学位論文要旨



No 213520
著者(漢字) 小池,伸一
著者(英字)
著者(カナ) コイケ,シンイチ
標題(和) 非線形アルゴリズムを用いた適応フィルタの解析手法と特性の改善に関する研究
標題(洋)
報告番号 213520
報告番号 乙13520
学位授与日 1997.09.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13520号
研究科 工学系研究科
専攻 電気工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 羽鳥,光俊
 東京大学 教授 今井,秀樹
 東京大学 教授 原島,博
 東京大学 教授 坂内,正夫
 東京大学 助教授 相澤,清晴
内容要旨

 1980年代に標準化と実用化のための研究開発が急速に推進されたISDNは,近年ようやく本格的普及の時期に入ったといえる。そのきっかけは,マルチメディア通信サービスが現実化したこと,インタネット利用が爆発的に伸びる兆しが見え始めたことであろう。当初ISDN普及の鍵は,低料金を可能とするシステム価格であり,就中加入者アクセスのコストであると言われた。狭帯域ISDNの「基本アクセス」サービスについては,既存のメタリック加入者線の利用が必須とされ,二線式撚り対線によって144キロビット/秒のディジタル伝送の実現が必要となったのである。その一つの方式として,エコー消去による双方向伝送が有力な候補とされた。双方向ディジタル伝送における二線四線変換に用いるエコー消去器は,適応フィルタの典型的な応用例である。

 また近年遠隔会議システムを積極的に導入する企業が急速に増えつつある。そこでは,会議室内の音響エコーを消去することにより双方向の自由な会話が可能となる。携帯電話の分野でも,車載のハンズフリー電話器の実現には,音響エコー消去の技術が不可欠である。このような音響エコー消去器もまた,適応フィルタ技術の応用によることは周知のごとくである。

 有線・無線に依らず,ディジタル伝送における様々な伝送路歪の除去には,古くから自動等化技術が開発されかつ広く実用化されている。具体例として,音声帯域高能率モデム・ディジタル加入者線伝送送受信器・マイクロ波ディジタル多値変復調器・衛星通信用変復調器などを挙げることができる。最近ではディジタル方式の携帯電話においても,マルチパス干渉除去に自動等化技術が適用されている。自動等化器は適応フィルタそのものと言ってよく,特に判定帰還等化器は重要で広く使用されている。

 さらに,発生源が既知である室内などの背景雑音を除去する目的で,雑音除去器(ノイズキャンセラ)が有用であるが,これもまさに適応フィルタ技術の応用に他ならない。

 以上見たように,適応フィルタは通信・音響の分野だけでも数多くの応用例を有するが,自動制御・医療・地質等々さらには軍事にと幅広く実用に供されている。適応フィルタの実用化技術を支えるものは,一つにはディジタル信号処理理論の発展であり,他は高速・大容量LSIの長足の進歩である。このような背景の中で,適応フィルタの制御アルゴリズム・収束条件・特性・設計理論などの研究が進展している。特に適応フィルタ技術の実用化の観点からは,理論に裏付けされた「設計ツール」を充実させることが重要な課題と考えられる。

 本研究では,上述の課題に対して,従来充分な理論的解明がなされていない適応フィルタの「非線形アルゴリズム」の解析を通じて,収束などの特性を容易にかつ高精度で計算するための理論式の導出を検討した。また非線形アルゴリズムを用いた適応フィルタの特性の改善に重点をおき,新しいアルゴリズムを提案し検討を行った。

 第I章では,本研究の対象であるFIR型適応フィルタの「非線形アルゴリズム」として,タップ重みの確率勾配更新における誤差信号と参照信号の相関計算に,極性関数などの非線形関数を用いるアルゴリズムと定義する。また本研究の背景と目的について述べ,各章の内容を概説するとともに,使用する各種記号を一覧する。。

 第II章においては,本研究を通じて用いる,フィルタ入力参照信号・タップ重み・相加雑音に関する基本的仮定を述べるとともに,非線形アルゴリズムの代表としてサインアルゴリズムの従来の解析方法を整理し,その考え方の延長上で一般の非線形アルゴリズムの解析手法を示す。適応フィルタの入力参照信号がガウス過程である場合に,「タップエラー」(タップ重みの最適値からのずれ)の値が所与のとき,誤差信号はガウス分布することから,タップエラーの平均と分散に関する漸化式を導く。この漸化式によれば,MSE(二乗平均誤差)の収束過程を簡便に計算できるが,タップエラーの確率分布を考慮していないため,その精度は一般に充分でない。非線形アルゴリズムの例としては,サインアルゴリズムの他,サインドリグレッサアルゴリズム・サイン-サインアルゴリズム・正規化サインドリグレッサアルゴリズム・「相関非線形処理アルゴリズム」を取上げ,それぞれに具体的計算式を与える。またいくつかの実例につき,収束過程のシミュレーションと理論計算値とを比較し,理論式の精度を調べる。

 第III章では,タップエラーの確率分布を考慮した適応フィルタの解析手法を提案する。入力参照信号・タップエラーに関する一般的な仮定に基づき理論を展開する。次に実験から得られる統計的データをもとに,タップエラーが近似的に結合ガウス分布する確率変数と仮定して,一般の非線形アルゴリズムの収束過程の漸化計算式を導く。本解析においては,参照信号はガウス過程・非ガウス過程・離散分布過程のいずれでもよく,また相加雑音にも非ガウス過程を許す。シミュレーション結果との比較により,理論式の精度が充分高いことを示すが,一般に前章の計算式よりも計算量が格段に大きくなる。そこで精度を若干犠牲にし計算量を削減するための実用的な近似式も提案する。

 第IV章では,非ガウス過程や離散分布過程の参照信号・相加雑音を扱うのに適した,適応フィルタの新しい解析手法を開発する。これには,誤差信号の条件付き確率分布をガウス分布で近似することから出発する。結果得られる理論式は,計算量が極めて少なく,実用上充分な精度を有する。

 第V章においては,非線形アルゴリズムを用いた適応フィルタの特性改善の一案を提案し検討する。サインアルゴリズムは,相関の演算が簡単なこと,外部からの擾乱特にインパルス雑音の混入に対して強い耐力を有するという優れた特徴をもつが,一方で同一の残留MSEを得ようとすれば,広く使用されているLMSアルゴリズムよりも収束が遅くなる。そこで相関の非線形性に「閾値パラメタ」を導入し,これを適応的に制御する「適応閾値非線形アルゴリズム」(ATNA)を提案し,LMSアルゴリズムと同等の収束の速さと低残留MSE特性に加えて,インパルス雑音環境下(特にコンタミネーテッドガウス雑音)で高いインパルス雑音耐性が実現できることを,例題に則しシミュレーションで示し理論的にも明らかにする。

 第VI章では,非線形アルゴリズムを用いた適応フィルタの特性改善の他の案として,サインアルゴリズムに正規化LMSアルゴリズムと同様の正規化操作を導入した,「正規化サインアルゴリズム」を提案し検討する。正規化サインアルゴリズムを用いた適応フィルタは,インパルス雑音耐性にも優れ,かつ正規化LMSアルゴリズムのように入力参照信号電力の変動に対して,残留MSEを一定に保つ効果が得られる。本アルゴリズムについても詳細な理論解析を行っている。正規化サインアルゴリズムは,音響エコー消去器や雑音除去器などに適したアルゴリズムである。

 最後に第VII章で,本研究の結論を述べる。

 本研究の結果,第一に,サインアルゴリズムに代表される非線形アルゴリズムを用いた適応フィルタの,従来の解析手法の一般化がなされた。これによると,フィルタの収束過程は簡便に計算できるが,精度は充分とは言えない。次にタップエラーの確率分布を考慮した新しい解析手法を提案し,特にタップエラーが結合ガウス分布すると仮定して高い精度での理論計算を可能にした。また計算量を削減する実用的な近似式を得,有効性を示した。さらに,データエコー消去器のように非ガウス過程や離散分布過程の参照信号・相加雑音を有する適応フィルタに適した,新しい着想による解析手法を提案し,収束過程の高速計算を可能にした。これら解析手法の改善によって得られた,理論計算式によれば適応フィルタの特性評価のために従来行われた厖大な量のシミュレーションに替わり,容易にかつ高精度でフィルタの振舞いを推定でき,適応フィルタ設計の迅速化に寄与するところ大である。一例を挙げるならば,データエコー消去器の設計において,従来シミュレーションによる特性評価に約一週間を要したのに対し,第III章あるいは第IV章の理論式を用いてこれを一日に短縮することができた。また理論解析により,適応フィルタの収束過程の理論計算法のみならず,収束条件・収束速度・収束後の残留MSE理論値なども明らかになり,有用な「設計ツール」としてフィルタ設計に寄与する。

 本研究の第二の成果は,サインアルゴリズムの特性を改善する非線形アルゴリズムの提案と理論解析を示したことにある。インパルス雑音環境下で,残留MSEを低くかつ一定に保つ効果が実現され,音響エコー消去や雑音除去への,適応フィルタの新しい応用を開くものである。特に適応閾値非線形アルゴリズムは,閾値パラメタによって非線形関数の形を変えるという新しい着想に基づいており,さらに他の非線形アルゴリズムの提案につながり,適応フィルタの特性改善に寄与するものと期待される。

審査要旨

 本論文は「非線形アルゴリズムを用いた適応フィルタの解析手法と特性の改善に関する研究」と題し,情報通信システムに幅広く利用されているディジタル信号処理による適応フィルタの設計効率化への寄与と,収束の高速化・インパルス雑音耐性の強化による実用化における改良を目的として,「非線形アルゴリズム」を用いた適応フィルタの解析を中心に論じており,サインアルゴリズム等の従来の解析手法を改善すると同時に,高精度または高速計算に適した新しい理論式を二種導出し,新たな着想に基づく非線形アルゴリズムを二種提案して,特性の改善を図り前記理論を応用してその効果を検証したものであり,七章からなる。

 第I章は「序論」であり,適応フィルタ研究の背景として主要ないくつかの応用分野に触れ,適応フィルタの基礎的な概念を述べている。また従来から良く知られているLMSアルゴリズムから派生し,タップ重みの確率勾配更新における誤差信号と参照信号との相関計算に,極性関数などの非線形関数を用いるアルゴリズムを「非線形アルゴリズム」と定義した。研究の目的と課題については,適応フィルタの設計効率化に当たり厖大な量のシミュレーションを補完あるいは代替する理論解析と計算式の重要性を強調している。また非線形アルゴリズムがもつ特性上の欠点を改善する目的で,収束の高速化・雑音耐力の強化等に寄与する新しいアルゴリズムの必要性を唱っている。

 第II章は「非線形アルゴリズムの従来の解析手法とその改善」と題し,本研究を通じて用いる,フィルタ入力参照信号・タップ重み・相加雑音に関する基本的仮定を述べるとともに,非線形アルゴリズムの代表としてサインアルゴリズムの従来の解析方法を整理し,その考え方の延長上で一般の非線形アルゴリズムの汎用的な解析手法を示す。適応フィルタの入力参照信号がガウス過程である場合に,「タップエラー」(タップ重みの最適値からのずれ)の値が所与のとき,誤差信号はガウス分布することから,タップエラーの平均と分散に関する漸化式を導いている。この漸化式によれば,MSE(二乗平均誤差)の収束過程を簡便に計算できるが,タップエラーの確率分布を考慮していないため,その精度は一般に充分でない。非線形アルゴリズムの例としては,サインアルゴリズムの他,サインドリグレッサアルゴリズム・サイン-サインアルゴリズム・正規化サインドリグレッサアルゴリズム・相関非線形処理アルゴリズムを取上げ,それぞれに具体的計算式を与えた。またいくつかの実例につき,収束過程のシミュレーションと理論計算値とを比較し,理論式の精度を調べている。

 第III章は「結合ガウス分布するタップエラーによる解析」と題し,従来の解析には見られないタップエラーの確率分布を考慮した適応フィルタの解析手法を提案する。入力参照信号・タップエラーに関する一般的な仮定に基づき一般論を展開する。次に実験から得られる統計的データをもとに,タップエラーが近似的に結合ガウス分布する確率変数と仮定して,一般の非線形アルゴリズムの収束過程の漸化計算式を導いている。本解析においては,参照信号はガウス過程・非ガウス過程・離散分布過程のいずれでもよく,また相加雑音にも非ガウス過程を許す。シミュレーション結果との比較により,理論式の精度が充分高いことを示すが,一般に前章の計算式よりも計算量が格段に大きくなる。そこで精度を若干犠牲にし計算量を削減するための実用的な近似式も提案した。

 第IV章は「誤差信号の条件付き確率分布を用いた解析」と題し,非ガウス過程や離散分布過程の参照信号・相加雑音を扱うのに適した,適応フィルタの新しい解析手法を開発する。これには,誤差信号の条件付き確率分布をガウス分布で近似することから出発し,結果得られる理論式は,計算量が極めて少なく実用上充分な精度を有する。

 第V章は「インパルス雑音耐性の高い適応フィルタ」と題し,非線形アルゴリズムを用いた適応フィルタの特性改善の一案を提案し検討する。サインアルゴリズムは,相関の演算が簡単なこと,外部からの擾乱特にインパルス雑音の混入に対して強い耐力を有するという優れた特徴をもつが,一方で同一の残留MSEを得ようとすれば,広く使用されているLMSアルゴリズムよりも収束が遅くなる。そこで相関の非線形性に「閾値パラメタ」を導入し,これを適応的に制御する「適応閾値非線形アルゴリズム」(ATNA)を提案し,LMSアルゴリズムと同等の収束の速さと低残留MSE特性に加えて,インパルス雑音特にコンタミネーテッドガウス雑音の存在する環境下で高い雑音耐性が実現できることを,例題に則しシミュレーションによって示し,また前章の解析手法を用いて理論的にも明らかにしている。

 第VI章は「正規化サインアルゴリズムによる特性の改善」と題し,非線形アルゴリズムを用いた適応フィルタの特性改善の他の案として,サインアルゴリズムに正規化LMSアルゴリズムと同様の正規化操作を導入した,「正規化サインアルゴリズム」を提案し検討する。正規化サインアルゴリズムを用いた適応フィルタは,インパルス雑音耐性にも優れ,かつ正規化LMSアルゴリズムのように入力参照信号電力の変動に対して,残留MSEを一定に保つ効果が得られる。本アルゴリズムについても例題に則し詳細な理論解析を行っている。正規化サインアルゴリズムは,音響エコー消去器や雑音除去器などに適したアルゴリズムである。

 最後に第VII章は「結論」で,本研究の成果を要約し今後の研究課題として,本研究の解析手法の応用ならびに提案した改善アルゴリズムの装置化に関する検討を挙げている。

 以上これを要するに,サインアルゴリズムに代表される非線形アルゴリズムを用いた適応フィルタの収束解析において,タップエラーの確率分布を考慮した新しい解析手法を提案した。特にタップエラーが結合ガウス分布すると仮定して高い精度での理論計算を可能にし,計算量を削減する実用的な近似式を得,有効性を示した。さらに,非ガウス過程や離散分布過程の参照信号・相加雑音を有する適応フィルタに適した,新しい着想による解析手法を提案し,収束過程の高速計算を可能にした。また,サインアルゴリズムの特性を改善する非線形アルゴリズムの提案と理論解析を示し,インパルス雑音環境下で,残留MSEを低くかつ一定に保つ効果が実現され,音響エコー消去や雑音除去への,適応フィルタの新しい応用を開いた。これらの適応フィルタの解析手法と特性の改善に関する研究は,電気通信工学上貢献するところが少なくない。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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