学位論文要旨



No 213587
著者(漢字) 大平,美紀
著者(英字)
著者(カナ) オオヒラ,ミキ
標題(和) ヒト21番染色体ダウン症関連領域のゲノム解析
標題(洋)
報告番号 213587
報告番号 乙13587
学位授与日 1997.11.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第13587号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 池田,日出男
 東京大学 教授 井上,圭三
 東京大学 教授 名取,俊二
 東京大学 教授 武藤,誠
 東京大学 助教授 岩坪,威
内容要旨 〈序〉

 21番染色体はヒトで最小の染色体であることから、ゲノム解析のモデルケースとして早くから解析されてきた。この染色体には家族性アルツハイマー病、急性骨髄性白血病、筋萎縮性側索硬化症などの疾患の原因遺伝子が存在することが知られているが、昨今のゲノム解析技術の進展により、これらはつぎつぎに同定されている。しかし、21番染色体が関わる疾患で最も古くから知られているダウン症は、未だにその原因遺伝子が同定されていない。ダウン症は21番染色体のトリソミーによってひきおこされ、患者は特異的な顔貌や身体的特徴を持ち、精神遅滞、先天性心奇形、アルツハイマー病様痴呆のほか、消化管奇形、泌尿生殖器の発育不良、免疫系機能低下、中枢神経系の形成不全など複雑な症状を示す。この病気は遺伝子変異により発症する他の疾患とは異なり塩基配列からの原因遺伝子の特定は不可能であり、また複数の遺伝子の関与が考えられるため、発症のメカニズムの解明は非常に困難である。ダウン症解明への唯一の手掛かりとして、染色体転座などにより21番染色体が部分的にトリソミーとなって発症した患者がごく稀にいることが知られており、これらの患者の症状をトリソミーとなっている染色体領域と対応させることにより、各症状に関連する染色体領域を限定する試みがなされてきた。現在までのところ他の領域の関与の可能性もあるものの、ダウン症の主要な症状(特異的顔貌、精神遅滞など)には21番染色体q22.2領域のマーカーD21S17からERGまでの約2.5Mbの領域が関連するといわれており、発症機構の解明のためにはこの領域にある遺伝子を全て同定し、それぞれのダウン症との関連性を検討していくというアプローチが最も有効であると考えられている。本研究ではダウン症原因遺伝子の同定を目指し、日本人部分トリソミー家系の解析と上記のダウン症関連領域の物理地図の作成、及びその領域に含まれる遺伝子の探索を行った。

〈部分トリソミーをもつ日本人ダウン症家系の解析〉

 部分トリソミーにより発症したダウン症患者を4人もつ日本人家系が知られている。患者は正常な4番染色体の代わりにt(4;21)(q35;q22)転座を起こした4番派生染色体を1本持つために、21番染色体のq22からテロメア側の領域が部分トリソミーとなっている。この家系のt(4;21)転座切断点を既に作成されている21番染色体長腕のNotI制限酵素地図上にマッピングするため、患者の父親(t(4;21)相互転座を起こしている)のゲノムDNAをNotIで消化し、21q22領域のプローブを用いてサザン解析を行った。その結果、NotI切断部位LL233とLB23Tの間にあるプローブにより転座による再構成バンドが検出され、この領域内にt(4;21)転座切断点があることが判明した。そこで、これまで提唱されてきたダウン症関連領域D21S17-ERGと、日本人家系で部分トリソミーとなったNotI切断部位LL233よりテロメア側の領域との重複部分である1.6Mbの領域について、詳細な解析を行うことにした。

〈1.6Mbダウン症関連領域の物理地図作成〉

 21番染色体長腕についてはYACクローンによるコンティグ(整列クローン)が作られているが、YACクローンの不安定性やYAC地図の正確さに問題があるため、そのまま使用することはできなかった。そこでクローンが安定で、よりサイズの小さいクローニング系(インサートサイズ約95kb)であるP1ベクター系を用いて21番染色体長腕特異的なゲノミックライブラリーを作製し、1.6Mb領域のコンティグ作製を行った。効率よくコンティグ作製を行うため、まずYAC地図のSTSマーカーをNotI制限酵素地図にマッピングすることにより正しい順序に並べ直し、YAC地図を修正した。次に目的領域のマーカーやYACクローンをプローブに用いてP1クローンをスクリーニングするとともにウォーキングを行い、56個のP1クローンから成る1.6Mb領域をほぼカバーするP1コンティグを作製した。また、各P1クローンのBam HI制限酵素地図を作成することにより、この領域全体の詳細なBam HI制限酵素地図も作成した。

〈1.6Mbダウン症関連領域の遺伝子の同定と完全長cDNAの単離〉

 次に1.6Mb領域について遺伝子の探索を行った。この領域のP1クローンを直接プローブとして用いてcDNAライブラリーのスクリーニングを行う方法(direct cDNA library screening)とエキソントラッピング法を行った。前者の方法ではヒト胎児の脳と心臓のcDNAライブラリーを用い、合わせて97個のcDNA断片を得た。また後者では100個のエキソン候補断片を単離した。これらはP1のBam HI制限酵素地図にマッピングすることによって由来を確認したのち内部の塩基配列を決定した。この塩基配列から互いの相同性を検索した結果、最終的に16種のcDNAクローンのグループと44種のエキソン候補断片に集約された。これらをノザン解析により各組織での発現を調べ、DNAデータベースに対して類似性を検索したところ、5つの遺伝子が同定された。これらの遺伝子の構造を調べるため、他のcDNAライブラリーやRACE法を用いてそれぞれのほぼ完全長のcDNAを単離し、塩基配列を決定した。

 さらに遺伝子のゲノム上での分布と転写方向を決定した。完全長cDNAを1.6Mb領域のBam HI制限酵素地図にハイブリダイゼーションによりマップしたところ、5つの遺伝子は約70kb-300kb(平均120-150kb)もの範囲にわたって分布しており、現在までに報告された他の染色体領域(20-50kbに一つの遺伝子)と比較すると、この領域に存在する遺伝子の数は少ないことが予想された。

 単離した5つの遺伝子のうち2つは既知の遺伝子であり、HCS(holo carboxylase synthetase)とGIRK2(Gprotein coupled inward rectifier K+channel 2)であった。また、1つはDrosophia minibrain遺伝子のヒトホモログMNBであった。そして残る2つは新規の遺伝子で、TPRD(a gene containing tetratricopeptide repeat motifs in the Down syndrome region)とIRKK(inward rectifier K+channel from kidney)と名付けた。

 TPRDは34アミノ酸を単位としたリピート配列からなるTPRドメインを持つ新規の遺伝子で、この産物は数箇所の膜貫通ドメインをもち全体的に親水性であることが予想された。ダウン症との関連性は不明だが、TPRドメインがさまざまな蛋白質において蛋白質間の相互作用の場になっていることから、TPRDも他の何らかのタンパク質と連関して機能を果たしていることが想像される。

 MNBはDrosophiaのセリン/スレオニンキナーゼであるminibrain(mnb)遺伝子のヒトホモログである。mnbがDrosophiaの初期発生において脳の正常な形成に必須なことから、ヒトのダウン症でみられる精神遅滞やその他の中枢神経欠損に関連している可能性があり、5つの遺伝子のうち最も興味深いダウン症の候補遺伝子であると考えられた。

 GIRK2と新規遺伝子IRKKは内向き整流性タイプのカリウムチャネルである。マウスでのGIRK2の変異が神経疾患であるweaverの原因となることから、GIRK2はダウン症の中枢神経系の発達不全などに関連する可能性がある。また、IRKKは塩基配列や組織での発現パターンから、GIRK2とは異なった組織(腎臓や肺など)で機能を果たしていることが予想され、ダウン症の症状では腎臓の形成不全などに関与する可能性が考えられる。

 HCSはビオチン依存性カルボキシラーゼのビオチン化を触媒する。この遺伝子は日本人部分トリソミー家系の転座切断点をまたいで存在することから、少なくとも日本人家系では3コピーになっておらず、そのダウン症状には関連しない可能性が高い。

 また、今までに報告された2.5Mbダウン症関連領域内の遺伝子のなかでSIM2(single-minded gene 2)はDrosophiaで胎児期の中枢神経系の発達に関連する遺伝子であり、ダウン症の候補遺伝子として注目されているが、これをゲノム上にマッピングしたところ1.6Mb領域の外であり、少なくとも日本人ダウン症家系には関与しないことがわかった。

〈まとめ〉

 本研究では部分トリソミーを持つダウン症家系の解析を行うことにより、これまで提唱されていた2.5Mbのダウン症関連領域を1.6Mbに限定し、この領域についてP1による詳細な物理地図を作成した。また、この領域から5つの遺伝子を同定し、1.6Mb領域の遺伝子地図を作成した。これらの遺伝子のうちMNB遺伝子は初期発生時の中枢神経系の発達に関与する可能性があり、ダウン症の精神遅滞などへの関連性が予想される。本研究で単離した完全長cDNAは、通常の機能解析だけでなく、トランスジェニックマウスやターゲッティングマウスの作製など個体レベルの研究にも適用できる。従って、本研究によって、2.5Mbダウン症関連領域からダウン症原因遺伝子を同定するための基礎は、ほぼ整ったと考えられる。

審査要旨

 ダウン症は21番染色体のトリソミーによってひきおこされ、患者は、精神遅滞、先天性心奇形、アルツハイマー病様痴呆など様々な症状を示すことが知られている。近年、部分トリソミー患者の解析から、ダウン症の主要な症状に21番染色体q22.2領域の約2.5Mbの領域が関連することが示唆された。この領域はダウン症関連領域とよばれている。ダウン症はその症状の複雑さから複数の遺伝子の関与が予想され、また、遺伝子変異による他の疾患とは異なりトリソミーでひきおこされるため、塩基配列からの原因遺伝子の特定は不可能である。このことから、原因遺伝子の同定のためにはダウン症関連領域にある遺伝子を全て同定し、それぞれのダウン症との関連性を検討していくというアプローチが最も有効であると考えられた。

 本研究では、ゲノム解析の手法を用いてダウン症関連領域の物理地図及び遺伝子地図の作成を行った。まず、日本人の部分トリソミー家系の解析を行った。患者は、t(4;21)(q35;q22)転座による4番派生染色体を1本持つために、21番染色体のq22からテロメア側の領域が部分トリソミーとなっている。この家系のt(4;21)転座切断点を21番染色体のNotI制限酵素地図にマッピングした結果、2.5Mbのダウン症関連領域を1.6Mbに限定することができた。そこで、この1.6Mb領域について詳細な物理地図の作成を行った。クローニング系としてP1ベクターを用いて21番染色体長腕特異的なゲノミックライブラリーを作製し、1.6Mb領域をほぼカバーするP1コンティグを作製した。また、各P1クローンのBam HI制限酵素地図を作成することにより、この領域全体の詳細なBam HI制限酵素地図も作成した。

 次に遺伝子の探索のため、P1クローンを用いたcDNAライブラリーのスクリーニングとエキソントラッピングを行った。ヒト胎児の脳と心臓のcDNAライブラリーから97個のcDNA断片と、100個のエキソン候補断片を単離し、これらの塩基配列を決定した。ノザン解析とDNAデータベースに対する類似性検索の結果、5つの遺伝子が同定された。これらの遺伝子について、他のcDNAライブラリーやRACE法を用いてほぼ完全長のcDNAを単離し、全塩基配列を決定した。さらに遺伝子のゲノム上での分布と転写方向を決定し遺伝子地図を作成した。

 単離した5つの遺伝子のうち2つは既知の遺伝子であり、ホロカルボキシラーゼ合成酵素HCSと内向き整流性カリウムチャネルGIRK2であった。また、1つはDrosophila minibrain遺伝子のヒトホモログMNBであった。そして残る2つは新規の遺伝子で、それぞれTPRドメインを持つこと、内向き整流性カリウムチャネルと予想されることからTPRD、IRKKと名付けた。5つの遺伝子のうちMNBは、Drosophilaの初期発生において脳の正常な形成に必須なminibrainに非常に似ていることから、ダウン症の精神遅滞に関連している可能性があり、最も興味深いダウン症の候補遺伝子であると考えられた。

 本研究によって、ダウン症関連領域からダウン症原因遺伝子を同定するための基礎が、ほぼ整ったと考えられる。従って、本研究は、ゲノム生物学及び分子生物学の進展に大きく寄与すると考えられるので、博士(薬学)に値すると判定した。

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