学位論文要旨



No 213582
著者(漢字) 陳,楊
著者(英字)
著者(カナ) チン,ヤン
標題(和) 嘔吐反応機構に対するエタノールの作用
標題(洋)
報告番号 213582
報告番号 乙13582
学位授与日 1997.11.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第13582号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 齋藤,洋
 東京大学 教授 長尾,拓
 東京大学 教授 井上,圭三
 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 助教授 松本,則夫
内容要旨

 エタノールは生体に対してさまざまな作用を及ぼし、大量に摂取しすぎると悪心・嘔吐を来すこともよく知られている。しかし、エタノールの催吐作用を実験科学的に検討した研究は全く報告されていない。一方アルコールの長期連用によりシスプラチンなど抗癌剤による嘔吐反応が低下することが知られている。従って、嘔吐反応に対するエタノールの作用を解明することは嘔吐反応機構の解明だけでなく、臨床的にも重要であると考えて本研究を行った。

1.エタノール誘発嘔吐および催吐作用点の確認

 エタノールの嘔吐誘発作用及びその作用点をまず検討した。経口と腹腔内と皮下投与の容量は4ml/kgに固定し、投与後に嘔吐反応を90分間観察した。エタノールの経口と腹腔内投与により、用量依存的な嘔吐が誘発され、そのED50値は24.6%と22.3%(v/v)であった。40%のエタノールは全ての動物に嘔吐を引き起こし、平均嘔吐潜時は13分、嘔吐回数は11回、嘔吐持続期間は33.4分間であった(表1)。しかし、皮下投与でははっきりとした用量依存性は認められなかった。側脳室内投与では、鎮静作用が観察されたが、嘔吐は全く発現しなかった。以上の結果により、エタノールの嘔吐誘発作用を初めて実験科学的に示すことができた。エタノールは消化管からよく吸収され、血液脳関門も容易に通過できるので、中枢への作用が予想されたが、作用点が末梢であることが示唆された。

表1 スンクスにおけるエタノール腹腔内投与による誘発嘔吐
2.エタノールによる嘔吐誘発機構の解析

 長期飲酒者においては癌化学療法に伴う悪心・嘔吐が軽微であること、また、シスプラチンの嘔吐誘発作用点も末梢であることから、エタノールはシスプラチンと同様な機構で嘔吐を引き起こし、アルコール依存症患者のシスプラチン耐性は同一機構の脱感作によることが考えられた。シスプラチン誘発嘔吐が、迷走神経切断や5-HT3受容体拮抗薬と抗酸化剤の前投与により、完全に遮断される。そこで、これらの処置のエタノール誘発嘔吐に対する作用について検討を行った。5-HT3受容体拮抗薬zacoprideまたはtropisetronを1mg/kgの用量で30分前に皮下投与しておくことにより、シスプラチン誘発嘔吐は完全に抑制されたが、エタノールによる嘔吐は全く抑えられなかった。食道下部での迷走神経切断もエタノール誘発嘔吐に対しては無効であった。抗酸化剤であるN-(2-mercaptopropionyl)-glycine(MPG)またはpromethazineの前投与により、エタノール誘発嘔吐が用量依存的に抑えられ、それぞれのID50値は150と9.2mg/kgであった(表2)。セロトニンが腸管のクロム親和細胞から遊離され、求心性迷走神経上の5-HT3受容体に作用することがシスプラチン誘発嘔吐機構と考えられている。しかし、エタノール誘発嘔吐機構は異なることが明らかになった。当教室の研究からシスプラチン誘発嘔吐にフリーラジカルが関与することが示唆されている。抗酸化剤が制吐効果を示したので、エタノール誘発嘔吐にもフリーラジカル産生が関与している可能性が考えられる。

表2 エタノール誘発嘔吐に対する抗酸化剤の作用

 エタノール誘発嘔吐に対する5-HT1A受容体作動薬8-hydroxy-2-(di-n-propylamino)tetrarin hydrobromide(8-OH-DPAT)とNK-1受容体拮抗薬(+)-(2S,3S)-3-(2-methoxybenzylamino)-2-phenyl-piperidine(CP-99,994)の作用を検討したところ、8-OH-DPATの30分前に皮下投与により用量依存的にエタノール誘発嘔吐が抑制され、ID50値は0.4mg/kgであった。10mg/kg CP-99,994を15分前に皮下投与することにより、5例中に4例の嘔吐が完全に抑えられ、残りの1例も1回しか嘔吐しなかった。5-HT1A受容体作動薬やNK-1受容体拮抗薬はさまざまな催吐刺激に有効なため、脳幹に作用して嘔吐反応そのものを抑制すると考えられている。今回の結果もこの考えを支持する。

3.エタノールの代謝物であるアセトアルデヒドの催吐作用

 エタノールの初級代謝は胃と肝臓で速やかに行われることがよく知られている。そこで、エタノール代謝物の催吐性を検討した。4ml/kgの容量でアセトアルデヒドを腹腔内または皮下投与すると、いずれの場合も用量依存的な嘔吐が誘発され、ED50値は両方とも3.5%(v/v)であった。6%の用量で腹腔内投与が起こす嘔吐の平均潜時は1.0分、嘔吐回数は3.2回、嘔吐持続期間は1.2分間で(表3)、皮下投与の誘発嘔吐の平均潜時は2.6分、嘔吐回数は6.2回、嘔吐持続期間は3.4分間であった。側脳室内投与はエタノールと同様に嘔吐を引き起こさなかった。エタノール制吐作用を示した抗酸化剤MPGのアセトアルデヒド誘発嘔吐に対する影響についても検討を行った。MPGの前投与はアセトアルデヒド誘発嘔吐を用量依存的に抑制し、ID50値は340mg/kgであった。以上の結果をまとめると、エタノール誘発嘔吐と比べた場合は、アセトアルデヒドの有効用量が小さく、誘発潜時が短いこと、抗酸化剤MPGがアセトアルデヒド誘発嘔吐を遮断したことから、エタノールはアセトアルデヒドに代謝されて嘔吐を引き起こすことが考えられた。

表3 アセトアルデヒドの腹腔内投与による嘔吐反応
4.エタノール誘発嘔吐に関与する中枢神経回路の解析

 c-Fos蛋白質の発現を神経細胞活動の指標として、免疫組織化学の手法を用いて、エタノール誘発嘔吐に関与する神経核の解明を試みた。まず、マウスの脳を用いて、エタノール刺激を与えてからc-Fos蛋白質の発現に要する時間を調べた。40%エタノールを4ml/kgの容量で腹腔内に投与したところ、鎮静作用が現れたが、嘔吐は全く観察されなかった。孤束核において顕著なc-Fos発現の増加が認められ、エタノール投与1時間後にc-Fos陽性神経細胞数は14.7%になり、2時間後には30.2%に達した。延髄最後野においては、対照群と比べて、全体的に薄く染まったが、孤束核のようにはっきり陽性と認められる神経細胞が少なかった。次に、スンクスの脳においても同様に検討した。エタノール投与2時間後では、スンクスの孤束核及び背側迷走神経運動核において、顕著なc-Fos発現の増加が認められ、それぞれのc-Fos陽性神経細胞数は31.7%と31.0%になっていた(図1)。延髄最後野においては対照群と同程度の発現であり、変化は認められなかった。以上の結果により、エタノールの腹腔内投与はスンクスの孤束核と背側迷走神経運動核中の神経活動を促進したと考えられた。同様の結果はシスプラチン投与や動揺病でも観察されており、嘔吐反応におけるこれらの神経核の重要性が示唆された。

図1 スンクスの最後野(AP),孤束核(NTS),背側迷走神経運動核(DMV)におけるc-Fos蛋白質陽性神経細胞数
5.エタノールの制吐作用

 エタノールの催吐作用点も末梢であることが示唆されたが、シスプラチンとは異なり、アルコール依存症患者のシスプラチン嘔吐耐性は同一催吐機構の脱感作では説明できなかった。しかし、エタノールが催吐作用だけでなく、鎮吐作用をもつ可能性が考えられた。ネコにおいてエタノールの脳室内投与が制吐作用をもつことが報告されている。3l,40%エタノールの側脳室内前投与により、ニコチンの側脳室内投与、エタノールの腹腔内投与、及びアセトアルデヒドの腹腔内投与による嘔吐が抑制された。しかし、ニコチンの皮下投与とシスプラチンの腹腔内投与で誘発された嘔吐に対しては無効であった。更に、3l,6%アセトアルデヒドの側脳室内投与も同様の鎮吐作用を示した。以上の結果によって、中枢神経系に直接作用させた場合には、エタノール及びアセトアルデヒドは嘔吐を抑制することが明らかになった。しかし、全ての嘔吐刺激に対して有効ではなかった。また、皮下投与したニコチンと脳室内投与したニコチンに対する作用が異なったことから、ニコチンの催吐作用が投与経路により異なることが示唆された。

 エタノールを脳室内に急性適用した場合に鎮吐作用を示すことが明らかになったが、シスプラチン誘発嘔吐に対しては無効であった。そこで、エタノールを長期間投与した場合の制吐作用について検討した。まず、エタノールを3日間に亙って投与し、4日目にシスプラチンを投与した。エタノールの連続投与により、エタノールによる嘔吐の発生率が減少し続けたが、シスプラチン誘発嘔吐に対しては影響しなかった。次に、エタノールをさらに長期間投与した場合の作用を検討した。0.1%のエタノールを含む水を1週間、続いて1%含有の水を3週間飲ませた場合には、シスプラチン及びエタノール誘発の嘔吐は対照群と比べ、有意な嘔吐回数の減少が認められた(図2)。以上の結果より、シスプラチンに対する制吐作用はエタノールの長期連続投与によることが示唆された。

図2 シスプラチン誘発嘔吐に対するエタノール長期投与の影響
6.総括

 エタノールは催吐と制吐の両方の作用をもつことを明らかにした。催吐作用の機序として、アセトアルデヒドに代謝され、末梢に作用することが示唆された。またその過程のどこかでフリーラジカルが関与することが考えられた。これは従来知られている催吐薬の機序とは異なる。また、エタノールは中枢神経系に対して制吐作用をもつことも示した。制吐作用は強力ではなかったが、シスプラチン誘発嘔吐に対する制吐作用はエタノールを長期間投与することで顕著になった。アルコール依存症患者の嘔吐反応低下は、アルコールへの長期曝露による制吐作用が原因であることを初めて明らかにした。しかし、詳しい機序の解析は今後の課題である。嘔吐反応に対するエタノールの作用をさらに解明することによって、嘔吐機構の解明や鎮吐薬の開発が促進されることが期待される。

審査要旨

 エタノールは生体に対してさまざまな作用を及ぼし、大量に摂取しすぎると悪心・嘔吐を来すこともよく知られている。しかし、エタノールの催吐作用を実験科学的に検討した研究は全く報告されていない。一方アルコールの長期連用によりシスプラチンなど抗癌剤による嘔吐反応が低下することが知られている。従って、嘔吐反応に対するエタノールの作用を解明することは臨床的にも重要である。

 エタノールの嘔吐誘発作用及びその作用点を検討したところ、経口と腹腔内投与により、スンクスに用量依存的な嘔吐が誘発されたが、側脳室内投与では、嘔吐は全く発現しなかった。エタノールの嘔吐誘発作用を初めて実験科学的に示した研究であり、作用点が末梢であることが示唆された。

 長期飲酒者においては癌化学療法に伴う悪心・嘔吐が軽微であること、また、シスプラチンの嘔吐誘発作用点も末梢であることから、エタノールはシスプラチンと同様な機構で嘔吐を引き起こし、アルコール依存症患者のシスプラチン耐性は同一機構の脱感作によることが考えられた。しかし、迷走神経切断や5-HT3受容体拮抗薬の前投与ではシスプラチン誘発嘔吐は完全に抑制されるが、エタノールによる嘔吐は全く抑えられないことが明らかになった。従って、エタノールはシスプラチンとは異なる機構で嘔吐を誘発することが明らかになった。抗酸化剤がエタノール誘発嘔吐を抑制したので、エタノール誘発嘔吐にもフリーラジカル産生が関与している可能性が考えられる。5-HT1A受容体作動薬やNK-1受容体拮抗薬はさまざまな催吐刺激に有効なため、脳幹に作用して嘔吐反応そのものを抑制すると考えられる。5-HT1A受容体作動薬やNK-1受容体拮抗薬がエタノール嘔吐を抑制したので、この考えがさらに支持された。エタノール代謝物の催吐性を検討したところ、エタノール誘発嘔吐より、アセトアルデヒドの有効用量が小さく、誘発潜時が短いこと、抗酸化剤MPGがアセトアルデヒド誘発嘔吐を遮断したことから、エタノールはアセトアルデヒドに代謝されて嘔吐を引き起こすことが示唆された。

 c-Fos蛋白質の発現を神経細胞活動の指標として、免疫組織化学的手法を用いて、エタノール誘発嘔吐に関与する神経核の解明を試みた。マウスでは、エタノールの腹腔内投与により、嘔吐は全く観察されなかったが、孤束核において顕著なc-Fos発現の増加が認められた。スンクスの脳においても同様に検討したところ、エタノールは孤束核及び背側迷走神経運動核において、c-Fos発現を顕著に促進することが認められた。嘔吐反応における孤束核と背側迷走神経運動核の重要性が示唆された。

 次にエタノールの鎮吐作用を検討した。エタノールの側脳室内前投与により、ニコチンの側脳室内投与、エタノールの腹腔内投与、及びアセトアルデヒドの腹腔内投与による嘔吐が抑制された。しかし、ニコチンの皮下投与とシスプラチンの腹腔内投与で誘発された嘔吐に対しては無効であった。アセトアルデヒドの側脳室内投与も同様の鎮吐作用を示した。従って、中枢神経系に直接作用させた場合には、エタノール及びアセトアルデヒドは一部の嘔吐を抑制することが明らかになった。次にエタノールを長期間投与した場合の制吐作用について検討した。エタノールの3日間連続投与により、エタノールによる嘔吐の発生率が減少し続けたが、シスプラチン誘発嘔吐に対しては影響しなかった。しかし、投与期間を4週間に延長することにより、シスプラチン及びエタノール誘発嘔吐は対照群と比べ、有意な嘔吐回数の減少が認められた。その結果により、シスプラチンに対する制吐作用はエタノールの長期連続投与によることが示唆された。

 本研究により、エタノールは催吐と制吐の両方の作用をもつことが明らかにされた。催吐作用の機序として、アセトアルデヒドに代謝され、末梢に作用することが示唆された。またその過程のどこかでフリーラジカルが関与することが考えられた。これは従来知られている催吐薬の機序とは異なる。また、エタノールは中枢神経系に対して制吐作用をもつことも示した。制吐作用は強力ではなかったが、シスプラチン誘発嘔吐に対する制吐作用はエタノールを長期間投与することで顕著になった。アルコール依存症患者の嘔吐反応低下は、アルコールへの長期曝露による制吐作用が原因であることを初めて明らかにした。しかし、詳しい機序の解析は今後の課題である。嘔吐反応に対するエタノールの作用をさらに解明することによって、嘔吐機構の解明や鎮吐薬の開発が促進されることが期待される。

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