学位論文要旨



No 213572
著者(漢字) 坂口,正高
著者(英字)
著者(カナ) サカグチ,マサタカ
標題(和) 低位前方切除術後における排便機能障害の発生機序に関する研究
標題(洋)
報告番号 213572
報告番号 乙13572
学位授与日 1997.10.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13572号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上西,紀夫
 東京大学 教授 小俣,政男
 東京大学 助教授 青木,幸昌
 東京大学 助教授 三木,一正
 東京大学 助教授 倉本,秋
内容要旨 I.緒言

 自動吻合器およびdouble stapling techniqueの開発,普及により,腹会陰式切除術の適応と判断されてきた下部直腸癌で,より肛門側の癌に対しても自然肛門が温存された低位・超低位前方切除術(low anterior resection・super low anterior resection;以下LAR)が可能となった.しかし,人工肛門の回避とひきかえに便失禁,頻回の排便,便意促迫等,LARがもたらす排便機能障害がしばしば出現するようになった.

II.目的

 目的は直腸癌に対するLAR後の排便機能障害の原因とその機序を,(1)術前および経時的な直腸肛門の生理学的機能検査および(2)排便造影による骨盤底形態計測によって明らかにすることにある.

III.対象と方法1.対象

 術前および術後1回以上生理学的機能検査を施行し得たLAR例64例を対象とした.術後早期(1〜5か月)の失禁・soilingの有無により失禁群,非失禁群に分けて,臨床症状および直腸肛門機能の経時的変化を比較検討した.またLAR後の32例および術後に失禁をきたした5例には術前後に、排便造影検査を施行し骨盤底の形態的変化を検討した.また,LAR後の18例に対してretrospective studyを行った.高位前方切除術およびS状結腸切除術例(以下S状結腸切除例)31例および直腸肛門に病変をもたないボランティアによる正常例17例を比較として用いた.

2.方法1)生理学的直腸肛門機能検査

 a.径5mmのmicroballoon法により,内肛門括約筋の機能を表す最大静止圧,機能的肛門管長,肛門管基礎律動波および外肛門括約筋群の機能を示す最大随意収縮圧を測定した.次に直腸伸展拡張用バルーンを直腸内に留置し,感覚閾値(初めてガスの貯留を自覚する量),最小便意発現量(初めて便意を自覚する量),最大便意耐容量(便意を我慢できる限界量)を測定した.また,直腸肛門反射は直腸を伸展拡張した時の内肛門括約筋の弛緩(肛門管内圧の低下)の有無によった.

 b.肛門管上部粘膜電流感覚閾値測定

 肛門縁より3cmの部位の肛門管粘膜を定常電流刺激装置で刺激して,自覚する感覚の最小値(閾値)である肛門管上部粘膜電流感覚閾値を測定した.

 c.直腸肛門管内圧同時測定

 一部のLAR例で,マイクロチップ型圧感応センサーのついたカテーテルで肛門縁より2,7,12cmの部位の圧波形を同時に記録した.

2)排便造影

 繊維性物質を混じた造影剤を直腸内に注入し坐位の姿勢で,安静時,骨盤底最大収縮時,いきみ時にX線撮影を施行した.測定項目は肛門管長,直腸肛門角,骨盤底位置,会陰位置である.

IV.結果1.臨床結果

 本研究では術後早期(5か月まで)に便失禁ないしsoilingをきたした症例は40例(62.5%)であった.また失禁・soilingをきたした症例は,同時に頻回の排便,便意促迫を高頻度にともなった.しかし失禁・soilingは経時的に改善し,13か月以降でも失禁・soilingを認めた症例は40例中12例(30%)となった.また排便回数,便意促迫頻度も術後6か月を越えると非失禁症例と変わらなくなった.しかしS状結腸切除例の排便回数と比較すると,LAR後には排便回数が頻回であった.

2.手術成績

 手術因子について失禁の有無との関係を検討すると,失禁に関与していた因子は吻合部の肛門縁からの距離および自動吻合器の内腔面積であった.自律神経の温存程度および側方郭清程度は失禁には関与しなかった.

3.生理学的機能検査結果1) retrospective study

 a.失禁・soilingの有無による検討

 失禁・soiling症例では吻合部の肛門縁からの距離が有意に短かった.また生理学上有意差を認めた因子は機能的肛門管長のみであり,失禁・soiling症例で機能的肛門管長が短縮していた.

2)S状結腸切除術症例

 腸切除をされたにも拘わらず,高位前方切除術およびS状結腸切除術後には直腸肛門に関与する生理学的因子は,一時的な直腸肛門反射の消失を除いては一切術前と変化を認めなかった.その直腸肛門反射も術後2〜5か月時に29%に消失を認めたが,6か月を経過すると全例に出現した.

3) LAR症例

 LAR術後に失禁・soilingを生じた症例では,非失禁症例と比べ,術後1か月の時点では肛門管上部粘膜電流感覚閾値の上昇および最大静止圧の低下が認められた.術後2〜5か月になると,肛門管上部粘膜電流感覚閾値および最大静止圧は回復を示したが,最大便意耐容量の低下および直腸肛門反射の高率な消失が認められた.失禁・soilingの軽減,改善を認める術後6か月以降では,失禁・soiling症例と非失禁症例の間で直腸容量および肛門機能に差は認められなくなった.ただし,術後10か月に直腸肛門管内圧を同時測定した1失禁例で吻合部口側腸管に,肛門管の内圧を越える不規則な内圧の異常上昇すなわち直腸肛門管内圧較差の逆転を頻回に認めた.また,この異常は術後27か月の失禁例でも認められた.しかし術後失禁・soilingをきたさなかった2例および正常例には,この種の異常は認められなかった.

 S状結腸切除例と失禁・soiling例との比較で,術後1か月では肛門管上部粘膜電流感覚閾値と差を認め,術後2〜5か月および術後6〜12か月では,最大静止圧,直腸肛門反射の陽性率,直腸感覚に差を認めた.

4.排便造影の結果

 1) LAR術後の失禁・soilingの有無による32例の検討で失禁・soiling例は非失禁例に比べ,直腸肛門角が安静時,骨盤底最大収縮時に鈍角化していた.

 2) 失禁・soiling例のLAR術前・術後の検討では,術後に直腸肛門角が安静時,骨盤底最大収縮時に鈍角化していた.骨盤底位置も同時相で低下,直腸肛門角の開大も認めた.

5.臨床成績、手術成績と機能検査成績の総合的検討1)排便回数と最大便意耐容量との関連

 術後2〜5か月においては,排便回数と最大便意耐容量との間に負の相関を認めた.すなわち最大便意耐容量が少ないほど排便回数が多い結果を示した.特に最大便意耐容量が50ml以下の症例では全例が排便回数が5回以上であった.

2)最大便意耐容量と吻合部の肛門縁からの距離との関連

 術後2〜5か月においては最大便意耐容量と吻合部の肛門縁からの距離の間に正の相関を認めた.すなわち吻合部の距離が長いほど最大便意耐容量は大きくなる関係を示した.

V.考察

 本研究で,術後の便失禁およびsoilingの原因は,術後1か月では最大静止圧の低下および肛門管上部粘膜電流感覚閾値の上昇に示されるように,肛門管の構成要素である内肛門括約筋および肛門管粘膜の感覚受容器への直接の障害あるいは支配神経の末梢への障害であり,この障害が回復した術後2〜5か月では最大便意耐容量すなわち直腸容量の低下および直腸肛門反射の消失であった.失禁群では吻合部の肛門縁からの距離が短く,この短いことが最大便意耐容量の低下に関連し,また頻回の排便,便意促迫の原因と考えられた.排便機能障害が改善,軽度化する6か月以降では,肛門機能および直腸容量は失禁・soiling例と非失禁例の間で失禁に関与する差は認められなくなり,吻合部口側の腸管の内圧の異常亢進に伴う直腸肛門管内圧較差の逆転が失禁の生理学上の原因であると推測された.また骨盤底の形態異常として直腸肛門角の鈍角化および骨盤底位置の低下によると考えられた.

 従来,LAR後の排便機能障害についての研究は,多くが肛門機能に対して向けられてきた.しかし肛門機能が回復した後にも認められる排便機能障害は肛門機能だけでは説明がつかない.本研究では,吻合部口側腸管の異常内圧および直腸肛門管内圧較差の逆転を,少数例ではあるが失禁例に指摘し得た.したがって残存直腸および吻合部口側腸管の機能が,術後の排便機能に重要な役割を担っていると考えられた.

VI.まとめ

 経時的に直腸肛門の生理学的機能検査および排便造影検査により,LAR後に生ずる排便機能障害に関与する生理学的因子および骨盤底の形態的変化が次のように明らかになった.すなわち初期(術後1か月の時点)では内肛門括約筋の機能低下および肛門管の知覚鈍化により,早期(術後2〜5か月の時点)では直腸容量の低下および直腸肛門反射の消失によると考えられた.また失禁の背景には吻合部口側腸管の内圧異常が推測された.失禁には直腸肛門の生理学的機能の低下に加えて,骨盤底の形態的変化も関与した.

VII.結語

 低位前方切除術後の排便機能障害には

 1.弱く,感覚の悪い肛門管

 2.肛門管と直腸の協調不良

 3.低直腸容量

 4.低容量の吻合部口側腸管に認められる異常内圧

 5.骨盤底の異常

 が関与していると考えられた.

審査要旨

 本研究は直腸癌に対する低位前方切除術後における排便機能障害の原因と機序を明らかにするため、術前および術後の経時的な直腸肛門の生理学的機能検査と排便造影による骨盤底形態計測により、術後の排便機能障害に関与する因子の解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

 1.手術因子について低位前方切除術後の失禁の有無との関連の検討により、失禁に関与する因子は、腸管吻合部の肛門縁からの距離と自動吻合器の内腔面積のみであり、自律神経温存の程度および側方郭清の程度は関与しないことが示された。

 2.失禁・soiling例と非失禁例の生理学的因子の経時的な比較検討では、失禁・soiling例では術後1か月の時点では肛門管上部粘膜電流感覚閾値の上昇および最大静止圧の低下が示され、術後2〜5か月の時点では失禁・soiling例で肛門管上部粘膜電流感覚閾値および最大静止圧は回復を示し、非失禁例との間に差を認めなくなった。しかしこの時期には失禁・soiling例において最大便意耐容量(直腸容量)の低下および直腸肛門反射の高率な消失が示された。術後6か月を経過すると、失禁・soiling例に認められた最大便意耐容量(直腸容量)の低下および直腸肛門反射は回復し、失禁・soiling例と非失禁例の間で肛門機能および直腸容量に差が認められないことが明らかになった。

 しかし失禁・soiling例において、直腸肛門内圧の同時測定により術後6か月以降に吻合部口側腸管に肛門管内圧を越える不規則な内圧の異常上昇を認め、直腸肛門管内圧差の逆転を指摘し得た。したがって残存直腸および吻合部口側腸管の機能が、術後の排便機能に重要な役割を担っていることが推測された。この結果により従来、肛門機能および直腸容量では説明し得なかった術後長期に継続する失禁・soilingの機序を説明し得る可能性が示された。

 3.排便回数に関与する生理学的因子の検討では、術後2〜5か月の時点では排便回数と最大便意耐容量との間に負の相関が認められた。すなわち最大便意耐容量が少ないほど排便回数が多いことが示された。

 4.術後2〜5か月の時点では最大便意耐容量と腸管吻合部の肛門縁からの距離の間に正の相関が認められた。すなわち吻合部の距離が長いほど最大便意耐容量は大きいことが示された。

 5.排便造影による術後の失禁・soiling例と非失禁例での骨盤底形態の比較検討により、失禁・soiling例では非失禁例に比べ安静時、骨盤底最大収縮時に直腸肛門角が鈍角化していることが明らかになった。また術後に失禁・soilingを認めた症例における骨盤底形態の術前後の比較検討では、術後に安静時、骨盤底最大収縮時に直腸肛門角の鈍角化および骨盤底位置の低下と直腸肛門角の開大が示された。

 以上、本論文は直腸癌に対する低位前方切除術前後の直腸肛門に関与する生理学的因子の経時的変化および骨盤底の形態的変化の検討から、術後の排便機能障害の機序を明らかにするとともに、術後の排便機能障害に関与する因子は、術後の時期により異なることが示された。本研究は低位前方切除術後における排便機能障害の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位授与に値するものと考えられる。

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