学位論文要旨



No 213530
著者(漢字) 松橋,亮
著者(英字)
著者(カナ) マツハシ,リョウ
標題(和) 硫酸系環境中における耐食ステンレス鋼の研究
標題(洋)
報告番号 213530
報告番号 乙13530
学位授与日 1997.09.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13530号
研究科 工学系研究科
専攻 金属工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻川,茂男
 東京大学 教授 吉田,豊信
 東京大学 教授 柴田,浩司
 東京大学 教授 前田,正史
 東京大学 助教授 篠原,正
内容要旨

 本研究は、硫酸系環境下におけるステンレス鋼の耐食性(以下、耐硫酸性と呼ぶ)について、主として腐食速度と合金元素量との関係に着目し、「ステンレス鋼の耐食性を合金元素量の関数として定式化する」ことを試みるとともに、濃硫酸環境における本鋼の腐食機構を明確にした。そして、得られた知見に基づき実硫酸系環境下で優れた耐食性を発揮するステンレス鋼の具体的な成分を明確にした。

 まず第1章『序論』では、これまでに明らかにされている各種鉄鋼材料の耐硫酸性に関する歴史的経緯を概説した。次に従来のステンレス鋼の耐硫酸性に関する研究を要約し、その問題点を下記のごとくまとめた。

 (1)これまで、ステンレス鋼の耐硫酸性と合金元素量との定量的な関係についての検討は不十分であり、工業的に重要な実硫酸環境での耐食合金の設計につながる具体的指針は得られていない。(2)硫酸濃度が80%以上の領域における腐食電位の振動現象の定量的解析はほとんど検討されておらず、必ずしも腐食機構は明確されているとは言い難い。また、本環境中におけるステンレス鋼の基本的な耐食性向上指針につながる知見を得るには不十分である。

 こうした不十分な点を明確にするために、第2章『ステンレス鋼の耐硫酸性に及ぼす合金元素量の影響』では、硫酸溶液中でのCr-Ni-Mo-Cu系ステンレス鋼の腐食速度におよぼす硫酸濃度、塩化物イオン濃度、温度ならびに合金元素量の影響について検討し、腐食速度と合金元素量との関係を導出した。第2章第1項【ステンレス鋼の腐食速度と合金元素量との関係】では、本鋼の腐食速度を合金元素量の関数として定式化することを試みた。腐食速度は硫酸濃度の増加とともに増大し、約40〜60%の硫酸濃度で最大値を示すが、それ以降は硫酸濃度とともに腐食速度が減少するという挙動を示した。80℃の10〜97%の濃度範囲の硫酸溶液中における腐食速度と合金元素量との関係および50%硫酸溶液中における本鋼の腐食速度におよぼす温度の影響を検討した結果、いずれの場合においても腐食速度の対数は合金元素量の一次多項式で近似できた。

 

 第2章第2項【塩化物イオンを含む硫酸溶液中におけるステンレス鋼の腐食挙動】では、80℃の50%硫酸溶液中におけるステンレス鋼の腐食挙動におよぼす塩化物イオン濃度と合金元素量の影響について検討した。各種塩化物イオン濃度における腐食速度と合金元素量との関係は塩化物イオンを含んでいない場合と同様の関数型で示すことができた。この場合、A’およびBiは塩化物イオン濃度によって決まる定数および係数となる。

 第3章『硫酸露点環境中におけるステンレス鋼の腐食挙動』では、実硫酸環境の代表的な例として、煙突で経験される硫酸露点環境(H2SO4/Cl-/Fe3+)をとりあげ、当該環境中でのステンレス鋼の腐食挙動の検討をおこなった。第2章で得られた知見と同様に本環境においても、腐食速度を合金元素量の関数として定式化することができ、新たに耐全面腐食性指標G/(General Corrosion Resistance Index)と呼ぶ合金元素量の関数を導出した。

 

 G/導出式の合金元素量[M1]の係数b1は、BiをBCrで除した値であり、Cr元素の耐食性への寄与度に対する他の合金元素の寄与率を表している。

 第4章『濃硫酸環境中におけるステンレス鋼の腐食挙動』では、第2章で明らかとなった腐食電位が周期的に振動する80%以上の硫酸濃度領域(以下、濃硫酸と呼ぶ)におけるステンレス鋼の腐食挙動について検討した。第4章第1項【濃硫酸中におけるステンレス鋼の腐食機構解析】において、本鋼の腐食電位は、金属の活性態域と不動態域とを周期的に振動するが、活性態電位では金属表面から水素ガスが発生することまた、レーザーラマン分光法による金属表面の「その場」分析などから、不動態電位における反応生成物として単体の硫黄が存在することを見いだした。これらの結果から活性態では水素イオンの水素ガスへのカソード反応がまた、不動態では分子状硫酸のSへのカソード反応がそれぞれ進行していることを示した。アノード反応としては、前者では金属の活性態溶解反応、後者では金属の不動態溶解反応の組み合わせによって、それぞれ腐食反応が進行することが電気化学的に推定された。腐食電位の振動は、活性態で溶出した金属イオンが飽和析出型金属硫酸塩皮膜となって金属表面を覆い、その結果不動態化したあと分子状硫酸のカソード反応の結果生じる水によって硫酸塩皮膜が溶解し、金属が再び活性態化することを繰り返す過程によって生じることを明らかにした。続いて第4章第2項【濃硫酸環境中におけるステンレス鋼の腐食挙動に及ぼすNi量の影響】では、濃硫酸中でのステンレス鋼のNi添加による耐食性劣化機構について検討した。Niを添加していないステンレス鋼表面においては、分子状硫酸の還元反応は起こりにくいが、Niを添加したステンレス鋼では、分子状硫酸の還元反応が起こりやすい。このためにNi量の増加は腐食速度の増加につながるものと考えた。

 第5章『本研究の工業的応用』では、第2章から第4章で得られた知見の工業的な応用例について述べた。第5章第1項【火力発電所ボイラ煙突用耐食ステンレス鋼の開発】では、煙突の金属ライニング材に適用しうるステンレス鋼の合金設計をおこなうために、実煙突内の環境分析(付着物分析)を種々実施し、その結果に基づいて模擬評価液を調製した。そして、当該環境中におけるステンレス鋼の耐食性におよぼす合金元素量の影響を検討した。本環境は、ボイラの起動/停止直後では塩化物イオンや鉄(III)イオンを含む結露硫酸環境となり、材料の耐全面腐食性の確保が重要である。一方、ボイラが定常的に稼働している場合では、塩化物イオンや鉄(III)イオンを含む高濃度の硫酸塩環境となり、材料の耐局部腐食性の確保が重要である。したがって、煙突材料としては、上記の2種の耐食性の両方を兼ね備えたステンレス鋼が必要であり、これらの観点から種々検討した。その結果、(1)耐全面腐食性が良好となるのは第3章で得られた知見から、耐全面腐食性指標GI値が60以上の材料であること、また、(2)耐局部腐食性は、模擬評価液中での材料のすきま腐食速度の再不動態化電位ERにおよぼす合金元素量の影響から、ERは次式で近似できることを見いだした。

 

 ここで、C(Cl-)は環境中の塩化物イオン濃度(ppm)、LI(Localized Corrosion Resistance Index)は耐局部腐食性指標と呼ぶ合金元素量の関数である。

 

 これより、自然ポテンシャルESPとERとの対比から、例えば重油専焼ボイラの場合にはLI値が36以上であれば局部腐食を生起しない材料と推定された。これらの知見および材料の熱間加工性ならびに溶接性の検討結果から、20%Cr-15%Ni-3%Mo-1.5%Cu-0.2%N(GI=65,LI=38)鋼-YUS260-(YUS:新日鐵の規格名)を開発することができた。さらに、第5章第2項【硫酸プラント用耐食ステンレス鋼の開発】においては、従来の耐酸レンガに代わる硫酸プラント用耐食ステンレス鋼を開発するために、実硫酸プラントで製造された粗製硫酸中における各種ステンレス鋼の耐食性を検討した。とくに、第4章で得られた「濃硫酸環境ではステンレス鋼中へのNiの添加は耐食性を劣化させる」との知見に基づいて、Ni量の比較的低い/二相ステンレス鋼の耐食性におよぼすCr量とMo量の影響について検討を進めた。その結果、いずれの温度(40〜200℃)においても、腐食速度はCr量とともに低下し、およそ27%以上で腐食速度はCr量によらずほぼ一定となることを見出した。さらに、いずれの温度においても腐食速度はMo量が2%で最低になることを示した。これらの知見および熱間加工性ならびに溶接性の検討結果から、27%Cr-7%Ni-2%Mo-0.15%N鋼-YUSDX-3を開発するに至った。以上、本研究は、実硫酸系環境で実用可能なステンレス鋼の耐食合金設計指針を明確にし、それによって具体的に合金設計された耐食ステンレス鋼は工業的に大きな寄与をなしえた。

審査要旨

 本論文は、酸化剤(Fe(III)など)と、塩化物イオン(Cl-)を含む10%から約100%までの硫酸(H2SO4)水溶液環境で使える耐食ステンレス鋼を探索したもので、全6章より成る。

 第1章は「序論」である。非酸化性の強酸である硫酸環境中ではステンレス鋼は本来不動態化できないことを以って耐食材料として期待されてこなかったこと、しかし、1950年代以降耐硫酸露点腐食鋼として汎用ステンレス鋼より優れるとされた低合金鋼もその腐食速度は許容できぬほど大きいこと、非金属材料ではメンテナンスフリー化が達成できないこと、それゆえ抜本的な対策が要求されてきたことなどを述べている。

 第2章「ステンレス鋼の耐硫酸性に及ぼす合金元素量の影響」では、まず単味の10〜97mass%硫酸水溶液において合金元素量を系統的に変えたステンレス鋼の腐食速度を調査する中で、硫酸濃度80%以上(腐食電位が卑/貴電位間を振動する)と同10〜80%(腐食電位は卑(活性態)電位を維持)とで腐食機構が異なることを見出し、さらに後者に属してステンレス鋼の腐食速度が極大値を示す50%H2SO4に3×104ppmまでのCl-を添加したそれぞれの液中で全面腐食速度の合金元素量依存性を定式化した。前者は4章で取扱われる。

 第3章「硫酸露点環境中におけるステンレス鋼の腐食挙動」では、実環境分析に基づいて抽出した50%H2SO4+Cl-+Fe3+系で腐食挙動をしらべた。腐食形態は全面腐食であるが、合金元素における耐全面腐食性指標GI=-[Cr]+3.6[Ni]+4.7[Mo]+11.5[Cu]、[M]は合金元素Mの重量%、が60未満ではH+の還元、同60以上ではFe3+の還元が鋼の腐食速度を決定するカソード反応であり、腐食速度の低減はGI60以上で飽和すること、を見出した。

 また、耐硫酸露点腐食低合金鋼が汎用ステンレス鋼より優位性を示すのは純硫酸溶液中においてであって、Cl-、Fe3+が共存する実環境条件ではステンレス鋼がむしろ優れることをあげて、ステンレス鋼による材料対策の可能性を示した。

 第4章「濃硫酸環境中におけるステンレス鋼の腐食挙動」では、80〜97%硫酸中において腐食電位が活性態電位Aと不動態電位Pとの間で振動する現象の解明に取組み、過飽和析出した硫酸塩皮膜の形成によりA→P、分子状硫酸(H2SO4)の還元によって単体Soと共に生成する水(H2O)による上述硫酸塩皮膜の溶解によりP→A、の繰返しがその内容であり、7〜8%超のNiの添加は高温域で上述の振動を激しくして耐食性を劣化させることを明らかにした。

 第5章「本研究の工業的応用」の前半は火力発電所ボイラ煙突用鋼の開発であって、当該鋼が直面する腐食形態が、ボイラーの起動/停止時の「ぬれ」状態での全面腐食(第3章)とボイラー定常運転時の「しめり」状態での局部腐食との二つであることを示し、後者の評価には耐局部腐食性指標LI=[Cr]+0.4[Ni]+2.7[Mo]+[Cu]+18.7[N]を新たに導出して、両腐食形態のいずれにおいても耐食性を発揮する材料として、例えばGI>60かつLI>36を提案した。これを満たす具体例は20Cr-15Ni-3Mo-1.5Cu-0.2N鋼(GI=65,LI=38)である。

 後半は硫酸プラント用耐食鋼の開発である。同プラントの環境である粗製硫酸に含まれるFe3+を加えた液中で、Ni量の低減(4章)・Cr・Mo量の最適化に製造性・溶接性との両立性検討を加えて、開発した27Cr-7Ni-2Mo-0.15N鋼は200℃までの温度域で耐食目標(0.2mm/y以下)を満足するとしている。

 第6章は「総括」である。

 以上のように本論文は、広い硫酸系環境において硫酸濃度・酸化剤・塩化物イオン等の共存による腐食形態・腐食機構を解析し、それぞれに対応する合金元素の影響を精力的に調査して、代表的な二つの環境・機器において安定な耐食性機能を発揮するステンレス鋼を実現した。これらの成果は金属表面工学の発展・鉄鋼材料学の充実に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54037