第1部 論文篇第1章 歌壇とその和歌 近世和歌は中世歌学を継承した細川幽斎からの門流から始まる。堂上では幽斎に古今伝授をうけた智仁親王からさらに伝授をうけた後水尾院の歌壇を、また地下では幽斎に師事した松永貞徳と木下長嘯子という二人の歌人を出発点と見定めてよい。そして、近世堂上和歌では、後水尾院と後水尾院の皇子霊元院のそれぞれが主宰したふたつの歌壇の文学的価値が高い。本書はその両歌壇を対象とした。
後水尾院歌壇は、三条西実条・烏丸光広・中院通村らによる基盤作りののち、後水尾院から古今伝授をうけた道晃法親王・飛鳥井雅章・日野弘資・烏丸資慶・中院通茂らによって、さまざまな文学活動-詠歌をはじめとして、編集や古典注釈など-が盛んになされた。本書では、準備期、後水尾院の創作への傾倒期(実条・光広・通村が中心。特に通村が重要)、後水尾院の指導への傾倒期(および編集事業への情熱。被古今伝授者が中心)という三期に便宜上分類し、歌壇の成立と展開をまず概括的に把握した。それに続く霊元院歌壇は、中心的な歌人に中院通茂・清水谷実業・武者小路実陰・烏丸光栄らがおり、後水尾院歌壇が整備した、和歌を中心とした文芸サロンとしての堂上歌壇の特質をさらに拡充したと言える。本書では、準備期、元禄を中心とする時期(通茂・実業・実陰が中心。特に通茂が重要)、享保を中心とした時期(実陰・光栄らが中心)という三期にやはり便宜上分類し、歌壇の成立と展開をまず概括的に把握した。さらに、中院・近衛・冷泉というような有力な家の存在や門跡サロンを解明することでより立体的に堂上歌壇のありようが見えてくる。特に本書では、中院家の人々-中院通勝・通村・通茂・通躬らが果たした役割、具体的には、天皇を補佐しつつ歌壇を運営していこうとした役割を指摘した。
さらに、近世堂上和歌の内容は歴史的に見てどうあったかについて考察した。それは、古今的世界への親近感を通じて、主に『古今集』への回帰願望を抱きつつ、結局それは不可能であるという絶望感を抱くに至った人間の和歌である、ということがまず言える。その過程をさらに細かく分析すると,古今的世界への一体化を目指す一方、三玉集歌人の実隆ら比較的時代の近い歌人たちをも手本として後水尾院歌が作られたことがまず指摘できる。また、「聞こえる」ことを第一として歌の姿を整えようと努力しつつ、初句や懸詞、縁語、本歌取りなどの技法を駆使して新しさを創造しようとしたことが、添削方法の検討によって知られる。そして景物的にも、象という新しい素材に対して、知的好奇心を存分に発揮して、活発な詠歌活動がなされたことが指摘できる。
第2章 史的位置 後水尾院歌壇が自らの史的位置をどのように捉えていたのか、結果的にどうあったかを考察した。大きく見ると、後水尾院歌壇はそれ以前を(A)勅撰集の時代、(B)三玉集の時代(後柏原院歌壇の時代)、(C)直接の師の時代、の三期に分けて捉えていた。そして、(A)への回帰を本来の目的とした後水尾院が結果的に目指し得たのは(B)の時代であって、それ以前に戻ることはできなかった、(C)は(B)の延長線上に捉えられる、という見通しを得た。後水尾院にとって(A)と(B)(C)は〈彼岸〉と〈此岸〉の違いがあった。具体的に言うと、作歌の規範としては(A)のテキストを用いながら、実際の作風・歌壇運営方法が(B)三玉集時代のそれとかなりの部分似てしまっていることも、そのような見通しを証している。すなわち、「なにを/どのように(基本的な美意識とそれに保証された歌材/方法論としての精神性)」という関係を後水尾院歌壇に当てはめれば、前者は古今と中心とする(A)によって、後者は(B)によって(付随的には(C)によっても)得られるものであった。
なお(A)の時代のうち『古今集』は歌人たちの美意識の根幹を形成するという点で、また『新古今集』時代の後鳥羽院は後水尾院が親近感を抱いたという点で、個別に重要である。
いわば、〈勅撰集とそれ以後〉という構図が後柏原院歌壇においてはじめて意識され、そこでの模索をより方法的自覚によって整備・改編したのが後水尾院歌壇であり、和歌史の系譜のなかで、後水尾院歌壇が新たなひとつの権威と目される形で再出発していくのである。
霊元院歌壇は基本的な史的位置としては後水尾院歌壇の敷いたレール上にある。後水尾院歌壇に見られた〈勅撰集とそれ以後〉という図式の内包性はここでも見受けられ、後水尾院歌壇の抱えた史的位置に関する問題意識を継承しつつ、さまざまな文学活動がなされたのである。
ほかにも近世堂上の客観的な位置付けの方法はさまざまに考えられようが、本書ではさらに、古典注釈史、雅俗混融、というふたつの大きな流れのなかでの史的位置という視点からも考察した。古典注釈史としては、「ひたやごもり」という『源氏物語』のなかの一語の具体的な解釈史を堂上歌壇における状況を含めて把握し、源氏注釈の持つ普遍的な精神性についても分析した。また、雅俗混融の例としては、近世堂上和歌における連歌の存在という視点から,和歌史における雅俗混融の流れのなかに近世堂上も存在することを考察した。
第3章 和歌と漢詩 後水尾院においては、和漢混融は随所で見受けられる。漢詩的発想・表現の歌の制作はもとより、古典注釈における漢籍引用、また晩年の禅への傾斜など例を挙げればきりがないほどである。その漢学の素養は相当なもので、それへの解明なくしては最終的な後水尾院の学識・教養の見定めは不可能と言ってよい。
まず量的な点について述べる。和漢混融の典型例として句題和歌があるわけだが、本書でも、中院通勝の「句題五十首」や句題「小扇撲蛍」「南枝暖待鶯」、「幸逢太平代」、千種有功の『和漢草』などを取り上げてそれぞれの特質を論じた。とりわけ中世の頓阿、三条西実隆から近世堂上へと詠みつがれていった五言句は、近世堂上歌壇の正月御会始をはじめとしたさまざまな御会において歌壇の主要歌人たちの殆どがそれぞれに詠んだという点で、堂上歌壇における浸透度はとりわけ深い。そしてそれらは、地下へも受け継がれていく。
また、漢詩の脚韻に対して和歌五句目の末字を同じにして唱和しようとする詠歌行為についても、同じく中世後期からさかんになされる和漢聯句と通底する精神性を有していて、この時代の和漢混融という特質を文芸形式としてよく表していることを指摘した。
次に質の問題について述べる。中世前期までの文学作品では白居易詩との関係を検討することが重要であるが、中世後期には五山禅林を中心とした独特なそして高度な文化が栄え、そこでの詩作の規範は晩唐の詩を多く収めた『三体詩』であった。また、近世中期には古文辞学派の中心人物の一人服部南郭の校訂した『唐詩選』が爆発的に流行してもいる。そして、それらがいずれも和歌の世界に対しても影響を与えていたことを、それぞれ中院通勝「句題五十首」、千種有功の『和漢草』を例にとって明らかにし、それまでの白詩偏重とは異なった傾向が看取されることを指摘した。