本論は、中世及び近世の寺院建築の造営事業に注目し、事業によって建物に採用された特徴ある形態や技術と、造営事業の背景にあって要件として作用した歴史的な事象(以下「歴史的背景」という)との因果関係を明らかにしようとするものである。 本論は、以下の2つのことを提示することをおもな目的としている。 第一は、中世の寺院建築の動向をきめる要因となった主要な「歴史的背景」のひとつとして、「施主としての寺院の存在形態」という新たな枠組を提示することである。第二は、独自性の強い個別建物の特徴・変化と普遍性をもつ「歴史的背景」との関連を造営事業を通して読み取るという新たな方法論を提示することである。 本論では第1部、第2部で前者を、第2部、第3部で後者を扱っている。 第1部では、中世の東寺(京都府京都市)を例に、「施主としての寺院の存在形態」の推移によってもたらされた建築の特徴・変化を、施主と造営事業との関係を通して解明した。論を進めるにあたって、中世の東寺において自治・集会活動を行った供僧と呼ばれる僧侶の集団を「施主としての寺院」として位置づけ、その活動と建築との関係を検討した。 第1章では、供僧の活動の確立期にあたる13世紀後半以降から17世紀に至るまでの間の造営事業の内容・性質を分析し、施主としての供僧の活動が東寺の建築に特徴や変化をもたらしたことを考察した。分析にあたって、施主とともに造営事業にかかわった、施工者である工匠並びに事業の経営・監理者である大勧進職と呼ばれる僧侶の立場や役割の変化も究明した。また、造営事業において施主としての供僧がどのような経営・監理活動を行っていたのかも考究した。 この結果、中世の東寺伽藍のなかで、造営が集中的に頻繁に行われる箇所と、反対にほとんど行われない箇所という、いわば2つの異なる建物・空間が存在し、それが供僧の活動と密接な関連をもっていることが明らかになった。また、工匠、大勧進職の役割・立場も、供僧の活動の動向によって変化していたことを究明できた。 第2章では、第1章で扱った内容の一部である供僧と工匠との関係をさらに詳細に検討することによって、供僧の活動と東寺の建築の特徴・変化との関係をより明確に定義付けた。ここで注目したのは、15世紀の東寺において頻繁にみることができる大工職という役職をめぐって工匠がおこした訴訟である。さらにここでは、室町幕府等の公的権力による東寺造営事業への支援・介入にも着目した。 この結果、15世紀後半の東寺の造営事業が、おもに室町幕府との関係に基づく造営事業と寺院側の自立的経営に基づく造営事業という事業主体の違いにより区分することができることが明らかになった。また、東寺伽藍における建物・空間の分化がこの事業主体の違いと密接な関連をもつものであることも判明した。このなかで工匠がおこした訴訟は、おもに幕府との関係に基づく造営事業と関係するものであり、建築・空間の分化を生むひとつの要因となっていた。 第2部では、具体的な中世の寺院建築の特徴や変化に注目し、その造営事業を通して、特徴や変化と「施主としての寺院の存在形態」との関連を明らかにした。これは、第1部で行った実証手法をいわば反転して行ったものであり、これによって提示した中世における「施主としての寺院の存在形態」という「歴史的背景」の普遍性・有効性を示したものということができる。具体的にとりあげた実例は、正治元年(1199)に建立された東大寺南大門(奈良県奈良市)である。 第1章では、和様の技法を応用した棟木と桁上に添木を打つ大仏様の軒桁という異なる技法をもった棟木と軒桁を用いることが南大門固有の特徴であることに注目した。その上でこの両者の技法の違いの背景を、建築をてがけた大勧進職重源が建立時の造営事業においてとっていた造営体制に求めた。 この結果、棟木と軒桁の技法の違いは、造営事業における監理の手間を省力化するための造営体制の工夫によるものと推定され、従来建築家的な存在としてみられてきた重源の主眼が、おもに山林における材料調達のための工夫にあったことが明らかになった。このことから、重源の本質的な姿が、第1部第1章で述べた「施主としての寺院の存在形態」との関係で役割や立場を変化させる大勧進職として扱い得ることを推定した。 第2章では、妻飾を付加して入母屋屋根の妻を大きくみせようとした南大門にみられる改造に注目した。寺内の他の建物の改造等を参考に、改造の動機のひとつに改造時の造営事業の性質を位置づけ、そのことによって妻飾の改造年代を推定した。 この結果、妻飾の改造は13世紀中〜後期に行われたものと推定され、東大寺の大勧進職並びに東大寺内の造営組織である勧進所の立場・役割が、改造をもたらす要因のひとつとなったことを明らかにした。その立場・役割は、造営事業の主体的な権限を持ちつつも寺僧や寺内組織に事業の成果をみせる必要があるというもので、このことが南大門やその他の建物に対して、外観の変化をともなう改造という形で表れたものと推定された。この改造時における大勧進職の立場・役割は、南大門創建時の重源のものとは異なっており、この違いをもたらしたものが、東大寺の寺僧並びに寺内組織の活動の発展、すなわち「施主としての寺院の存在形態」の変化であると結論づけられた。 第2部の論考は、中世における「施主としての寺院の存在形態」と東大寺南大門の建築との関係を述べたものだが、別の観点に立つと、以下のような理由から、寺院建築史研究における新たな方法論の可能性を示したものとして位置づけることができる。 これまで東大寺南大門は、大仏様の建物として注目されてきた。大仏様は、南大門の建築としての特質を表すキーワードではあるが、それは「様式」という他の建物と共通する類型として提示された概念である。従来の寺院建築史研究の多くは、建物の形態・意匠等の類型化を基礎として進められてきており、「様式」はその最も代表的なもののひとつであった。これに対して、本部でとりあげた棟木と軒桁との技法の違い、妻飾の改造という両者は、これまでほとんど注目されていない独自性の強い、いわば南大門固有の特徴並びにその変化である。造営事業に注目し、それを通してみることによって、寺院建築の独自性の強い特徴や変化と普遍的な時代の「歴史的背景」との関係を明らかにした点に、本論の着眼点の新しさがある。 第3部は、第2部で提示した新たな方法論を、近世の寺院建築を対象として実験的に検討してみることによって、時代を越えた方法論の有効性・可能性を示そうとしたものである。 第1章では、浄念寺本堂(新潟県村上市)をとりあげた。浄念寺本堂は、文化15年(1818)の建立で、大型の土蔵造本堂で内部に吹き抜けの空間をもち、地方にある寺院建築としては珍しい独自性の強い特徴を備えた建物である。本章では、この特徴を生んだ「歴史的背景」を、建立時の造営事業の過程を概観することによって考察した。考察にあたっては、本堂に続いて文政13年(1830)に建てられた同寺に存在する間部詮房御霊屋との関係をあわせて検討した。 この結果、所在地である村上藩と間部家が藩主をつとめる鯖江藩という両藩が関係した造営事業であったことが、特徴ある本堂がつくり出される要因のひとつとなったことが明らかとなった。すなわち、両藩の便を図るため、両藩の藩邸がある江戸で造営の計画が進められ、その結果江戸で流行していた形式が導入されたものと推定された。同時に、造営事業の直前にあたる文化元年に村上藩において防火を目的として寺院建築を規制する法令が出されていたこととも、土蔵造という特徴と密接な関係をもつことが判明した。 第2章では、盛安寺客殿(滋賀県大津市)をとりあげた。検討にあたっては、同時期に建てられたと推定される同寺の本堂をあわせてとりあげた。客殿の天井の仕様が他所の仕様と比較して著しく劣ることや本堂の須弥壇に組直した痕跡がみられること等の細部の特徴に注目することによって、建立時の造営事業における「歴史的背景」を考察し、客殿の正確な建築年代を推定した。 この結果、客殿の建築年代は、本堂の須弥壇がつくられた寛永18年(1641)より後で、本堂が一応の完成をみた慶安5年(1652)より以前に比定され、およそ寛永末年〜正保年間頃と推定されることが判明した。客殿・本堂の細部の特徴は、両者の造営事業の計画変更を意味するものであり、その変更には盛安寺の住持の交代と盛安寺の本寺である西教寺から迎える客僧の存在が関係していたと推定された。 このように浄念寺本堂、盛安寺客殿という2つの事例から、近世の寺院建築の特徴・変化を生み出す「歴史的背景」として、「藩」「法令」「本末関係」という3つが重要な要素となり得ることが判明し、同時に本論で提示した新たな方法が近世の寺院建築に対しても有効であることが実証できた。 |