学位論文要旨



No 213576
著者(漢字) 一ノ瀬,正樹
著者(英字)
著者(カナ) イチノセ,マサキ
標題(和) 人格知識論の生成 : ジョン・ロックの瞬間
標題(洋)
報告番号 213576
報告番号 乙13576
学位授与日 1997.11.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第13576号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松永,澄夫
 東京大学 教授 天野,正幸
 東京大学 教授 佐藤,康邦
 東京大学 名誉教授 杖下,隆英
 東北大学 教授 川本,隆史
内容要旨

 本論文の主題は、知識を判断や命題と捉えてその真偽を問題にするような通常の知識観とは全然別の見方、すなわち、知識をそれを持つ人格のあり方と捉えるような知識観に焦点を当てて、そうした知識観がジョン・ロックの哲学のなかに生成していた次第を見届けることである。

 さて、知識について論じる場合、まずは、人がそれを獲得する営みとは独立の、知識それ自体の持つ持続的構造を問題にする道筋がある。けれども、そうではなく、誰かがその知識を獲得する瞬間的な営みに注目するという道筋もある。この二つの道筋は、どちらか一方だけが正当なわけではなく、どちらも正当である。しかるに、後者の知識の瞬間性はあまりにも軽視されてきた。したがって、ぜひとも均衡が回復されねばならない。では、どのようにしたら知識の瞬間性を鮮明に浮かび上がらせることができるか。知識の瞬間性の意義からして当然考えられる一つの有力なやり方は、誰かが知識を獲得する行為あるいは実践に注目することであろう。このように捉えたとき、そうした実践に三つの位相があることに気づく。第一は、何かに対して疑問を抱き、解明していこうとする「努力探究」の行為であり、第二は、そうした努力探究を打ち止めにする「同意決定」の行為である。さらに、そうした努力探究や同意決定は全く単独に突然に可能となるのではなく、一定の社会的環境や制度という背景のもとではじめて成り立つことを鑑みるとき、第三の位相として、そうした社会的環境や制度に対して「暗黙の同意」を与える行為が浮かび上がる。かくして、知識を獲得する「誰か」とは、暗黙の同意によって社会に参入し、社会のなかに生きる存在、つまりは「人格」と呼ぶべき存在であることが了解されてくる。それゆえ、こうした仕方で捉えられる知識の瞬間的あり方は、「人格」との本来的連関のもとにあることからして、「人格知識」と呼称することができるであろう。

 私の見るところ、こうした人格知識の考え方はジョン・ロックの哲学のなかにその源泉を見いだすことができる。そのことはまず、自然法についての知識を扱った、ロックの最初期の著作『自然法論』において確認できよう。ロックは自然法を理性自身が宣言する永久の道徳規則と捉えるが、その内容には自在性・変化可能性があるとされる。しかしでは、どういう状況でどういう変化が許されるのか。ロックはこの点について、心の注意深い反省や集中という努力探究の契機をことのほか強調する。ロックは、自然法の知識を論じるとき、それに向かって探究する行為にこそ目を向けたのである。このことは、自然法の知識が知識一般の雛型である限り、ロックの知識論全体に妥当していくはずである。さらにロックは、『人間知性論』において経験論の立場を宣言するが、その足場となったのが生得説批判であった。この生得説批判の文脈において、知識とは、当人が実際に知っているもの、すなわち、当人がその内容を肯定し同意したものであることが明白に見取られる。そうした同意を機軸とする知識概念にとって、生得的知識というのは語義矛盾なのである。そして、こうした同意が究極的には同意者その人に責任が帰せられるところの一種の跳躍的な決定であること、知識は言語を介し、言語は他者との交流において成り立っていること、こうした点を踏まえるとき、努力探究と同意決定によって知識を獲得していく者とは、責任を担いながら社会的な交流のなかに生きる「人格」であることが理解されてくる。ここに「人格知識」の着想が流れているのは明らかだろう。しかも実際ロックは、知識を支える言語制度への「暗黙の同意」の契機にさえ明示的に触れているのである。

 こうしたロックの人格知識論を十全に理解するための本筋は、事柄からして、「人格」の概念そのものにあると言える。では、ロックは「人格」についてどのように考えていたか。ロックは『人間知性論』で「人格」の問題を扱うとき、二つの一見相対立する考え方を展開する。一つは、「人格」および「人格同一性」の概念を確立する根拠は「意識」にある、という考え方であり、もう一つは、「人格」とは「法廷用語」である、とする考え方である。前者の意識説に従えば、ある人の人格を確立させる最終的権威は当人の一人称的自覚にあることになるだろう。それに対し、後者の法廷用語説にのっとるならば、人格概念確立のための権威は、上告や棄却の概念と同様に、裁判官や陪審員による決定に代表される三人称的決定にあることになろう。こうした二つの考え方の間には一種の緊張関係が現れている。この場合、ロックの議論を整合的な考えとして理解するためには、二つのいずれかを基本的なものと捉え、他方をそれへと包摂させていかなければならない。では、意識説を基本に据えることができるだろうか。意識を一人称的なものと押さえる限り、法廷用語説と調和させることは絶望的であろう。しかも、一人称的次元から解される意識説には、循環性や推移律違反といった原理的難点がつきまとう。では、法廷用語説を基本にすることはできるだろうか。そうするためには、今度は、意識の概念を三人称次元で意味づけられるものと理解し直さなくてはならない。そんなことが可能だろうか。可能なのである。それどころか、「意識」の原義「ともに知る」を踏まえ、「意識」と「良心」との本来的同義性を考慮する限り、「意識」とは、当人はこう思うべきだ、と第三者が課すところに成立根拠があることが分かってくる。こうして、人格とは、第三者が、法廷的審議のような探究を経て、最後に断固として決定する、というその都度の瞬間的で切迫した実践において成り立つ概念であることが浮かび上がる。こうした次第は、人格概念の決定の是非を「神の善性」に訴える、というロックの議論に明らかに反映されている。もちろんしかし、こうした次第も、そうした三人称的決定を当人が最終的に一人称的に受け入れる、という契機を絶対に必要とする。かくして、人格とはわれわれ相互の呼応のなかで、あるいはそうした呼応として、現出してくる、という独自な考え方が姿をなしてくる。

 このようなロックの人格論は、『統治論』の議論と連携させることによって、人格知識論として捉え返される。そうした論立ての基盤となるのは、「人格に対する所有権」に基づくロックの所有権論である。ロックは「人格に対する所有権」を持つわれわれが何かに「労働」を混合するとき所有権が成立するとする。ここでロックの語る所有権とは、使用・消費権のみならず譲渡・交換権をも含む。してみれば、人格が所有権を語りうるものであるなら、人格も譲渡・交換されうることになるのだろうか。こうした考えは一見すると奇妙だが、所有権というものを、人格を構成する要素になること、言い換えれば、人格概念が相互的呼応のなかで出現してくるときの実践の内実になること、と押さえるならば、財物の譲渡・交換がそのまま人格の譲渡・交換として把握されることに気づく。しかるに、こうした人格と所有権との絡み合いは労働の混合によって確立するのであった。では、労働とは何か。ここで注意すべきは、自然法に由来するいわゆる「ロック的但し書き」である。ロックは、十分性限定と浪費制限という二つの「ロツク的但し書き」のもとでのみ労働の混合が所有権に結実するとした。そうであるなら、労働とは、究極的には、どういう行為が自然法にかなっているのか、を探究する営みにほかならないと考えるべきだろう。かくして、ここには、労働という探究を踏まえ、使用・消費や譲渡・交換という、所有権概念の意義を現にその都度決定してしまう実践、つまりは自然法の知識に向かう探究と決定の実践、において、いわば同時的に人格概念も確立する、という考え方の道筋が浮かび上がる。こうした道筋が『人間知性論』での人格論の具体化になっていることは疑いない。さらには、ロックの知識概念の意義と構造を思い起こすとき、以上の議論は知識獲得にも妥当することに気づく。つまり、知識とは、人格を構成する要素として、人格が所有する財にほかならない。人格知識論はここに生成していたのである。

 とはいえ、以上のような、自然法の知識へと収斂するべき本来の知識のあり方は、通常は、単に自然法への「暗黙の同意」として潜在しうるにすぎない。こうした次元での知識が、既述の、努力探究、同意決定、暗黙の同意、という三つの位相を持つ人格知識である。では、それを自然法への「明示の同意」として顕在化させ、人格の真に相互的で瞬間的なあり方をありありと現出せしめるのは何か。それは犯罪と刑罰の場面にほかならない。ロックは、刑罰権には制止権と賠償権の二つがあるとしたが、ロック刑罰論が所有権の「喪失」に基づいている限り、そうした喪失を実際に出現させるところの賠償権こそが刑罰概念の実質を形作っていることが分かる。そして、まさしく賠償こそ、自然法の知識に対してまざまざとした「明示の同意」を与える営みなのである。けれども、こうした賠償刑を科すことは、賠償請求者のほうこそ不当であるという反転の可能性をつねに包含する。そうした反転可能性のなかでの相互的な同意によってしか自然法への「明示は同意」は成り立ちえないのである。そしてロックは、こうした刑罰の緊迫したあり方を「天に訴える」と表現したのであった。かくして、「天に訴える」という切迫性・瞬間性のもとで、人格は「賠償しうる人格」としてその核心を顕わにし、人格知識の究極のあり方が出来するのである。

審査要旨

 学位請求論文『人格知識論の生成--ジョン・ロックの瞬間--』は、ロックの二大主著『人間知性論』と『統治論』の底に共通に流れる着想を解明し両者を結び付けようとしたロック哲学の研究書であり、同時に、ロック哲学に動機づけられた著者独自の哲学書でもあるという性格をもっている。本論文が目指したことは、知識というものは不断の努力と探究によって求められ、同意や決定への跳躍によって或る誰かのものとして獲得される事柄であり、そして、その誰かとはまさにこの知識獲得のプロセスを通じてそのつどに確立し、かつ変容してゆく人格であること、しかも、その人格は自己と他者との相互交流において第三者的契機を自らのうちに受け入れつつ出現し、同意と決定に伴う責任を社会の中で取る用意ができている、そのような実践的な存在であること、これらのことを明らかにすることである。

 論文は序章と三部十章から構成されている。「人格と知識の融合」を予め素描した序章のあと、第一部「知識論の構図」では、ロックによる生得概念説批判の検討を軸に、知識とは人が努力探究して自ら同意決定し所有するところに成立するもので、その成否すなわち真偽については最後の審判を受ける覚悟すら秘められた実践の事柄であることが論じられる。しかも、この作業はロックの自然法思想の内実の解明と連動させられ、自然法とは確定的な具体的な道徳法則を構成するものではなく、まさに自然法の内容を各人が刑罰を賭して努力探究するという実践統整の理念としてロックによって捉えられているという解釈が示される。

 第二部「人格概念の確立」は、人格同一性の成立に関するロック研究者達の様々の議論の検討を通して、実体、意識、記憶、身体、人称、良心、道徳性、幸福や悲惨、賞罰、瞬間と持続等の多様な概念群と突き合わせつつ人格概念を浮き彫りにしてゆく、実に魅力に満ちた論述となっている。とりわけ人格が語られる当人と、人格を法廷的に決定する第三者との関係の緊張的動的在りように照準を当てた議論は、人格が言われるための絶対的な基準など本来的にあり得ないこと、人格は生々しい実践の場面で揺れ動きながらそのつど出現してくること、瞬間には成らず、瞬間にて決さるものとしてあること、このことを見事に描ききっている。

 第三部「人格知識論の現出」では、労働と所有という相関する概念の解明が中心におかれ、或るものの所有権とはそのものが人格を構成する要素となるとき成立するというテーゼが打ち出される。著者は、戦争や刑罰といったインパクトのある事柄に目を向けつつ、人格知識の成立のプロセスは厳しい規範的なもの、強い緊張を人に要求するものであることを炙り出し、再び自然法の問題へとかえり、社会制度や慣習への暗黙もしくは明示的な同意や抵抗の問題、子供の人格をどう考えるか、相続をどう理解するか、死刑制度はどう評価されるべきかなどの問題、更には知的所有権の意義など、いずれも実際的で今日的でもある広範な事柄に、著者の考察成果が光を投げかけるものであることをよく示して論を結んでいる。

 論文は、ロック研究書としては、これまでロックにおける不整合として考えられてきた様々なロックの主張が、実はロックの着想の底にあるものへと目を向ければむしろロックの実り豊かな一貫した思索の諸表現であると読めることを示した点に功績があり、他方、著者独自の哲学的主張をもった論文としても充実した内容に富んだものである。もちろん、ロック研究の側面ではロックの認識論的側面に関する議論には物足りなさがあるなど、難点はある。しかしながら、本論文は、ロック研究はもとより、知識と道徳、個人と社会とを結ぶ接点を人格の概念に求めようとするたぐいのこれからなされるどの研究にとっても不可欠の参照文献となることは必定で、博士(文学)の論文として妥当であると判断する。

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