学位論文要旨



No 213539
著者(漢字) 諏訪,雄二
著者(英字)
著者(カナ) スワ,ユウジ
標題(和) 第一原理計算による水素結合反強誘電体K3D(SO4)2の安定構造と同位体効果の研究
標題(洋) First Principles Study of Stable Hydrogen-Bonded Structures and the Origin of the Isotope Effect in Antiferroelectric K3D(SO4)2
報告番号 213539
報告番号 乙13539
学位授与日 1997.09.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第13539号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高山,一
 東京大学 教授 塚田,捷
 東京大学 教授 藤原,毅夫
 東京大学 教授 浅野,攝郎
 東京大学 教授 十倉,好紀
内容要旨

 水素結合を含む強誘電体・反強誘電体の多くは、水素を重水素に置き換えることにより、相転移温度が大幅に(100K程度も)上昇することが知られている。例えばK3H(SO4)2(KHSと呼ぶ)と、K3D(SO4)2(DKHSと呼ぶ)の場合、DKHSでは84Kの反強誘電相転移があるが、重水素に代えて水素の比率を増やすとともに転移温度が下がり、水素が7割以上となったところで相転移が消失してしまう事が知られている。これらの大きな同位体効果は従来、水素結合の中で水素原子が感じるポテンシャルが二重井戸型であると仮定し、その2つの安定位置の間のトンネル確率の違いが同位体効果の起源であるとする、トンネリングモデルによって説明されて来た。しかし近年、ラマン散乱の実験によりトンネリングの存在自体に対する疑問が提出され、現在、トンネルの有無の検証が様々な実験により試みられている。

 本研究では、KHS系の原子配置を第一原理から計算し、大きな同位体効果の起源を議論する。KHS系は他の水素結合を含む誘電体と異なり、水素結合のネットワークを持たない結晶構造であるため(図1参照)、水素結合単体の性質を明らかにするのに好都合である。計算はultrasoft擬ポテンシャルを用い、Generalized Gradient Approximation(GGA)による平面波基底の密度汎関数法によって行なう。

図1:K3H(SO4)2(KHS)の結晶構造。点線で示した部分が水素結合。

 原子配置の計算は大きく分けて2段階に分かれる。まず第1に、通常の第一原理計算で行なわれる通り、電子系の全エネルギーが最も低くなるように、それぞれの原子核の位置を1点に定める。安定位置のまわりでの原子核のゼロ点振動を考慮していないという意味で、こうして得られた原子配置を"古典的"最適配置と呼ぶ。この段階では原子核の質量は全く計算に反映されていないため、水素と重水素の区別はないが、以下に示す2つの重要な知見が得られた。

 まず、反強誘電的秩序状態と、強誘電的秩序状態の原子配置をそれぞれ最適化し、そのエネルギーを比較した(表1参照)。その結果、反強誘電的秩序状態の方が強誘電的秩序状態よりも水素結合1つあたり18.62meVエネルギーが低い事がわかった。(反)強誘電体の性質は一般的にイジングモデルによって良く説明されるが、この結果から双極子間の相互作用2Jを見積もると108Kという値が得られた。これはDKHSの84Kの相転移温度と矛盾のない値である。この事は、我々の電子状態の計算と構造最適化の計算がDKHSの状態を良く再現しているしるしである。

表1:反強誘電秩序状態と強誘電秩序状態での水素結合1個あたりの全エネルギー。

 次に、水素結合の中の水素の位置を、2つの酸素を結ぶ線に沿って動かし、電子系のエネルギーと周囲の原子の位置の変化を見た。この線上の中央の位置を原点(x=0)とし、水素を置いた位置をx0と表す事にする。この計算の結果、酸素-酸素距離ROOが水素の位置x0の関数として得られ、x0=0.0〜0.4Åの範囲でROOはx0の単調増加関数であることがわかった。この事から、水素の安定位置が重水素よりも中央に近いとすれば、KHSのROOの方がDKHSのROOよりも小さいという実験結果が説明できる。また、DKHSのROOが転移温度以下で、温度の低下とともに増大する事も、反強誘電的秩序の増大によって重水素位置の偏り(x0)が増大した結果として説明できる。

 計算の第2段階として次に、水素と重水素の原子核のゼロ点振動を考慮した計算を行なう。ゼロ点振動エネルギーと電子系の全エネルギーの合計が最も低くなる原子配置を、水素と重水素についてそれぞれ求める。こうして求めた原子配置は"量子論的"最適配置と呼ぶ。この構造には水素及び重水素の質量が反映されているため、KHSとDKHSの違いを議論する事が可能である。

 まず、水素及び重水素のゼロ点振動を計算するために、水素原子に対するポテンシャル面を計算する。"古典的"に求めた原子配置のまま水素以外の原子を固定し、水素だけを動かして、水素の各々の位置で系全体のエネルギーを計算する。その結果得られたポテンシャル面は二重井戸型でなく一重井戸型であった(図2参照)。この結果は、トンネリングモデルはKHS系では成り立たない事を示している。

図2:左は水素の安定位置がx0=0.0だとした時の水素に対する3次元のポテンシャル面のz=0での断面図。右はx0=0.1Åが安定位置だとした時のポテンシャル面。

 ポテンシャルを求めたら、その中にprotonまたはdeuteronを置いてSchrodinger方程式を解き、基底状態、即ちゼロ点振動の波動関数とエネルギーを求める。いくつかの"古典的"には最適でない配置で同様にゼロ点振動エネルギーを計算し、その中から"量子論的"に最も安定な配置を求めた。その結果、ポテンシャルの非調和性のために水素の偏った位置(x0=0.1Å)でのゼロ点振動エネルギーが2meV程度高くなり、それが水素の安定位置を重水素よりも中央(x0=0.0)寄りにさせる効果となっている事がわかった(表2参照)。これにより、水素の場合の双極子モーメントが重水素の場合よりも小さくなる。

表2:(重)水素の安定位置をx0=0.0,0.1,0.2Åとした時の水素(EH)と重水素(ED)のゼロ点振動エネルギーを含む全エネルギー。

 次に、ゼロ点振動を考慮して、電気双極子モーメントを計算する。原子核の波動関数の広がりのために(重)水素は様々な位置を占める可能性があり、双極子はそれに応じて変化するが、その事を考慮して、それぞれの位置での双極子モーメントの値にその位置の(重)水素の存在確率の重みをかけて平均値を計算した(表3参照)。その結果、ゼロ点振動を考慮する事によって双極子モーメントは小さくなり、水素の場合の双極子の方が重水素の場合よりも小さくなる事がわかった。

表3:SO4-H(D)-SO4クラスターの電気双極子モーメント。(重)水素の安定位置がx0=0.1Åだった場合の計算。"古典的"とある行は波動関数の広がりに応じた平均操作をせず、x0=0.1Åの1点だけで求めた値。

 更に、同様にゼロ点振動を考慮して、水素及び重水素に属する電子数を計算する。X線の実験でnH=0.65、nD=1.19という大きな差が報告されているが、計算の結果、水素と重水素の安定位置が違うことと、原子核の波動関数の広がりの大きさが違う事を考慮しても、両者はほぼ等しく0.61で、電子数の違いに同位体効果の起源があるとする考え方は否定された。

 得られた結果から同位体効果の起源を考察すると、以下のように考えられる。

 1.水素に対するポテンシャル面の非調和性により、水素の安定位置が重水素より中央寄りになる。このためKHSの双極子モーメントが小さくなる。

 2.ゼロ点振動が双極子モーメントを小さくする効果によって、KHSの双極子モーメントの方がDKHSより小さくなる。

 3.上記の1と2の結果、水素の場合の双極子間の相互作用が小さくなり、それが更に1と2の傾向を強める。(これについては計算していない。)

 4.その結果相転移温度に大きな差が出る。

 我々は水素結合(反)強誘電体の同位体効果を初めて第一原理からの計算によって議論し、ゼロ点振動の効果を計算する事によって、その起源を説明した。結論として、我々はprotonとdeuteronの波動関数の重心の位置が異なる事が、同位体効果の起源として最も本質的であると考える。

審査要旨

 水素結合を含む強誘電体・反強誘電体における相転移現象の多くには著しい同位体効果が観測されている。例えば、K3H(SO4)2(以下KHSと記す)とK3D(SO4)2(以下DKHS)とを比べると、DKHSでは反強誘電相転移が84Kで生じるが、KHSでは有限温度での相転移は観測されていない。これまで、このような同位体効果は、水素結合に関与する水素原子に対するポテンシャルが二重井戸型であると仮定し、その二つの安定位置の間の量子力学的なトンネル確率の違いから生じるとする、トンネリングモデルによって説明されてきた。しかし、最近になって水素結合の微視的な構造の検証を目指す実験が進められ、このモデルに疑問を投げかける結果が報告されている。理学修士諏訪雄二提出の本論文は、誘電体物理の分野の基本的な問題の一つである、上記の同位体効果を最新の第一原理計算によって追究したもので、英文で5章と二つの付章からなる。

 序論の第1章に続く第2章(および付章A)では、物質中の原子配置を第一原理から計算するために本論文が採用した方法-ultrasoft擬ポテンシャルを用いた、Generalized Gradient Approximation(GGA)による平面波基底の密度汎関数法-が説明されている。

 従来の第一原理計算では、原子核は古典力学に従う質点とし、電子について量子力学的な解析を行う。本論文第3章(および付章B)では、水素と重水素の量子力学的なゼロ点振動の違いが考慮されていない従来の方法によるKHS系の安定原子配置(’古典的’最適配置とよぶ)に関する論文提出者の計算が詳述されている。まず、構成原子の価電子に対するultrasoft擬ポテンシャルを構築する。その妥当性(’transferability’)は、それを用いて計算した単分子結晶などの格子定数の値を実測値と比較することによって検証されている。次に、反強誘電的秩序状態と強誘電的秩序状態それぞれの’古典的’最適配置を計算し、反強誘電的秩序状態の方が強誘電的秩序状態よりも水素結合1つあたり18.62meVエネルギーが低くなるとの結果を得ている。これは、DKHSの相転移温度84Kと矛盾のない値である。

 次に、カリウムの位置を固定した上で、水素結合の中の水素の位置を、2つの酸素を結ぶ線に沿って動かした場合の電子系のエネルギーと周囲の原子配置を調べ、2つの酸素間の中央からの水素の位置のずれ(x0)とともに2つの酸素間距離(RO-O)が単調に増加するという結果を得ている。この結果は、x0の増大が反強誘電的秩序の増大に対応していると考えれば、KHSのRO-OはDKHSのRO-Oよりも小さい、また、DKHSのRO-Oが転移温度以下で温度の低下とともに増大する、という実験結果をよく説明できる。

 第4章では、水素と重水素の原子核のゼロ点振動エネルギーも考慮した場合の全エネルギーの最低状態(’量子論的’最適配置)に関する論文提出者の計算が論じられている。まず、’古典的’に求めた原子配置において水素以外の原子を固定して水素原子だけを動かしたときの系のエネルギー変化を計算し、これを水素原子に対するポテンシャルと見なす。計算の結果、このポテンシャルは、トンネリングモデルの前提である二重井戸型ではなく一重井戸型であること、ただし、非調和性の顕著なポテンシャルであることが導かれている。

 次に、求めたポテンシャル中のprotonまたはdeuteronに対するSchrodinger方程式を数値的に解くことによりゼロ点振動のエネルギーと波動関数を求め、系の全エネルギーを評価する。’古典的’には最適でないいくつかの原子配置に関して同様の計算を行い、’量子論的’最適配置を決定する。そのゼロ点振動の波動関数を用いて、ゼロ点振動を考慮した電気双極子モーメントなどの物理量を評価する。このような計算から、水素に対するポテンシャルの非調和性により、protonとdueteronの波動関数の重心位置が異り、’量子論的’最適配置における水素の位置が重水素より中央寄りになること、このためKHSの双極子モーメント(計算値0.386Debye)の方がDKHSのそれ(同0.431Debye)より小さくなること、一方、水素および重水素に属する電子数は両者がほぼ等しく0.61となることなどの結果が得られている。

 論文提出者は第5章で以上の結果をまとめた上で、KHS系の同位体効果は、トンネリング機構ではなく、protonとdueteronのゼロ点振動の違いに起因するものと結論している。

 以上述べてきた論文提出者による本研究は、誘電体中の水素結合の関与する同位体効果に関する、水素および重水素のゼロ点振動も考慮した、初めての大規模な第一原理計算であり、その結果から、同位体効果の基本的な機構として従来の現象論的なトンネリングモデルに代る、ゼロ点振動に基づく新しい描像を提起している。この描像を始めとする、本研究で得られた多くの新たな知見は今後この分野の研究の進展に大いに貢献するものと認められ、審査員全員により、博士(理学)の学位論文として合格と判断された。

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