学位論文要旨



No 213573
著者(漢字) 矢島,直
著者(英字)
著者(カナ) ヤジマ,チョク
標題(和) 血中濃度測定を必要としない薬物動態学と薬力学の同時解析モデル : 非脱分極性筋弛緩薬ベクロニウムへの応用
標題(洋)
報告番号 213573
報告番号 乙13573
学位授与日 1997.10.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13573号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 伊賀,立二
 東京大学 教授 三品,昌美
 東京大学 教授 藤田,敏郎
 東京大学 教授 宮下,保司
内容要旨 研究の背景及び目的

 筋弛緩作用の記録は臨床においてしばしば行われているが,筋弛緩薬に対して異常な反応を示した患者の筋弛緩モニターの記録を血中濃度の測定無しに解析する方法はない.異常な反応を示すことに気づいた時点で採血をして薬物濃度の測定をすることは稀にはあるが,1点か2点のデータからその患者の薬物動態を決定することは難しい.一般に,よほど重大な事態になるか重大な異常が予測されない限り筋弛緩薬の血中濃度測定をすることはない.筋弛緩薬の分解を阻止する緩衝液を常時用意している施設はないし,薬物濃度の測定には多額の費用がかかるからである.このような状況に鑑みて,血中濃度の測定無しに薬物動態学(PK)と薬力学(PD)のパラメータを筋弛緩モニターの記録から推定する方法を開発することを目的に本研究を行った.またPK,PDが正常な患者でも作用持続時間を予測することは日常の臨床上有用である.そこで既存のPKパラメータセット1)を用いて従来のPK・PD同時解析モデルを本研究の測定結果に当てはめてPDパラメータを求め,ベクロニウムを反復投与した時の作用持続時間が初回投与量,追加投与量及び追加回数によってどのように変化するかを明らかにすることを第2の目的とした.

対象及び研究方法

 神経筋疾患,肝障害,腎障害を有さない患者で麻酔リスク(ASA)1°〜2°の予定手術患者46名に100,200,300g/kgのべクロニウムを投与し,母指内転筋の等尺性収縮力を測定記録した.麻酔導入はチオペンタールを用い気管内挿管はベクロニウムを用いて行った.気管内挿管のし易さは插管スコアを用いて評価した.麻酔維持は笑気4L/min,酸素2L/min,エンフルレン1%以下を用い,神経筋遮断率が75%に回復する毎に40または60g/kgのべクロニウムを反復追加投与した.筋弛緩モニターは尺骨神経を手首で12秒毎に最大上刺激の電流で単刺激して母指内転筋の等尺性収縮力を張力のトランスデューサで電気信号に変換しポリグラフで記録した.これより,作用発現時間,作用持続時間,回復指数を測定した.また筋弛緩モニターの経時的変化の記録を用いてPK・PD同時解析を行って各種パラメータを求めた.PK・PD同時解析モデルとしては,薬物がn個のコンパートメントに分布するとして解析するSheinerのモデルを基礎にして薬物投与後短時間のみ成立する「作用発現モデル」と,血中濃度の時間推移の消失相について単一コンパートメントを仮定するSheinerのモデルを基礎として作用回復時に成立する「作用回復モデル」を作成した.この2つのモデルを筋弛緩モニターのデータに適用して,用量・作用曲線の傾きを示すHill係数()と薬物の消失過程を示すと考えられる複合速度定数()に相当する「見掛けの」を求めた.

結果及び考察1.モデルによらない結果

 作用発現時間(onset time)は用量依存性に短縮し(図1),作用持続時間(clinical durationまたはduration time)は用量依存性に延長していた(図2).

図1. ベクロニウム投与量と作用発現時間図2. ベクロニウム投与量と75%持続時間

 挿管状態は,100g/kg投与群では咳反射等のために挿管がやや困難な症例が23%(3/13)あり,100g/kgは挿管のためには不十分であった.200g/kg及び300g/kg投与群では,容易に喉頭展開ができ挿管状態は全例良好であった.一方300g/kg投与群では作用発現時間が1.9±0.3分と最短であったものの,作用持続時間は130±50分と200g/kg与群のそれ(80±20分)に比してバラツキが大きかった.したがって予定手術時間が1時間以上の時には気管内挿管のためのべクロニウムは200g/kg前後が適当な投与量であると考えられた.

 初回投与量100,200,300g/kg投与群のそれぞれを,追加投与量によって40,60g/kg投与群(合計3×2=6群)に分けて,初回投与量と追加投与量が作用持続時間に及ぼす影響について調べた結果を図3に示した.

図3A. 100g/kg投与後の作用持続時間 図3B.200g/kg投与後の作用持続時間 図3C.300g/kg投与後の作用持続時間

 追加投与後の作用持続時間は症例間の差異が大きいが,個々の症例を見れば追加回数が増えるにつれて,漸増か,不変か,漸減かの傾向があり,各群毎にほぼ一定の傾向を示していた.すなわち初回100g/kg,追加40g/kg投与群(第I群)および初回100g/kg,追加60g/kg投与群(第II群)では追加投与後の作用持続時間は追加投与回数が増すにつれて軽度増加傾向を示し,初回200g/kg,追加40g/kg投与群(第III群)および初回200g/kg,追加60g/kg投与群(第IV群)では作用持続時間は追加回数に依らずほぼ一定傾向を示していた.初回300g/kg投与群では,3回以上追加投与したものが4症例と少なく,また各症例間のバラツキが大きかったが,追加40g/kg投与群(第V群)では追加回数が増えるにつれて作用持続時間は減少傾向を示し,追加60g/kg投与群(第VI群)では追加回数に依らずほぼ一定の傾向を示していた.

 また,初回投与後の作用持続時間と追加投与後の作用持続時間の間には,各群内で症例毎についてみると,ほぼ比例関係が認められた.

2.従来のPK・PDモデルによる結果

 血中濃度の解析に3コンパートメントモデルを用いた従来のPK・PD同時解析モデル(Sheinerのモデル)によって,ベクロニウムを初回100,200,300g/kg,追加40,60g/kg投与時の筋弛緩作用の時間推移をシミュレーションした結果を図4に示した.シミュレーションによれば,第III群,第IV群及び第VI群では,追加投与後の作用持続時間を,追加回数によらずほぼ一定にできるが,第I群及び第II群では,追加投与回数が増すにつれて軽度増加傾向を示し,第V群では追加回数が増えるにつれて作用持続時間は減少傾向を示していた.このシミュレーションの結果は実際の測定結果(図3)と概ね一致していた.なお,このシミュレーションに使用した3コンパートメントモデルのPKパラメータは,100g/kg投与後の血中濃度を測定して得られた既存のパラメータセット1)(:0.54[分-1],:0.069[分-1],:0.0059[分-1])を用い,PDパラメータには,ベクロニウム初回投与後,筋弛緩作用が25%回復するまでの本研究(n=44)のデータにSheinerのモデルをあてはめて求めた値を用いた.

 反復追加投与後の作用持続時間が初回投与後の作用持続時間と等しくなるような追加投与量(d)と初回投与量(D)の関係を前述のシミュレーションモデルを用いて求めた(図5).これより初回投与量が50〜250g/kgの範囲では,追加投与量を初回投与量の約1/3にすれば,初回投与後の作用持続時間が反復投与後の作用持続時間と等しくなることが予想できた.

図4. 反復投与時の作用持続時間図5. 作用持続時間が等しくなる初回投与量と追加投与量
3.作用発現モデルと作用回復モデルによる結果

 作用発現モデルから,初回投与量(D)と作用発現時間(OT)との間には,反比例関係があることが導かれた.これは実際の測定結果(図1)と概ね合致するものであった.またこのモデル解析から,Hill係数は初回投与量に依存せず約5.7と推定できた.

 初回投与量が増せば,作用持続時間(DT)は一般に延長するが,さらに定量的な解析を行うために作用回復モデルを作成したところ,初回投与量の対数と作用持続時間の間に直線関係があることが予想された.この関係は,実測値(図2)を満たすものであった.このことから,たとえば投与量を1割増やすと作用持続時間は約6分程度延長することが予想できた.

 作用回復モデルからは,さらに薬物の消失過程を示すと考えられる「見掛けの」を導くことができた.多数の症例で得られた「見掛けの」は,初回投与量の増加に対して減少する傾向が見られた(図6).この値は,3コンパートメントモデルでは薬物の血中濃度の時間経過の曲線に,ある時点で接線を引いた傾きに概ね対応するものである.実際,作用回復モデルに基づいて得られた「見掛けの」の実測値()と,3コンパートメントモデルにベクロニウムの既存のパラメータセット1)を用いた予測値を比較したところ,比較的良い対応が見られた(図7).特に,作用持続時間が延長するほど,「見掛けの」は低下し,血中濃度測定から得られた消失相の速度定数に近づくはっきりした傾向が見られた.このことは,初回投与量を増すと作用持続時間が延長して「見掛けの」が低下する図6の結果をよく説明するし,作用持続時間が100分以上では,血中濃度を測定しなくても「見掛けの」から消失相の速度定数を推定できることを示している.

図6. 初回投与量と見掛けのの関係図7. 見掛けの速度定数Sohnらのデータより3コンパートメントモデルで計算した「見掛けの」の予測値 =0.54(l/min) =0.069(l/min) =0.0059(l/min) 測定値に回復モデルを当てはめて計算したの値(D=100g/kg) 測定値に回復モデルを当てはめて計算したの値(D=200g/kg) 測定値に回復モデルを当てはめて計算したの値(D=300g/kg)
結論

 血中濃度を測定することなく,筋弛緩モニターのデータをモデルに基づいた解析をすることにより,以下のことを明らかにした.

 筋弛緩薬の初回投与量を増すと,作用発現までの時間が短縮し,作用持続時間が延長することは臨床的に経験することであるが,本研究の解析により,作用発現時間と作用持続時間をある程度定量的に予測することが可能になった.さらに,用量・作用曲線の傾きを推定することが可能であり,また,作用持続時間が長い症例に限られるが,薬物の消失速度を推定できることが分かった.このような推定結果は,筋弛緩薬に対して異常な反応を示した症例の解析に有用であると考えられる.

 作用持続時間を一定に保つための追加投与量に関する解析も,すでに報告されている血中濃度の時間経過に関するデータ1)を一部援用して行った.この結果,追加投与量を初回投与量の約1/3にすることにより,薬物投与時間間隔をほぼ一定に保つことができることが予測できた.

 以上,筋弛緩薬の血中濃度測定をすることなしに,筋弛緩モニターのデータを用いた筋弛緩薬作用動態の定量的解析法を開発することができた.

1)Sohn YJ,Bencini AF,Scaf AHJ,Kersten UW,Agoston S:Comparative pharmacokinetics and dynamics of vecuronium and pancuronium in anesthetized patients.Anesthesia and analgesia 65:233-239,1986.
審査要旨

 本研究は非脱分極性筋弛緩薬の血中濃度の測定なしに薬物動態学と薬力学のパラメータを筋弛緩モニターの記録から推定する方法を開発したものであり,非脱分極性筋弛緩薬の例としてベクロニウムを人に投与したデータにこの方法を適用して以下の結果を得ている.

 1.非脱分極性筋弛緩薬をボーラス静注投与したときの血中濃度推移式は,一般に3指数関数の和213573f03.gifで表される.薬物動態学と薬力学の同時解析モデル(Sheinerのモデル)は,これより作用部位(biophase)での薬物濃度推移式Ce(t)を求め,薬効強度(筋弛緩率)の推移式E(t)をHillの方程式213573f04.gifを用いて計算するものである.この従来のモデル(Sheinerのモデル)を用いた場合,パラメータの数は血中濃度に関するものが6個(P,A,B,,,),薬効部位よりの薬の消失に関する速度定数()が1個,Hillの方程式に関するものが2個(,K)の合計9個となる.血中濃度の測定をせずに,筋弛緩モニターのデータに薬効強度推移式E(t)をカーブフィッティングして9個(この場合,血中濃度のパラメータP,A,Bの絶対値を決めることはできず,3者の比が決まるのみであるから,実際は8個であるが)のパラメータを求めることは,筋弛緩モニターの精度の関係で不可能であった.そこで以下に述べる「作用発現モデル」と「作用回復モデル」を作成して,これを可能ならしめた.この場合のパラメータ数は4個(,,,K)となった.

 2.筋弛緩薬投与後,支配神経を刺激しても筋収縮が起こらなくなるまでの比較的短時間について成り立つモデルを「作用発現モデル」とした.これはSheinerのモデルに近似式e-X≒1-Xを適用したものである.その結果,作用発現時の薬効強度推移式はP,A,B,,,に依らず,薬効強度推移式のロジット関数は筋弛緩薬投与後の時間tの対数に対して傾がの直線関係にあることが判明した.実際,ベクロニウムを投与した症例でlogit(E)≒log(t)+const.が成立することを確認した.また,これより得られた用量作用曲線の傾の値は血中濃度を測定して得られた値とよく一致していた.

 3.筋弛緩作用が回復する時の血中濃度推移式は消失相のみの単指数関数Cp(t)=で近似されると仮定して「作用回復モデル」を作成した.これを実際のべクロニウムの症例に適用した結果,消失相の速度定数は定数とはならず,作用持続時間の関数となったが,この関数は3指数関数の和としてあらわされる血中濃度推移式に任意の時点で引いた接線の傾をあらわしていることが示された.そして,ベクロニウムの投与量が多くて作用持続時間が十分長い場合に限られるが,「作用回復モデル」を用いて求めたの値は薬物の消失速度に一致することが確認された.

 4.「作用発現モデル」「作用回復モデル」を用いることにより,筋弛緩薬初回投与量と作用発現時間および作用持続時間の関係を定量的に予測することが可能となった.

 5.ベクロニウム反復投与時の初回投与量と追加投与量を変化させた時の作用持続時間の変化について,すでに報告されている血中濃度推移に関するデータを一部援用して解析した.これにより,初回投与後の作用持続時間と追加投与後の作用持続時間の関係が明らかになった.

 以上,本論文は筋弛緩薬の血中濃度を測定できない場合でも,筋弛緩モニターのデータを用いて,その薬物動態学(pharmacokinetics)と薬力学(pahrmacodynamics)を解析することが可能であることを示した.本研究は筋弛緩薬の血中濃度が測定できない場合でも,その薬物動態と作用動態の定量的解析を可能にする方法を開発し,筋弛緩薬の臨床薬理学に重要な貢献をなすと考えられ,学位の授与に値するものと考えられる.

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