水素結合を含む強誘電体・反強誘電体の多くは、水素を重水素に置き換えることにより、相転移温度が大幅に(100K程度も)上昇することが知られている。例えばK3H(SO4)2(KHSと呼ぶ)と、K3D(SO4)2(DKHSと呼ぶ)の場合、DKHSでは84Kの反強誘電相転移があるが、重水素に代えて水素の比率を増やすとともに転移温度が下がり、水素が7割以上となったところで相転移が消失してしまう事が知られている。これらの大きな同位体効果は従来、水素結合の中で水素原子が感じるポテンシャルが二重井戸型であると仮定し、その2つの安定位置の間のトンネル確率の違いが同位体効果の起源であるとする、トンネリングモデルによって説明されて来た。しかし近年、ラマン散乱の実験によりトンネリングの存在自体に対する疑問が提出され、現在、トンネルの有無の検証が様々な実験により試みられている。 本研究では、KHS系の原子配置を第一原理から計算し、大きな同位体効果の起源を議論する。KHS系は他の水素結合を含む誘電体と異なり、水素結合のネットワークを持たない結晶構造であるため(図1参照)、水素結合単体の性質を明らかにするのに好都合である。計算はultrasoft擬ポテンシャルを用い、Generalized Gradient Approximation(GGA)による平面波基底の密度汎関数法によって行なう。 図1:K3H(SO4)2(KHS)の結晶構造。点線で示した部分が水素結合。 原子配置の計算は大きく分けて2段階に分かれる。まず第1に、通常の第一原理計算で行なわれる通り、電子系の全エネルギーが最も低くなるように、それぞれの原子核の位置を1点に定める。安定位置のまわりでの原子核のゼロ点振動を考慮していないという意味で、こうして得られた原子配置を"古典的"最適配置と呼ぶ。この段階では原子核の質量は全く計算に反映されていないため、水素と重水素の区別はないが、以下に示す2つの重要な知見が得られた。 まず、反強誘電的秩序状態と、強誘電的秩序状態の原子配置をそれぞれ最適化し、そのエネルギーを比較した(表1参照)。その結果、反強誘電的秩序状態の方が強誘電的秩序状態よりも水素結合1つあたり18.62meVエネルギーが低い事がわかった。(反)強誘電体の性質は一般的にイジングモデルによって良く説明されるが、この結果から双極子間の相互作用2Jを見積もると108Kという値が得られた。これはDKHSの84Kの相転移温度と矛盾のない値である。この事は、我々の電子状態の計算と構造最適化の計算がDKHSの状態を良く再現しているしるしである。 表1:反強誘電秩序状態と強誘電秩序状態での水素結合1個あたりの全エネルギー。 次に、水素結合の中の水素の位置を、2つの酸素を結ぶ線に沿って動かし、電子系のエネルギーと周囲の原子の位置の変化を見た。この線上の中央の位置を原点(x=0)とし、水素を置いた位置をx0と表す事にする。この計算の結果、酸素-酸素距離ROOが水素の位置x0の関数として得られ、x0=0.0〜0.4Åの範囲でROOはx0の単調増加関数であることがわかった。この事から、水素の安定位置が重水素よりも中央に近いとすれば、KHSのROOの方がDKHSのROOよりも小さいという実験結果が説明できる。また、DKHSのROOが転移温度以下で、温度の低下とともに増大する事も、反強誘電的秩序の増大によって重水素位置の偏り(x0)が増大した結果として説明できる。 計算の第2段階として次に、水素と重水素の原子核のゼロ点振動を考慮した計算を行なう。ゼロ点振動エネルギーと電子系の全エネルギーの合計が最も低くなる原子配置を、水素と重水素についてそれぞれ求める。こうして求めた原子配置は"量子論的"最適配置と呼ぶ。この構造には水素及び重水素の質量が反映されているため、KHSとDKHSの違いを議論する事が可能である。 まず、水素及び重水素のゼロ点振動を計算するために、水素原子に対するポテンシャル面を計算する。"古典的"に求めた原子配置のまま水素以外の原子を固定し、水素だけを動かして、水素の各々の位置で系全体のエネルギーを計算する。その結果得られたポテンシャル面は二重井戸型でなく一重井戸型であった(図2参照)。この結果は、トンネリングモデルはKHS系では成り立たない事を示している。 図2:左は水素の安定位置がx0=0.0だとした時の水素に対する3次元のポテンシャル面のz=0での断面図。右はx0=0.1Åが安定位置だとした時のポテンシャル面。 ポテンシャルを求めたら、その中にprotonまたはdeuteronを置いてSchrodinger方程式を解き、基底状態、即ちゼロ点振動の波動関数とエネルギーを求める。いくつかの"古典的"には最適でない配置で同様にゼロ点振動エネルギーを計算し、その中から"量子論的"に最も安定な配置を求めた。その結果、ポテンシャルの非調和性のために水素の偏った位置(x0=0.1Å)でのゼロ点振動エネルギーが2meV程度高くなり、それが水素の安定位置を重水素よりも中央(x0=0.0)寄りにさせる効果となっている事がわかった(表2参照)。これにより、水素の場合の双極子モーメントが重水素の場合よりも小さくなる。 表2:(重)水素の安定位置をx0=0.0,0.1,0.2Åとした時の水素(EH)と重水素(ED)のゼロ点振動エネルギーを含む全エネルギー。 次に、ゼロ点振動を考慮して、電気双極子モーメントを計算する。原子核の波動関数の広がりのために(重)水素は様々な位置を占める可能性があり、双極子はそれに応じて変化するが、その事を考慮して、それぞれの位置での双極子モーメントの値にその位置の(重)水素の存在確率の重みをかけて平均値を計算した(表3参照)。その結果、ゼロ点振動を考慮する事によって双極子モーメントは小さくなり、水素の場合の双極子の方が重水素の場合よりも小さくなる事がわかった。 表3:SO4-H(D)-SO4クラスターの電気双極子モーメント。(重)水素の安定位置がx0=0.1Åだった場合の計算。"古典的"とある行は波動関数の広がりに応じた平均操作をせず、x0=0.1Åの1点だけで求めた値。 更に、同様にゼロ点振動を考慮して、水素及び重水素に属する電子数を計算する。X線の実験でnH=0.65、nD=1.19という大きな差が報告されているが、計算の結果、水素と重水素の安定位置が違うことと、原子核の波動関数の広がりの大きさが違う事を考慮しても、両者はほぼ等しく0.61で、電子数の違いに同位体効果の起源があるとする考え方は否定された。 得られた結果から同位体効果の起源を考察すると、以下のように考えられる。 1.水素に対するポテンシャル面の非調和性により、水素の安定位置が重水素より中央寄りになる。このためKHSの双極子モーメントが小さくなる。 2.ゼロ点振動が双極子モーメントを小さくする効果によって、KHSの双極子モーメントの方がDKHSより小さくなる。 3.上記の1と2の結果、水素の場合の双極子間の相互作用が小さくなり、それが更に1と2の傾向を強める。(これについては計算していない。) 4.その結果相転移温度に大きな差が出る。 我々は水素結合(反)強誘電体の同位体効果を初めて第一原理からの計算によって議論し、ゼロ点振動の効果を計算する事によって、その起源を説明した。結論として、我々はprotonとdeuteronの波動関数の重心の位置が異なる事が、同位体効果の起源として最も本質的であると考える。 |