学位論文要旨



No 213544
著者(漢字) 大森,弘喜
著者(英字)
著者(カナ) オオモリ,ヒロヨシ
標題(和) フランス鉄鋼業史 : 大不況からベル=エポックまで
標題(洋)
報告番号 213544
報告番号 乙13544
学位授与日 1997.09.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第13544号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 廣田,功
 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 助教授 岡崎,哲二
 東京大学 助教授 大澤,眞理
 東京大学 助教授 大野塚,知二
内容要旨

 第二帝政期にナポレオン3世の「殖産興業・富国強兵」策の下、順調な発展を遂げたフランス製鉄業は、1870年代に内外の危機に逢着した。普仏戦争の敗北による領土割譲で、産鉄地の一つロレーヌが奪われたこと、またそれまでフランス製鉄業を牽引してきた中部製鉄業に、早くも石炭と鉱石資源の枯渇が現れ始めたことである。これに追い討ちをかけるように、1870年代末から西欧諸国に顕現する「大不況」が、1882年以降フランスにも及び、錬鉄製品が価格暴落し、レールなど鉄道資材の生産に特化してきた中部の製鉄企業は、軒並み経営危機に見舞われた。こうした内外の危機を乗り切るには、新たな生産技術の開発と斬新な経営展開が望まれたが、フランス鉄鋼業にとっての僥倖は、ギルクリスト・トマース転炉法の発明であった。この転炉法により、これまで不可能とされた含燐鉱石からの製鋼が可能となり、これを大量に産するロレーヌ地方ブリエ鉱床が-躍脚光を浴びることになる。以後約80年近く、ロレーヌ鉄鋼業はフランス鉄鋼業の中心となり、フランス経済を牽引する重工業センターのひとつとなる。

 本論文では、1880年代から1914年まで、言い換えれば大不況からベル=エポックまでのフランス鉄鋼業の発展を、資本と労働の二側面と市場の観点から分析するが、その際に筆者がとくに留意するのは、生産技術の変化、資本蓄積のありよう、労働過程の変容と労使関係の変化、そして市場の「組織化」である。

 本論文の構成と内容は以下の通りである。第1章「『大不況』下のフランス製鉄業」では、まず1882年金属不況の猛威を中部・北部・東部の各製鉄業について観察する。とりわけ中部の大手製鉄企業は、資源枯渇とレールの価格破壊で深刻な経営危機に見舞われ、何らかの「再構築」が迫られた。ここは第二帝政から第三共和政初期にかけて、鉄道資材の旺盛な需要で順調に発展してきただけに、鉄道資材の需要激減と価格低落は経営に壊滅的な打撃を与えた。代表的な製鉄企業のひとつテルノワール社の破産はそれを象徴する出来事であった。「再構築」は個別企業でそれぞれ熱心に追求されたが、共通の傾向を摘出するなら、一つは資源環境のよい沿岸地帯などへの工場移転であり、二つには軍需への傾斜である。軍需傾斜の典型としてはマリーヌ社とシュネーデル社が挙げられる。両社は特殊鋼の開発を基礎に付加価値の高い兵器生産に活路を求め、フランス陸海軍のみならず、国防に関心を持ちはじめた後発国へさまざまな武器を納入した。だが軍需は気まぐれで相対的には狭小であるために、マリーヌ社などは世紀末にいま一度民需重視の転換を余儀なくされる。

 フランス鉄鋼業それ自体の「再構築」は、ロレーヌ鉄鋼業によって果たされる。1887年にギルクリスト=トーマス法が発明され、従来よりも大量にしたがって安価に鋼鉄が製造でき、これが鋼鉄の「新たな需要」を創り出すことになった(製鋼革命)。

 第2章「鉄鋼業におけるビッグ・ビジネスの生成と発展」では、この製鋼革命を実践するロレーヌ鉄鋼業の発展を観察する。発展の土台はブリエ鉱床の大規模な開鑿であり、有力企業は最新の設備で鉱山を艤装し、開鑿数年後で100万トンの採鉱高を記録する。鉱山経営を足場に、製銑--製鋼--圧延の工程が同一工場内で行われ、「熱経済」が効率よく実現する。いわゆる「混合企業」の誕生である。混合企業はトーマス転炉を軸に前後の工程の技術革新に毎年多額の設備投資をしてゆく。なかでも1900年のパリ万博前後と1908年から第一次大戦までの数年間の設備投資の大きさは、フランス経済史上未曾有のものだった。こうして大戦前夜には、ロンウィ製鋼社、ミッシュヴィル製鋼社、マリーヌ=オメクール社、シャティヨン=コマントリ社などの大型鉄鋼企業がロレーヌに輩出した(新興ビッグ・ビジネス)。

 その旺盛な設備投資はアメリカやドイツの鉄鋼業に遜色ないが、企業規模ではやや劣るかも知れない。それはフランス鉄鋼業では、設備投資の原資をもっぱら自己の産業利潤のすき返しに求めたからである。この「自己金融」体質はフランス鉄鋼業の特徴のひとつだが、翻って見れば、巨額の設備投資を賄うに足る潤沢な利潤蓄積と、それを設備革新に振り向ける経営方針が貫かれていたのである。その意味で「慎重で堅実な経営態度」はフランス鉄鋼業のいま一つの特質といえよう。

 第3章「ロレーヌ鉱山=鉄鋼業における労働史」では、労働にまつわる諸問題を考察する。ロレーヌ地方は寒村であり、発展する鉱山=鉄鋼業に十分な労働力を供給することは、はなから無理であった。鉱山や工場は周辺の農村からだけではなく、外国とくにイタリアから労働力の調達を図った。これら内外の農村労働力はいまだ陶冶されておらず、地底労働や工場労働に適応するには多大の難儀を覚えた。それは離職率や欠勤率の高さに表われている。他方、ロンウィ盆地などの冶金工場では、設備の近代化と技術革新が進んだために旧来の熟練労働は次第に不要となり、彼らの保持していたオートノミィが逆に生産の障碍となった。いずれにしても労働の陶冶は鉄鋼経営の新たな課題となる。

 イタリアからの労働力調達は、最初は個別企業毎になされていたが、すぐにフランス鉄鋼協会が窓口となって集団的になされるようになる。これにより安定的な労働力の供給が実現した。ところで、イタリア人等の出稼ぎ移民はそれぞれコロニーをつくり、独特の生活風習を持ち込んだので、地元民との間に軋轢が生じた。これは当時「社会的災厄」といわれたが、それはアルコール中毒、売春、性病(梅毒)、その結果としての高い嬰児死亡率、そして欠勤癖であった。「社会的災厄」とはやや誇張的な表現だが、やがて有識者や経営者らは、これらの悪癖は移民労働者の生活条件、とりわけ住環境の劣悪さに起因すると認識するようになり、その改善に着手するのである。

 第4章「ロレーヌ鉱山=鉄鋼業におけるパテルナリスム」では、鉄鋼経営者による労働者の境遇改善の事業を考察する。この事業は大きく物質的側面の改善と精神的側面の改善とに区別されるが、前者では労働者都市の建設がなかでも最優先課題であった。労働者の雇用と定着に不可欠の条件だったからである。ロレーヌ一帯には多くの労働者都市が建設されたが、フランスの伝統は労働者住戸は庭付きだったことで、これには前述の労働者の悪癖を庭園での園芸仕事により追放したいとの経営者の思惑も絡んでいた。「精神的な安寧」には、今日の社会保障・保険の原型ともいうべき事業が含まれる。すなわち、病気や怪我の際の医療と療養期間の賃銀を保障する救済金庫の制度と、そこから分離独立した老齢年金の制度がそれである。これら保障の原資はやがて労使の折半醵出となるのだが、当時の労働者は賃銀からの醵出にはかなり抵抗した。それは彼らの無理解も一因だが、こうした社会保障制度の運営が経営者だけに任されて、そこに恣意が働くことも一因であった。そこで国家は公正と恩恵の均霑の見地からこの領域に介入するのだが、経営者はパテルナリスムへの侵害だとしてこれに強い難色を示した。というのもパテルナリスムは経営者の「自発的な供与」であり、労働者の権利ではないからである。パテルナリスムのもつこの狭隘さはやがて労使対立の原因となり、1905年には坑夫・冶金労働者による大規模なストが起こる。そこではパテルナリスムの抑圧的側面が告発される。

 第5章「鉄鋼業における市場の組織化」では、各種の共同販売機関=コントワールの実態を抉る。鉄鋼経営者らはこれまでの孤立的態度を払拭して、協働して製品販売に着手する。過剰生産とそこに由来する値崩れを防止するためである。早熟的に1876年にできたロンウィ=コントワールを手始めに、鉄鋼製品毎に銑鉄・トーマス鋼(半製品)・梁鋼材・レールなどにコントワールが結成された。この機関は独自に顧客から受注し、それを加盟企業に分配し納品させ、代金の決済を行い利益の分配を行う。また市場動向に合わせて出荷率を加減し供給を調節した。コントワールは市場での競争を止揚するために、有力なアウトサイダー企業をある時は戦って排除し、ある時は懐柔し妥協する。この結果確かに市場での競争は止揚されるのだが、それで問題が解決した訳ではなく、コントワール内部では出荷率や製造能力の引き上げ、デポ設置などをめぐって熾烈な争いが展開された。ロンウィ・コントワール等では単純高炉企業と混合企業との抜きさしならぬ対立が生じていた。

 ともあれ、国内のカルテル結成は西欧列強間での国際カルテルの結成へとすすむ布石でもあった。1905年以降レールと梁鋼材で市場分割の合意が生まれた。フランスは生産能力から見て輸出市場はまだそれほどの重要性を持っていず、したがって国際カルテルでは英独の後塵を拝したが、それでも自国と植民地・保護領を「留保」した意義は大きかった。

 従来19世紀フランス資本主義については、アメリカの経済史家を中心に停滞性が夙に指摘されてきたが、本論文はその通説が一面的であることを鉄鋼業について実証的に論じた。当該期のフランス鉄鋼企業は、一方ではフランス的な性格を保持しつつも、技術革新や設備投資に積極的であり、労働力や資源の確保・製品販売・海外市場戦略などでは孤立主義を捨てて協働し、ダイナミズムを発揮したのである。

審査要旨

 [1]本論文は、1880年代から1914年まで、すなわち「大不況」期からベル・エポックまでのフランス鉄鋼業の発展を、一貫した方法に基づいて分析した実証的研究である。論文の概要は以下の通りである。

 序(問題の所在と分析の視角)は、フランス鉄鋼業がギルクリスト・トーマス法の発明を契機とする中部鉄鋼業から東部=ロレーヌ鉄鋼業への軸芯の移動を伴いながら、大不況期の危機を乗り越え、新たな発展を辿る過程を描くことを課題として設定し、分析視角の特徴として、(1)技術のあり方とその変化(2)設備投資や投資の原資に見られる資本蓄積の特徴(3)大型鉄鋼企業の形成とそれらによる市場の組織化(4)労働史や労働者の日常生活、以上の四点を重視することを指摘する。

 第1章(「大不況」下のフランス製鉄業)は、1882年のいわゆる「金属不況」の実態を中部、北部、東部の各製鉄業について観察し、さらに各地域の有力企業の不況への対応の違いを析出し、需要の変化と技術革新に積極的に対応した東部製鉄業が、中部製鉄業に代わって主座を占めるに至る過程を論じている。第二帝政期以来、鉄道資材の旺盛な需要に支えられて順調な発展を遂げてきた中部製鉄業は、資源枯渇と鉄道資材の需要激減による価格低落からとくに深刻な経営危機に見舞われた。これに対する大手製鉄企業の「再構築」の共通の特徴は、資源環境の良い沿岸地帯への工場移転と特殊鋼の開発による兵器生産への傾斜であった。これに対して、鉄道資材への依存度が相対的に低かった北部・東部製鉄業の危機は中部ほど深刻ではなかった。さらに東部の一部の製鉄業者は、錬鉄時代から鋼鉄時代への転換を察知し、1878年に発明されたギルクリスト・トーマス法を積極的に導入し製銑-製鋼-圧延の一貫生産体制を行い、安価な鋼の大量生産を追求した。こうして東部鉄鋼業は、地下鉄、路面電車、上下水道、住宅建設などの都市化に伴う新しい需要の拡大に応えて「再構築」を主導し、フランス鉄鋼業の軸芯に位置するに至った。

 第2章(鉄鋼業におけるビッグ・ビジネスの生成と発展)は、いわゆる製鋼革命をリードしたロレーヌ鉄鋼業に即して、生産の集積・集中を伴いながら進行した不断の技術革新と資本蓄積の展開を跡づけ、鉄鋼業における巨大企業の成立過程を論じている。この地域の有力企業は、ブリエ鉱床の大規模開削を土台として最新設備による鉱山経営に乗り出し、それを足場に製銑-製鋼-圧延を同一工場内で行う「混合企業」を生み出した。これらの混合企業は、自己金融を原資として、20世紀初頭にはフランス史上未曾有の大規模な設備投資を展開し、トーマス転炉を軸に前後の工程の技術革新を積極的に追求した。こうして大戦前夜には、ロンウィ製鋼社、ミッシュヴィル製鋼社、マリーヌ=オメクール社、シャティヨン=コマントリ社などの大型鉄鋼企業がロレーヌの地に誕生した。

 第3章(ロレーヌ鉱山=鉄鋼業における労働史)は、ロレーヌの鉱山=鉄鋼業における労働力の調達、労働過程の変容、労働者の生活を描写する。この地域は寒村であり、企業は周辺農村からだけでなく、イタリア人等外国人労働者の導入を図ったが、これらの労働力は地底労働や工場労働になかなか適応できず、高い離職率や欠勤率を示した。一方、冶金工場では技術革新によって旧来の熟練の重要性が低下し、大量生産に対応した新しい労働慣行が追求されるが、それは熟練労働者の自立性の要求との間で軋轢を生み、1905年のストライキで頂点に達した。またイタリア人等の外国人は、単身出稼ぎ型の形態をとり、それぞれにコロニーを作って居住したが、アルコール中毒、売春、性病、欠勤癖などを示したために、当時「社会的災厄」と呼ばれ、しばしば地元住民との間に軋轢を招いた。

 第4章(ロレーヌ鉱山=鉄鋼業におけるパテルナリスム)では、鉄鋼業の再編に伴う新しい労働慣行の定着をめざして鉄鋼企業が労働者の境遇改善のために展開した事業、いわゆるパテルナリスムの施策と思想的源泉が論じられている。パテルナリスムは、十分な労働力の確保、半農=半工労働力の工場労働力としての陶冶、優れた労働力の定著をめざして展開され、その具体的施策は、労働者都市の建設に代表される物的環境の整備、生活保障、労働者のモラル形成の三つの面に大別される。労働者都市の建設は、労働者の雇用と定着の不可欠の条件であったためにパテルナリスムの最優先施策となり、ロレーヌ一帯には、フランスの伝統を受け継いだ庭付き住宅を中心とした多くの労働者都市が建設された。生活保障に関しては、病気や怪我の際の医療と療養期間中の賃金を保障する救済金庫の制度と老齢年金の制度など、後の社会保障・社会保険の原型となる事業が行われた。またモラル形成については、褒賞制度や主婦学校の設置によって、労働者の規律の養成と主婦の家計管理の訓練が追求された。このようなパテルナリスムは、社会カトリシスムを思想的源泉としており、それは経済的自由主義と社会主義の両者を批判し、職業組織化に問題解決を求めるコルポラティスムであったが、「労働権」の否認の上に展開されたために労働者に「閉塞感」を与え、しばしば彼らの抵抗を醸成することになった。

 第5章(鉄鋼業における市場の組織化)では、東部鉄鋼業を中心に結成された各種の共同販売機関=コントワールの実態が詳細に描写される。鉄鋼企業は過剰生産とそれによる値崩れを防止し、協動して製品販売に着手するために、1876年のロンウィ・コントワールの結成を手始めに、銑鉄・トーマス鋼・梁鋼材・レールなど製品毎にコントワールを結成した。これらの機関は、独自に顧客から受注し、それを加盟企業に配分して納品させ、代金の決済を行い利益を分配するとともに、市場動向に応じて出荷率を加減し供給を調節した。しかしコントワール内部では、出荷率や生産能力の引き上げなどをめぐり、とりわけ単純高炉企業と混合企業との間で熾烈な対立が繰り広げられた。こうした内部対立をはらみながらも、国内カルテルの結成は、国際カルテル結成の布石となり、1905年以後、レールと梁鋼材に関する市場分割協定が結ばれた。これによってフランス鉄鋼業は、自国市場と植民地・保護領を「留保」することになった。

 終章(総括と展望)は、以上の分析を踏まえた総括として、以下の五つの点を強調している。第一に、この時期の鉄鋼業は現代的なビッグ・ビジネスに典型的な発展を示し、フランス経済に関する停滞イメージとその原因としてのマルサス主義的経営者像を払拭する。第二に、大型鉄鋼業の設備投資は、自己金融を基本に行われ、ドイツのように独占的な重工業資本と銀行資本の癒着は認められなかった。またこの重工業の飛躍的発展が活発な対外投資と並行して行われたことは、対外投資が国内産業投資を犠牲にして行われたとの通説的理解に疑問を呈することになる。第三に、大型鉄鋼企業は原料の安定確保、労働力の調達、労働争議への対応、製品の販売等において協動したが、これはフランス経済界には見られない新しい現象であった。第四に、社会カトリシスムを思想的源泉として展開された鉄鋼業のパテルナリスムは、従業員の境遇の改善に寄与した点では先駆性を持ったが、彼らの自立性を認めていなかった点で限界を持っていた。第五に、パテルナリスムの限界を打破し、福祉国家への展望を切り開いた力は労働者の中からよりも、国家、具体的には「社会改良主義者」の政治家の中から生じたと考えられる。

 [2]本論文の第一の功績は、産業革命期に比較して研究が手薄な大不況期以後の時期のフランス鉄鋼業について、企業内資料に依拠して初めて実証的に研究し、数多くの新しい事実を発見したことである。大手鉄鋼企業の技術革新や設備投資の実態を詳細に跡づけたこと、ロンウィー・コントワールを初めとする各種のアンタントによる市場の組織化の実態を解明したこと、外国人労働者を初めとする労働者の労働生活と日常生活の実態を描写したことなどが、この点でとくに注目に値する。活動の実態の解明の必要が従来から指摘されながら、コントワール自体の資料が残されていないという資料的制約のために、これまで本格的検討がなされないままに放置されてきたロンウィー・コントワールについて、ポン=タ=ムッソン社の企業内資料を利用して、その活動の実態にかなりの程度まで迫り得たことは、本論文の特筆すべき功績である。

 しかし本論文の功績は、もとより新しい事実の発見にとどまるものではない。本論文の第二の功績は、これらの新しい事実の発見に基づいて、いくつかの点で通説と異なる新しい歴史像や解釈を積極的に提示した点にある。この点ではまず、長い間アメリカやドイツとの比較に基づいて、企業経営の保守的、消極的性格(いわゆるマルサス主義的体質)、共同行動を忌避する個人主義的行動様式、混合企業や独占的大企業の成立の相対的遅れなどが、フランス的特質として強調されてきたことに対して、本論文が鉄鋼業の事例に即して、積極的に技術革新と設備投資を展開し、新しい労務管理を導入するなど、外部環境の変化に意欲的に対応し、コントワールを結成して共同行動に積極的な姿勢を見せるダイナミックな大型企業の成立を指摘し、大不況以後のフランスについて、アメリカやドイツと同質的なビッグ・ビジネスの出現という新しい歴史像を打ち出したことが挙げられる。また、ロンウィー・コントワールについて、主に定款の分析から中小企業利害の擁護という特徴を指摘する見解に対して、本論文が出荷割当、価格規制などの運営の実態の側面から、生産の集中に基づく大企業による寡占体制を基本的性格と見なす批判的見解を提示し、アメリカ・ドイツなどに比較して著しく研究が遅れているフランスの独占研究について、一石を投じた点も指摘しなければならない。

 本論文の第三の功績は、「労働史」ないし「生活史」の視点を導入することによって、ロレーヌ鉱山=鉄鋼業における労働者の生活を労働生活と日常生活の両側面について、労働者の生活全般を管理の対象に包摂しようとする経営者のパテルナリスムの展開との緊張関係のなかで、生き生きと描写したことである。この時期の当該産業の労働者の生活の実態については、いくつかの労働者の日記や伝記を除けば、これまで内外ともにあまり知られておらず、本論文の功績は大きい。またパテルナリウムについては、わが国でもすでにいくつかの実証研究があるアルザス棉工業や中部製鉄業に比較して、ロレーヌ鉱山=鉄鋼業についての研究はまだ極めて手薄な状況にあり、本論文がそれについて意図、施策、思想的源泉、結果など多面的に解明したことの意義は大きい。本論文は、フランス・パテルナリスムの研究に新しい領域を切り開いたものと評価できよう。

 [3]とはいえ本論文にもいくつかの疑問や問題点を指摘しなければならない。第一の問題点は、豊富に提示される事実を体系的に整理した上で、全体として当該時期のフランス鉄鋼業の特徴をどのように把握するのかが明確でないことである。この点を本論文の構成に即して言えば、各章の位置づけやそれらの相互関係が明確ではなく、また終章(総括と展望)も各章の要約にとどまり、総括になり得ていないことが指摘されねばならない。また同様の問題は個別の論点についても指摘できる。パテルナリスムを例にとれば、施策の実態は詳細に論じられながら、その歴史的意義をどのように規定するか、また社会保障制度との関連性をどのように評価するか、パテルナリスムが想定する労働者像と現実の労働者との間にずれが見られないかなど、重要な問題について明確な指摘が見られないことが指摘されよう。

 第二に、企業家のマルサス主義や相対的遅れに関するフランスの特殊性を強調する通説を批判し、アメリカやドイツとの共通性を強調する本論文の基本的主張もなお十分な説得力を持つとは言えない。たしかに本論文は、ロレーヌ鉄鋼業が技術革新や設備投資に積極的で、生産の集中を基礎にした「市場の組織化」を追求した事実を明らかにしており、停滞や保守性を過度に一面的に強調する見解については有力な批判となろう。しかし遅れや消極性に関する議論の多くは、本来国際比較の観点から見たフランスの産業の生産性の低さや競争力の弱さを指摘したものであり、本論文が明らかにした積極性だけから、この議論を払拭することはできない。本論文の分析によって、フランス鉄鋼業が従来考えられてきたほどにはマルサス主義的ではなかったことは証明できたとしても、そこから従来の相対的な遅れと特殊性の議論を否定することとの間には、なお相当の距離があると言わねばならない。大不況期以後の経済発展段階の共通性、産業としての鉄鋼業の共通性を踏まえた上で、国際比較の観点からフランスの大企業の行動様式の特質を多面的に検討すること、あるいはフランス鉄鋼業における積極的な経営活動を実証し得たとして、なぜ他産業と異なり、鉄鋼業においてそれが可能であったかを明らかにすることは、なお残された課題である。

 第三に、コントワールの活動についてもなお不明な点が多く、検討すべき課題が多く残されている点が指摘されよう。本論文は加盟企業がコントワールに託した市場の組織化の意図や組織化のメカニズムを明らかにしたが、実際にどこまで市場が組織され、コントワールの目的が達成されたかについては、本論文の実証はなお不十分である。例えばコントワールの結成前後で製品価格、在庫率、利潤にどのような変化が見られたか、コントワールによって本当に市場が組織され、価格安定・利潤安定が実現できたのかどうか、加盟企業は出荷割当をどこまで守ったのか、違反した場合にはどのような制裁が課されたのか、などコントワールの活動の効果や結果について判断するのに不可欠ないくつかの論点について、課題は残されたままである。

 [4]以上のような問題点が残るとはいえ、本論文は前記のように、フランス鉄鋼業史研究の新たな段階を画する研究業績と評価することができ、審査委員会は全員一致で博士(経済学)の学位を授与するに十分な研究であるとの評価に達した。

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