学位論文要旨



No 213556
著者(漢字) 高橋,慎一朗
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,シンイチロウ
標題(和) 中世の都市と武士
標題(洋)
報告番号 213556
報告番号 乙13556
学位授与日 1997.10.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第13556号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 助教授 伊藤,毅
内容要旨

 中世都市とは、中世(平安時代末期から戦国時代まで)に存在した都市であることは自明のことである。しかし、日本都市史のなかで中世都市をいかに位置付けるかについては、現在にいたるまで共通の認識が形成されていないように思われる。従来の都市史研究では、むしろ中世都市一般の特色を積極的には主張しないこともしばしばであった。逆に言えば、典型例がないのが中世都市の特徴なのであり、多様な都市が成立した時代が中世であったと考えられる。具体的には、古代の都城や国府の系譜をひく政治都市、港湾都市、寺社門前町、寺内町、武家の宿館都市、宿場町、市場町などが中世都市としてあげられる。なお、都市とは何かという点については、とりあえずは「多くの人間が比較的密集して居住し、農林水産業以外の生業を持つ人々の存在が顕著である場」と仮定しておく。

 中世になって多様な都市が成立した一因として、武士が都市に関与するようになったことがあると思われる。武士が都市生活者の面を帯びるようになったと同時に、都市支配者としても都市に関与していく。多様な中世都市のなかでも、武士の関与した都市が注目されるのは、武士の都市支配が近世につながるものであるからである。近世都市の典型である城下町は、中世以来の武士の邸宅を祖型としている。もっとも、中世の武家の邸宅がそのまま近世の城下町へと発展するわけではない。中間形態としては、近年研究の進展著しい戦国期の城下町があげられる。しかし、戦国城下町とて中世末期の都市の一類型に過ぎず、中世全体を通じて見れば、武士はさまざまな類型の都市において存在を確かめられる。そうした多様な都市における武士の存在形態の中から、武士の都市に対するある種の意思・姿勢が生まれ、戦国期城下町や近世城下町に結実していくものと思われる。

 そこで本論文では、中世における都市生活者もしくは都市支配者としての武士の実態を、武士が都市と関わり始めた中世前期を中心に明らかにしていくことを目的にしたい。

 そこでまず、中世において恐らく日本最大の都市であった京都を考察の対象とした。前提として、京都における武士の制度的拠点となった六波羅探題府という幕府機関の構造を分析した。六波羅探題府には、探題である北条氏一門が被官との主従関係を中核に据えて西国支配を行なうための制度的拠点、という側面があった。この構造に対応するように、1221年の六波羅探題府設置を契機に、「六波羅」という地区には六波羅探題とその被官を中核として武士の拠点となる空間が成立した。この空間を、本論文では「武家地」と規定したのである。すなわち、中世の武家地とは、「武士の集住地という景観を備え、武家が一円的に支配する空間」と考えるものである。ところで、六波羅は、探題府設置以前は多くの寺院が存在する「信仰の場」であったが、探題府設置によって、宗教者と武士の交流の発生などの「武家地」と「信仰の場」の融合がおこった。京都において武家地が六波羅に設定されたのは、いくつかの要因があったが、「河東」と称されて洛中とは明確に区別される地域であったことから公家の価値観から自由であったこと、それ故にまた「信仰の場」との共存が可能であったことが重要であろう。

 六波羅の例のみならず、武士(幕府)が主導して整備した武家の都市鎌倉においても、名越の「弁ヶ谷」や「甘縄」という地域の事例で確認されたように、「武家地」と「信仰の場」の共存は見られた。六波羅では「信仰の場」に武士が進出したのであるが、逆に念仏者のような宗教者が鎌倉に進出する際には、武士とのつながりを通じて「武家地」に拠点が置かれたのである。しかも、浄土宗西山派の場合は、北条氏とのつながりが京都六波羅において形成されたのである。また、金沢氏と称名寺の例にうかがわれるように、氏寺が武士の都市生活を支えるという側面もあった。

 「信仰の場」は、武士と都市住人の接点でもあった。六波羅探題府は「信仰の場」六波羅に集う人々を媒介として間接的に都市住人を支配しようとしたが、そうした都市支配者としての武士に対する都市住人の反発は、信仰の場によって主催される祭礼の際に爆発するのであった。また、軍勢の寄宿は多くは都市の寺院周辺においてなされ、都市住人の寄宿忌避という反発を受けたのである。そして、京都支配権をほぼ手中におさめた室町幕府は、奉行人を窓口とし侍所の職員を駆使して、寺社造営という名目で都市住人に地口銭を賦課しようとしたのである。

 以上より、本論文では、中世の武家地には信仰の場すなわち寺院が不可欠の要素とされていたということを明らかにできたと思う。換言すれば、中世の武士は、都市生活者及び都市支配者として寺院の存在を必要としていたということになる。

 それではなぜ武家地には寺院が必要とされたのであろうか。本格的な考察は今後の課題とせざるを得ないが、多少の見通しを述べておきたい。

 第一には、武士の信仰の問題がある。武士の性格についての研究には、在地領主としての側面に注目する流れと、武芸という職能を持つ職能人としての側面に注目する流れとがあった。そして、現段階での武士論のおおよその共通認識は、発生当初は狩猟民的性格が強かったが、やがて在地領主に転化する、というものであろう。いずれにせよ武士が本質的に殺生と不可分のものであったことは言うまでもなかろう。したがって、殺生による罪業を消滅させるためにも武士は仏教の力を必然的に欲していたであろう。ましてや、都市という場に武士が本拠を構えるにあたっては、殺生を忌避する公家を始めとする都市住人と共存するためにも、寺院を内包する必要があったのではあるまいか。

 第二には、都市住人の支配という点である。都市支配の経験の浅い武家は、寺院(信仰の場)を媒介として都市住人の支配や組織を行わねばならなかったのではなかろうか。また、寺院の僧侶等は、都市住人を布教の対象として活動する都市生活のベテランでもあったと思われ、都市生活者としての武士の指南役としての役割も期待されたのではないかと考えられる。

 第三には、武家地と寺院の空間構造の類似である。両者の空間的性格には共通点があり、かつ両者には互換性がある。武士の寄宿の場となりやすかったのが寺院であったということも、この点に関わるものであろう。

 以上のような理由から、中世の都市においては、「武家地」と「信仰の場」=寺院が空間的に密接な関係を持ったと言うことができよう。

審査要旨

 日本中世の都市研究は、最近になって急速に進められており、特に考古学の発掘成果を盛り込んだことにより、様々な側面が明らかにされつつある。

 そうした研究状況のなかで本論文は、考古学の研究の成果も盛り込みつつ、中世を主導した武士が都市においていかなる存在であったのか、武士がいかに都市と関わっていたのかを探り、中世都市の特質に迫るとともに、新たな中世都市像を描いたものである。

 全体は三部からなり、第一部では、中世都市の代表的存在である京都をとりあげ、武士の占めた場としての六波羅の特質を明らかにし、第二部では、武士により造られた都市である鎌倉をとりあげて、武士の居住の形態とその場の特質を明らかにし、第三部では、都市の住人が武士をどのように見ていたのかを、鎌倉時代から室町時代にかけての京都を対象に探っている。

 その結果、明らかにされたのは以下の諸点である。第一は、鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題府の人的構成を探って、その活動の実態を明らかにした点、第二は、平氏の根拠地となり、六波羅探題府が置かれることになった六波羅が「武家地」としていかに機能していたのかを提示して、そこが信仰の地としてもあったことを明らかにした点。第三は、鎌倉における「武家地」を弁ケ谷と甘縄の二つを事例にみて、信仰の空間と武家の居住空間の密接な関係を提示した点、第四に、武士と都市の住人とのかかわりを、住人の視線と武士の都市支配との関係において明示した点などである。

 こうして中世の都市においては、武家地が信仰と関わっていた事実を明らかにして、それを機軸に据え、中世都市に対する新たな視点を提供し、またそのことからさらに武士像についても新たな見方を提供したことは、今後の中世の都市と武士の研究に重要な問題提起をなしたものと認められる。

 本論文はこのように従来にはない見通しを提示したばかりか、所々で新知見を示し、中世都市研究に確実な基礎を築いたものと考えられ、その点から高く評価されるものである。

 ただ個々の論点には弱い部分も認められ、さらに武家地の内実や信仰の具体的な形態と都市の関係などについても、きめ細かな分析が求められようが、日本中世の都市と武士の関わりについて、大きな研究上の寄与をなした点において、審査委員会は博士(文学)の学位にふさわしいものと判断した。

UTokyo Repositoryリンク