イオントラップは、電磁気力を利用し、力学的にイオンを閉じ込める装置であり、原子物理学の精密測定に大きく寄与してきた。レーザー冷却法を併用し、イオンを低温に冷やすことにより、熱運動に起因するドプラー効果の影響を抑えることができ、分光測定の分解能を飛躍的に改善できる。この技術は、次世代の周波数標準として期待されている。これまでのレーザー冷却法では、対象とするイオンとレーザー光の直接的な相互作用を利用して冷却を行っていた。これでは、冷却できるイオン種は限られてしまう。本研究は、二種類のイオンを同時にトラップし、一方のイオンをレーザー冷却することにより、もう一方のイオンを間接的に冷却する共同冷却法に関するものである。このアイデアは新しいものではないが、これまでほとんど実例がなかった。著者は、イオントラップの一種であるペニングトラップを用い、Beイオンをレーザー冷却し、Cdイオンを共同冷却により400mKまで冷やすことに成功した。これは、Cdイオンを冷却した世界で最初の実験である。 本論文は5章からなる。 第1章「序章」では、本研究の背景と位置づけがまとめられている。 第2章「ペニングトラップとイオンの冷却」では、はじめに、本論文の準備として、ペニングトラップとレーザー冷却の原理が述べられている。 ペニングトラップは、イオンを比較的高密度にトラップできるので、トラップ領域にイオン雲が形成される。レーザー冷却により温度が下がるとイオン雲は収縮する。イオンはペニングトラップ中の磁場によりマグネトロン運動をするが、イオン間のクーロン力により互いに強く結合するため、イオン雲は集団的に一定の速度で回転する。著者はこの運動をイオンの分布関数を用いて解析し、回転速度とイオン雲の形状の関係を明らかにした。 第3章は「レーザー冷却実験」と題し、Beイオンのペニングトラッピングと、波長313nmのレーザー光を用いたレーザー冷却の実験結果が述べられている。この方法により、100mK以下まで冷却することに成功している。著者の得た主な成果として、イオン雲の回転周波数の計測法を開発したこと、冷却されたイオンの量子ジャンプを観測し、残留ガスとの衝突頻度を求めたこと、イオン雲を画像計測し、理論的に予測されたイオン雲の収縮や回転速度による形状の変化を観測したことが挙げられる。特にその画像測定やスペクトル測定から、イオン雲が蛍光の強い状態と弱い状態の二つの状態をとり、温度を変えると、この間で相転移を起こすことを明らかにした。詳しい解析の結果、高蛍光状態ではイオン雲は高密度で秩序を保った状態にあるが、低蛍光状態ではイオン雲は無秩序に分布した密度の低いガス状態にあると結論した。 第4章「共同冷却実験」は本論文の核心部分である。著者は、前章で述べられたBeイオンを冷媒とし、Cdイオンの共同冷却を試みた。Cdイオンの観測には214.5nmの紫外レーザー光を用いた。二種のイオンをそれぞれ画像計測したところ、中心部分に質量の軽いBeイオン雲が観測され、それを取り巻くように質量の重いCdイオン雲が形成されることが判明し、共同冷却の確証が得られた。これはイオン雲が集団として一定の速度で回転することから、質量差が遠心力の差として表れるためである。 本実験は、直接冷却法を含めCdイオンがレーザー冷却された最初の実験である。それぞれのイオン数は、Beイオンが15,000から20,000個、Cdイオンが6,000から10,000個と推定された。スペクトル幅の測定から、温度はBeもCdイオンも400mK程度と推定された。単独冷却の場合に比べ温度は高いので、第3章で観測された相転移は生じなかった。 この実験では天然のCdを使っているので、質量数106から116まで8種類の同位体が混在しているが、これらを同時に冷却することが可能となった。これは、直接冷却法では実現が困難である。質量差による空間分離が同位体間においても観測された。 イオン雲の力学的振る舞いは、クーロン相互作用による多体問題となるので、理論的な解析が難しい。著者は数十個から数百個のイオンをモデルに、運動方程式を連立させ、直接数値的に解くことにより、イオン雲の振る舞いをシミュレーションで解析し、観測結果とよい一致を得た。 続いて著者は、冷却Cdイオン雲を使い、Cdイオンの214.5nm線を高分解分光し、同位体シフトを高精度に測定した。この方法は、従来のイオン分光法に比べ高い精度を実現するものであることを確認した。 第5章は、本論文のまとめにあてられている。 以上を要するに、本論文はこれまでほとんど実例のなかったイオントラップ中のイオンの共同冷却法を実験的、理論的に確立した著者のこれまでの研究をまとめたものであり、著者はこの方法をBeイオンとCdイオンの混合イオントラップに適用し、Cdイオンを世界で初めて冷却することに成功した。共同冷却法は、直接レーザー冷却できないイオンを容易に冷却することを可能とし、その応用範囲は大変広い。著者は、冷却されたイオンを高分解能で分光し、イオンの同位体シフトの測定精度を従来法に比べ格段に改善できることを実証した。これらの研究は、レーザー冷却法の有用性をさらに拡大し強化する方法を提供する画期的な成果であり、原子物理学の進歩に大きく貢献するものである。よって本論文は物理工学に対して寄与するところ大であり、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |