都市圏では市街地有効利用のためにビルの超高層化が進んでおり、これに伴って附属設備である超高層エレベーターを高速に昇降させるための技術開発が進んでいる。現状の超高層エレベーターにおいて生ずる気圧変化でも利用者にかなりの耳閉感を与えるが、長距離化と高速化が進めば急激な気圧変化が中耳に与える生理的影響も益々大きくなるものと予想される。航空医学や潜水医学等の分野では気圧変化が中耳に与える影響に関する研究についてはかなりの蓄積がある。しかし、それらのほとんどは高速エレベーターの昇降において予想されるよりもはるかに大きな気圧変化量の影響に関するものであり、エレベーターのような緩気圧変化下における気圧変化速度や搭乗者の耳管機能を影響因子として取り上げた定量的な実験的研究はほとんど見当たらない。また、実験被験者の多くは気圧差の暴露経験が豊富な特殊者であって、エレベーター利用者のように一般的な被験者ではない。そのため高速エレベーター研究開発の進展にも拘わらず、生ずる気圧変化が一般的な人の中耳に与える生理的影響についてはまだよく分かっていない。そこで、高速エレベーターにおいて生ずる気圧変化が一般人の中耳に与える影響、生理的影響とそのメカニズム、被験者の耳管機能差の影響等を明らかにするために実際の高速エレベーターを用いた実験的研究を行った。 実験は揚程106mの試験用高速エレベーターを使用した単一昇降実験、及び、連続昇降実験から構成される。あらかじめエレベーターの昇降速度やかごの気密状態がかご内の気圧に与える影響を把握するために、昇降によって生ずるかご内部と地上の気圧差を計測した。その結果、かご動圧、天井ファン、気密度等の要因は生ずる気圧差には影響を与えず、一義的にかごの昇降高度により決定されることが判明した。かご内の気圧はかごの上昇高度と共に低下し、実測気圧差はLaplace測高公式による計算値とほぼ一致した。実験に参加した被験者はボランティアから音響法耳管機能検査の結果をもとに選抜した15名である。選抜した被験者の耳管機能は、実験においてcompliance計測の対象とした左耳における外耳道音圧レベルが右耳と同等以下の者であり、左耳の耳管正常者(外耳道音圧レベルが5dBを越える者:Tn型)10名、耳管閉塞者(外耳道音圧レベルが0dBの者:Ta型)、及び、耳管狭窄者(外耳道音圧レベルが0dBを越えて5dB以下の者:Ta’型)5名の計15名であった。 単一昇降実験は、実験の要因と水準としてそれぞれ昇降速度(90,150,420m/分)、昇降方向(上昇、下降)、嚥下条件(自由、禁止)を取り上げた三元配置実験とした。計測項目は、昇降中の被験者の耳閉感申告強度、compliance、嚥下有無、昇降直後の耳閉感とめまいの内観、かご内の環境印象評価等である。また、エレベーター昇降時の物理特性としてかご内の気圧差変化、昇降高度、昇降速度、加速度等も同時に測定した。昇降は被験者各1人づつが昇降方向のみ交互とし、各条件はランダマイズした順序に実施した。また、連続昇降実験は、実験の要因と水準を昇降速度420m/分、嚥下自由条件下に固定して各計40回の連続昇降を実施した。連続昇降の被験者には前述の15名からさらに選抜したTn型2名、Ta型2名、Ta’型1名の計5名であり、計測項目は単一昇降実験とほぼ同様である。実験結果から、嚥下禁止条件下では耳管機能正常者(Tn型)の鼓膜は外界と中耳との間に生ずる差圧のために上昇時には外耳道側に偏位して緊張し、complianceは次第に低下して耳閉感を申告した。しかし、嚥下自由条件下では耳管の能動的開大が起こって中耳圧が外界圧に調整されるために鼓膜は正常状態に戻ってcomplianceが増大した。下降時は、嚥下禁止条件下において鼓膜は上昇時とは逆に内耳側に偏位して緊張し、complianceが低下し、嚥下条件下では嚥下により増大する同様の挙動を示した。一方、tympanometry検査において鼓膜が内陥した耳管閉塞者(Ta型)では嚥下条件に拘わらず能動的耳管開大は起こらず、中耳圧は上昇中も維持され、外界との差圧が小さくなるためにcomplianceが増大し、下降では減少して地上において元の内陥状態に戻る特異的な挙動を示した。これらのことから、耳管閉塞者は生ずる気圧変化に対して嚥下等による能動的耳管開大ができず、高速エレベーターで生ずる気圧差は全て鼓膜に負荷されることが判明した。Tn型被験者における耳閉感(強度1)申告時のcompliance変化率、及び、移動距離(m)を特性値とした分散分析の結果から、昇降方向、昇降速度(圧変化速度)、被験者の各因子、及び、幾つかの交互作用が有意となった。昇降方向が下降時に、また、昇降速度が大きいほど耳閉感も強くなることが確認された。また、全被験者の耳閉感強度申告の評点を特性値とする分散分析の結果から、昇降方向、昇降速度、被験者の耳管機能型の各主因子、及び、幾つかの交互作用が有意となり、Ta・Ta’型被験者の耳閉感はTn型に比して有意に鈍いことが示された。 連続昇降実験の結果からは、昇降中の各被験者のcomplianceは単一昇降実験の結果と同様の変化を繰り返す挙動を示した。ここでもTa・Ta’型被験者の耳閉感は鈍く、特に、連続昇降に伴うめまいや気持ち悪さの蓄積・継続が見られた。実験後のエレベーターかご内の環境に対する心理的な印象評価もTn型に比して有意に低く、このような不快感が影響したものと推定される。これら一連の昇降実験の結果から、高速エレベーターの昇降によって生ずる気圧変化の中耳への影響には昇降方向だけでなく、昇降速度や搭乗者の耳管機能型も有意に影響を与えることが明らかになった。また、耳管閉塞者では嚥下による能動的耳管開大ができないために外界との間に生ずる中耳との気圧差は全て鼓膜に負荷されるため、気圧変化量、気圧変化速度が大きくなる場合には気圧性中耳障害を生ずる可能性が高いと考えられる。 前述の如く高速エレベーター昇降時の気圧変化は中耳に生理的影響を与えることが明かになったが、参考研究として、気圧性中耳障害の可能性が高い人が一般にどの程度存在するかを把握するために228名のオフィスワーカー等の被検者による一連の聴器機能検査を実施した。その結果は本論文の後に添付したが、耳管閉塞者は約11.8%存在し、気圧変化による中耳障害の可能性が高いと考えられる耳管閉塞かつ脆弱鼓膜な人は約2.0%程度存在すると推定され、今後一層の生理学的検討とデータ蓄積が必要と思われる。 |