本論文は、狂言の作品の形成され方と現在までの展開を跡づけることによって狂言の歴史を究明しようとするものである。従来狂言の歴史は、流派の消長や役者の系譜などに沿って述べられることが多かったのだが、作品そのものを考察することが日本文芸史の上に位置づけるためには必要である。そこで本論文では、狂言の作品個々の、室町時代における形成、江戸時代における定着と展開、明治維新期における変化を、残された台本に即して明らかにし、狂言を作った人々、演じ続けてきた役者たちの、作品にこめた思いを明らかにする。「狂言の形成と展開」と名付けたゆえんである。 序「狂言の歴史と作品」では、考察の前提を狂言全般にわたって概括的に述べる。一「狂言の歴史」では、前史から現在にいたるまでの歴史を概説し、流派の消長や台本のあり方を述べる。二「狂言の作品」では、登場人物の類型とそれによる分類を示し、現在行われる二百六十余曲のおおよその内容を述べる。三「狂言の笑い」では、その中でも有名な<神鳴><菌>の二曲を取り上げ、それらがよく知られた伝説や説話の類から形成されたこと、また狂言の笑いの特質が和楽にあったことを明らかにする。 I「狂言の成立」では、狂言という芸能の成立事情を考察する。一「<公家人疲労ノ事>の狂言をめぐって」で、狂言上演の初出資料である『看聞日記』応永三一年三月一一日条に記された<公家人疲労ノ事>が、鎌倉時代の素人の猿楽における劇的物真似の系譜を引くものであったと位置づけ、二「成立期の能と狂言」で、観阿弥がかかわった古作の能に能と狂言の未分化の要素が認められることを示し、それらを踏まえて、三「狂言の成立」で、狂言が南北朝時代に、歌舞劇としての能が成立するとともに、本来の古猿楽の要素が分化して成立したものであるとする。能・狂言を同根とする旧説を作品に即して考察することで支持するものである。 II「狂言の形成-天正狂言本を中心に-」では、現存する台本の中で最古本である「天正狂言本」を主たる資料として、分類ごとに、各類がどのように形成されたのかを明らかにし、また江戸以降の諸台本と内容を比較することによって、形成期の狂言の特質、そこに表れる中世性を究明する。 一「天正狂言本の出家狂言・座頭狂言」で、出家狂言・座頭狂言に登場する出家・盲人の扱いが天正狂言本では旅の者と定住者によって相違することに着目し、旅の出家が好意的に描かれ、定住する出家や高位にある盲人が嘲弄されることから、狂言の作り手が漂泊の芸能者であったことを考え、二「天正狂言本の主従狂言」で、その漂泊の芸能者が在地の代表的な人物である大名と太郎冠者の主従とどのように関わっていったかを考察し、芸能者がすっぱなどとして外側から関わるものから、太郎冠者として在地に入り込んでいくまでになることを考えて、合せて狂言に漂泊の芸能者の抵抗の思いがこめられていることを明らかにする。そして三「天正狂言本の女狂言・雑狂言」で、在地の夫婦を描く女狂言や職人たちを登場させる雑狂言を取り上げ、それらが主従狂言や争い物の型を応用し変形することで作られてきたことを明らかにし、四「福神狂言の形成と展開」で、福神の登場する狂言を連歌を福神出現の契機とするものとしないものに分けることができること、漂泊の芸能者が都市向けの祝言として持ったものであることを明らかにする。 五「天正本狂言の時代-天正狂言本と『閑吟集』-」では、主たる資料としている天正狂言本に収められた台本の時代について考察する。『閑吟集』所収の小歌との前後関係を検討することから、その内容が『閑吟集』の小歌が流行した時代より先行することを明らかにし、室町末期に行われていた狂言の姿を伝えるものとする。 六「天正本狂言<近衛殿の申状>をめぐって」では、天正狂言本にしかない<近衛殿の申状>を取り上げ、近衛家領の糸の庄の庄民が庄園を管理する武家代官左衛門尉の非法を領主である近衛殿に訴え、代官の更迭を勝ち取るというものであったことを明らかにし、「庄家の一揆」の現実を反映するものとし、また類話と比較することで、狂言が農民の力を強調していることを明らかにする。それを踏まえて、七「百姓狂言の形成」で、従来為政者に対する祝言とされてきた百姓狂言を、領主への直納、公事の免除を描くものとし、農民の側に立ったものであったことを明らかにする。 八「中世の身分制と狂言」で、以上の考察を総合し、狂言の登場人物の室町時代の現実の身分との対応を考えた上で、天正狂言本所収の狂言が侍身分の者を嘲弄し、百姓・下人・非人身分の者を厚遇するという立場で貫かれていることを明らかにし、狂言に広く非支配身分の者たちの支配身分の者たちへの抵抗がこめられているとする。 III「狂言の展開-狂言の各曲-」では、個々の作品を取り上げ、一作品ごとにその形成と展開を考察するが、全体として主に近世以後の展開を跡づけることになる。 一「<月見座頭>の形成と展開」では、<月見座頭>が現行曲の中では最も遅く、江戸末期に作られたことを明らかにする。盲人の月見という設定を持つこの狂言が、鷺流の役者によってまず盲人の花見を扱った<花見座頭>から作られ、それが大蔵流に取り込まれたが、鷺流では従来の座頭狂言の枠内に収まっており、大蔵流で新しい価値が加えられたものとし、鷺流が近代を生き延びられず消滅にいたる内的原因を究明する。 二「<船渡聟>の展開」では、大蔵流と和泉・鷺両流とで大きく相違する<船渡聟>を取り上げ、大蔵流が類型にのっとった作劇を行っており、和泉・鷺両流が「町風の狂言」であったとする。また鷺流の享保保教本の注記に見える南都禰宜流の演出を紹介し、それも「町風」であったことを明らかにする。四「<木六駄>の形成と展開」では、<木六駄>が牛追いの芸を中心に構想されたものであり、本来和泉流固有曲であったことを明らかにする。そして江戸後期に大蔵・鷺両流に取り込まれたが、大蔵流でも江戸と京都・大坂では内容が相違しており、京都・大坂の大蔵流が「町風」に近かったとする。五「<蝸牛>の形成と展開」でも、<蝸牛>が本来和泉流固有曲であり、京都で歌われていた子供の遊び唄を取り込んだものであることを明らかにし、六「<御茶の水>とく水汲新発意>-その形成と展開-」では、和泉流とその他で大きく相違する<御茶の水(水汲新発意)>を取り上げ、その中で謡われる歌謡について考察し、小歌をふんだんに取り込んだ和泉流が江戸大蔵流以外の「町風の狂言」の中でも、その名にふさわしいものとする。 三「<佐渡狐>の形成と展開」では、百姓狂言の特異曲<佐渡狐>が本来狂言記系の役者が持っていた狂言であったとし、その後の諸流の取り込みと工夫を考察し、九「独狂言をめぐって」は、一人で演ずる独狂言の全曲を取り上げてその形成を論ずるが、代表的な独狂言<見物左衛門-深草祭>はやはり本来狂言記固有曲であり、狂言記の台本を持っていた役者たちが和泉流に近い「町風の狂言」であること、また後に他流で版本を利用して演ずることもあったことを明らかにする。一三「<鹿狩>の形成と展開」でも、<鹿狩>が狂言記固有曲であり、その後大蔵・和泉両流に取り込まれたことを考察し、またその中心となる殺生に関する問答の出典を明らかにし、僧侶が関与した可能性を考える。 以上、作品に即して各流派の特色を考察するものであり、江戸大蔵流とその他の「町風の狂言」を区別できるものとし、「町風」の中での和泉流や狂言記系それぞれの特色を明らかにし、また大蔵流が「町風」を取り込むことで、維新期の危機を乗り越えたことを明らかにするものである。 七と八は享保保教本を資料とした廃曲の考察で、七「<鷺>という狂言と鷺流」では、<鷺>という狂言があったこと、そしてそれが鷺流の流派名の由来に関わることを検討し、また八「<家童子>という狂言と吉田喜太郎」では、<家童子>が江戸中期に大蔵流の吉田喜太郎によって作られた、作者名のわかる珍しい例だとする。一四「<花子>の歌謡をめぐって」は、鷺流の宝暦名女川本によって、鷺流の<花子>の歌謡の古い形を検討し、その独自性を考えるものである。 その他は個々の狂言の形成についての考察であり、一〇「<鐘の音>の形成-間狂言から本狂言へ-」では、<鐘の音>の鐘つきの演技を検討することから、能<三井寺>の間狂言から形成されたことを明らかにする。一一「<文蔵>の語り」では、不奉公物<文蔵>の形成の因となった石橋山合戦の語りが源平合戦の語りを取り込んだものであることを明らかにする。一二「<土筆>の形成-狂言と連歌師-」では、<土筆>が連歌師たちが持っていた「連歌咄」から形成されたことを明らかにする。 付録の「中世狂言史年表」は、江戸時代以前、中世の日記・記録・伝書・文学作品などに現れる狂言や狂言役者にかかわる資料を集め、年表化したものである。従来「芸能史年表」「能楽史年表」の類で付随的に扱われていたものであり、網羅を心がけた。狂言の歴史を考える上での基礎資料であり、I「狂言の成立」II「狂言の形成」の考察と関わるものである。 |