晩年の若菜上巻で女三宮の降嫁を受け入れ、六条院の人間関係は相対化され、調和を失ってしまう。そして光源氏は最後まで絶望的な愛執を捨てきることができず、宇治十帖という物語の外側で出家をするほかなかったのである。すなわち、『源氏物語』の主題は、伝承と虚構が織りなす栄華とかげり、罪と救済の物語であると思われる。

審査要旨

 本論文は、『源氏物語」に内在している数多くの説話や伝承の話型を分析し、それが物語としての主題の形成にいかに関わっているかについて論じたものである。具体的には、主人公光源氏をめぐる人間関係がおのずと彼を極上の栄華へと導いていく物語の展開過程を見据え、その過程で民間的な伝承と物語作者の創意が巧みに関わっているとして、そのことを通して、光源氏の光と影を織りなす独自な人生史が生み出されていることを論証しようとする。従来の研究においても、この作品に内在する伝承の話型に関する論考は少なくなかったが、ここでは特に、伝承をふまえることでかえって物語の独自な創意が確保されるという見方が強調されている。その点が、本論文のすぐれた方法論になっている。

 以下、個別的にみると、光源氏の人生が多様な予言や遺言に規制されている点を論ずるところでは、従来の諸説を批判的に整理しながら、物語の構想と主題の関係をきわめて的確におさえている。また光源氏の人物造型を特徴づける〈色好み〉の理念については、それが和歌と不可分に結びつくことで実現されているとする指摘も斬新である。

 続いて、物語の主題の展開に即しながら、そこに内在する貴種流離譚・住吉信仰と霊験譚・継子譚・月日の光や玉の光の伝承譚・天人女房譚などがとりあげられ、それぞれが物語の創造性といかに関わっているかを論じている。その分析に際しては、豊富な文献資料を駆使している。ここでは、話型の指摘程度にとどまることなく、あくまでも物語の人間関係に即した構造分析として一貫している。特に、藤壼・明石の君などをめぐる女性交渉を通して、やがて光源氏が栄華への途をたどっていくという物語の独自な論理を析出している点が注目される。その点が、本論文の最もすぐれた独自性であると評価される。

 しかし、多少の疑問点も含まれている。伝承話型の分析論証の過程で、中国・韓国の説話にまで及ぶところも多いが、その論証の手続きにはなお一考を要するところもある。特に『三国遺事』に関していえば、直接の影響関係とみるか話型一般の普遍的な関係とみるか判然としていない。また、物語全般の構想に関して、11年単位の切れ目があるとするが、大胆な仮説であるだけに不安が残る。

 本論文には如上の疑問点も含まれるが、論文全体の趣意を決定的に損なうものではない。それよりも、伝承話型がいかに物語の主題と有機的に関わりえているかの問題に、新しい方向性を拓いている点を高く評価すべきである。

 よって、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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