学位論文要旨



No 213616
著者(漢字) 今城,秀司
著者(英字)
著者(カナ) イマジョウ,ヒデツカ
標題(和) ペニングトラップ中のBe+イオンとCd+イオンのレーザー冷却に関する研究 : Cd+イオンの共同冷却
標題(洋)
報告番号 213616
報告番号 乙13616
学位授与日 1997.12.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13616号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒田,和男
 東京大学 教授 清水,富士夫
 東京大学 教授 岡野,達雄
 東京大学 教授 渡部,俊太郎
 東京大学 助教授 志村,努
内容要旨

 イオンを空間の微小領域に長時間保持するイオントラップは、分光や質量分析等の計測分野において顕著な測定精度の向上をもたらす。とりわけ分光計測においては、長時間にわたる電磁場との相互作用が可能になることからスペクトルQ値が増加する。さらにレーザー冷却と呼ばれる手法によりトラップイオンは極低温状態に維持され、ドップラー効果によるスペクトル幅の不均一広がりや周波数シフトを低減させ高分解能分光を実現させる。したがってレーザー冷却は計測精度の向上を実現させる上で非常に重要な技術となるが、イオンのもつエネルギー構造とレーザー(コヒーレント光源)が入手できる波長にあるかに依存し、1価の正イオンにおいてレーザー冷却可能なイオンは10種類程度に限られる。このようなレーザー冷却に関する制限を克服する方法として共同冷却(sympathetic cooling)が注目されている。この冷却法はレーザー冷却が可能なイオンと同時にトラップすることにより、イオン間のクーロン相互作用で間接的に冷却する方法であり、あらゆるイオン種に適用できる。本研究はイオントラップを用い、共同冷却を積極的に活用した高分解能分光を目的としている。このことは、イオントラップを将来の周波数標準に応用するための基礎にもなる。特に共同冷却は素粒子を含めたあらゆるイオン種に適用できるため、今後様々な展開が期待される。加えて実験例が少ないことから、我々の行った本実験が極めて有為であると考えられる。

 本実験で使用したペニングトラップはイオントラップの一種で、回転双曲面のトラップ電極を使い静電磁場でイオンをトラップする。図1に概要を示す。他のイオントラップとしてはrfトラップがあり同形の電極を使用するが、高周波電場を使ってトラップするためイオンは加熱される。対してペニングトラップは、静的な場によるトラップなので加熱要因が無く、同サイズのrfトラップと比較すると100倍以上のイオン数の同時冷却が可能となり、複数種イオンのトラップと冷却を要する共同冷却に適している。本実験で使用したトラップのサイズは、エンドキャップ間が2z0=16mm、リング電極の内径が2r0=22.6mmのものであり、動作条件は通常U=5〜10V,B=1T程度である。この時105個程度のイオンがトラップされ、104個以上のイオンの同時冷却が可能となる。

図1 ペニングトラップのトラップ電極断面図。

 レーザー冷却にはBe+イオンを使っている。冷却遷移2s2S1/2-2p2P3/2の波長は313nm、連続光源は色素レーザーの第二高調波(非線形光学結晶LiIO3)を用いている。さらに共同冷却にはCd+イオンを使いBe+イオンと同時にトラップする。Cd+イオンを検出するための連続光源(5s2S1/2-5p2P3/2遷移:214.5nm)は同様に色素レーザーの第二高調波(非線形光学結晶BBO)である。これらのイオンは、原子ビームオーブンからの原子とフィラメントからの熱電子の衝突電離によってトラップ領域内で生成される。トラップ電極及び原子ビームオーブン等は真空槽内に設置され、10-10Torr台の真空度に維持される。トラップイオンからの自然放出散乱光を光電子増倍管でフォトンカウンティングして検出し、イオン集団(イオン雲)の二次元像を取得するときは高感度カメラを使用する。これら実験系の概略を図2に示す。

図2 ペニングトラップによるイオンの共同冷却実験概略図

 Be+イオンとCd+イオンを同時にトラップしBe+イオンをレーザー冷却すると、クーロン相互作用でCd+イオンが共同冷却される。冷却イオンの集団はイオン雲と呼ばれ、形状は回転楕円体でトラップ軸(z軸:磁場の印加方向)のまわりを一定周波数で回転する。Be+イオンとCd+イオンは質量が異なるので、同一周波数で回転すると遠心分離が起こり、重いCd+イオンが動径方向の外側に分布することになる。観測結果を図3に示す。Cd+イオン雲がBe+イオンを取り囲むようにリング型に分布していることがわかる。この結果はトラップされたイオンに関する運動方程式を使って数値解析することでも得られ、理論的な検証もおこなった。さらに、Cd+イオンには8種類の安定同位体が存在するが、質量差の小さい同位体間においてもこのようなイオン雲の空間分離が起こり、重い同位体が動径方向の外側に分布することが、図4に示すように本実験において初めて観測された。

図3 冷却イオン雲の像。イオン雲はz軸のまわりを回転している。2つの像を並べて表示している。図4 Cd+イオン雲の同位体間のr(動径)方向に関する蛍光分布。

 共同冷却されたCd+イオンにおいてイオン検出用の214.5nm光源の周波数を掃引すると、5s2S1/2-5p2P3/2遷移に関する同位体スペクトルが得られる。図5に測定結果を示す。8種類の安定同位体すべてが検出され、特に質量数A=108は存在比0.89%と極めて微量であるが、ペニングトラップでは高感度に検出されている。また、スペクトルのライン幅からイオン温度が推定できるが、共同冷却されたCd+イオンは約700mKまで冷却され、ドップラー広がりが低減された高分解能分光が可能になっている。このように、Cd+イオンの5s2S1/2-5p2P3/2遷移に関する同位体シフトを全安定同位体にわたって初めて測定した。

図5 Cd+イオンの5s2S1/2-5p2P3/2遷移に関する同位体スペクトル

 以上のように、ペニングトラップを使いイオンの共同冷却を積極的に活用した高分解能分光を実験的に示すことができた。加えて共同冷却されたイオンの温度や空間分布といった諸特性を取得し、このことは今後さまざまなイオンや素粒子の冷却に役立つものと考えられる。

審査要旨

 イオントラップは、電磁気力を利用し、力学的にイオンを閉じ込める装置であり、原子物理学の精密測定に大きく寄与してきた。レーザー冷却法を併用し、イオンを低温に冷やすことにより、熱運動に起因するドプラー効果の影響を抑えることができ、分光測定の分解能を飛躍的に改善できる。この技術は、次世代の周波数標準として期待されている。これまでのレーザー冷却法では、対象とするイオンとレーザー光の直接的な相互作用を利用して冷却を行っていた。これでは、冷却できるイオン種は限られてしまう。本研究は、二種類のイオンを同時にトラップし、一方のイオンをレーザー冷却することにより、もう一方のイオンを間接的に冷却する共同冷却法に関するものである。このアイデアは新しいものではないが、これまでほとんど実例がなかった。著者は、イオントラップの一種であるペニングトラップを用い、Beイオンをレーザー冷却し、Cdイオンを共同冷却により400mKまで冷やすことに成功した。これは、Cdイオンを冷却した世界で最初の実験である。

 本論文は5章からなる。

 第1章「序章」では、本研究の背景と位置づけがまとめられている。

 第2章「ペニングトラップとイオンの冷却」では、はじめに、本論文の準備として、ペニングトラップとレーザー冷却の原理が述べられている。

 ペニングトラップは、イオンを比較的高密度にトラップできるので、トラップ領域にイオン雲が形成される。レーザー冷却により温度が下がるとイオン雲は収縮する。イオンはペニングトラップ中の磁場によりマグネトロン運動をするが、イオン間のクーロン力により互いに強く結合するため、イオン雲は集団的に一定の速度で回転する。著者はこの運動をイオンの分布関数を用いて解析し、回転速度とイオン雲の形状の関係を明らかにした。

 第3章は「レーザー冷却実験」と題し、Beイオンのペニングトラッピングと、波長313nmのレーザー光を用いたレーザー冷却の実験結果が述べられている。この方法により、100mK以下まで冷却することに成功している。著者の得た主な成果として、イオン雲の回転周波数の計測法を開発したこと、冷却されたイオンの量子ジャンプを観測し、残留ガスとの衝突頻度を求めたこと、イオン雲を画像計測し、理論的に予測されたイオン雲の収縮や回転速度による形状の変化を観測したことが挙げられる。特にその画像測定やスペクトル測定から、イオン雲が蛍光の強い状態と弱い状態の二つの状態をとり、温度を変えると、この間で相転移を起こすことを明らかにした。詳しい解析の結果、高蛍光状態ではイオン雲は高密度で秩序を保った状態にあるが、低蛍光状態ではイオン雲は無秩序に分布した密度の低いガス状態にあると結論した。

 第4章「共同冷却実験」は本論文の核心部分である。著者は、前章で述べられたBeイオンを冷媒とし、Cdイオンの共同冷却を試みた。Cdイオンの観測には214.5nmの紫外レーザー光を用いた。二種のイオンをそれぞれ画像計測したところ、中心部分に質量の軽いBeイオン雲が観測され、それを取り巻くように質量の重いCdイオン雲が形成されることが判明し、共同冷却の確証が得られた。これはイオン雲が集団として一定の速度で回転することから、質量差が遠心力の差として表れるためである。

 本実験は、直接冷却法を含めCdイオンがレーザー冷却された最初の実験である。それぞれのイオン数は、Beイオンが15,000から20,000個、Cdイオンが6,000から10,000個と推定された。スペクトル幅の測定から、温度はBeもCdイオンも400mK程度と推定された。単独冷却の場合に比べ温度は高いので、第3章で観測された相転移は生じなかった。

 この実験では天然のCdを使っているので、質量数106から116まで8種類の同位体が混在しているが、これらを同時に冷却することが可能となった。これは、直接冷却法では実現が困難である。質量差による空間分離が同位体間においても観測された。

 イオン雲の力学的振る舞いは、クーロン相互作用による多体問題となるので、理論的な解析が難しい。著者は数十個から数百個のイオンをモデルに、運動方程式を連立させ、直接数値的に解くことにより、イオン雲の振る舞いをシミュレーションで解析し、観測結果とよい一致を得た。

 続いて著者は、冷却Cdイオン雲を使い、Cdイオンの214.5nm線を高分解分光し、同位体シフトを高精度に測定した。この方法は、従来のイオン分光法に比べ高い精度を実現するものであることを確認した。

 第5章は、本論文のまとめにあてられている。

 以上を要するに、本論文はこれまでほとんど実例のなかったイオントラップ中のイオンの共同冷却法を実験的、理論的に確立した著者のこれまでの研究をまとめたものであり、著者はこの方法をBeイオンとCdイオンの混合イオントラップに適用し、Cdイオンを世界で初めて冷却することに成功した。共同冷却法は、直接レーザー冷却できないイオンを容易に冷却することを可能とし、その応用範囲は大変広い。著者は、冷却されたイオンを高分解能で分光し、イオンの同位体シフトの測定精度を従来法に比べ格段に改善できることを実証した。これらの研究は、レーザー冷却法の有用性をさらに拡大し強化する方法を提供する画期的な成果であり、原子物理学の進歩に大きく貢献するものである。よって本論文は物理工学に対して寄与するところ大であり、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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