本研究では近年高度に発達した核磁気共鳴法(NMR)や電子計算機の助けを借りて、高分子鎖一本一本の構造を詳細に解析するための系統的な方法論の構築を目的とした。即ち、マルコフ過程の考え方に厳密に基づき、共重合モノマー単位連鎖分布やホモポリマーおよび共重合体の立体規則性の分布において、新たに構築した統計モデルを織り込みながら、現今あるいは今後の解析機器の進歩による精密な観測情報を可及的に有効に活用し、高分子の一次構造に関する知見を可能なかぎり詳細に抽出するための方法論の確立を試みたものである。 高分子の連鎖分布解析の歴史は1950年代に始まり、1960年代には、Frischらが共重合体のモノマー単位連鎖およびホモポリマーの立体規則性の分布解析理論を系統的に研究した。彼らはmr型立体規則性に関するマルコフ確率過程理論の集大成を行い、二次マルコフ過程までを整理した。その後、ホモポリマーのDL型立体規則性の統計モデルについてもベルヌーイや一次マルコフ過程レベルが整理された。当時NMRの精度は不十分であったが、NMRはその後も進歩し昨今の技術進歩の恩恵によって高分子の解析可能な水準もかなり高度になっている。「共重合体におけるモノマー単位連鎖とそれに共存するコタクティシティー(共重合におけるmr型立体規則性)」という概念を初めて提唱して解析を行ったのはBoveyであり、この概念を含む統計として"-パラメーター"なる変数を含む単純なモデルが提起された。その利便さ故にこのモデルは、今日まで多くの研究者に用いられている。しかし、共重合体が持つ連鎖についての統計的取扱いに関してはBovey以降今日まで特に新しい方法論は提案されていない。連鎖分布解析の理論を概括してみると、多くが1960年頃のものであって、当時の100MHz以下のNMRによって解析できる水準に合ったものでしかないと言える。Boveyのモデルは簡便でこそあるが厳密な意味ではマルコフ連鎖の概念に従わず、またその定義の意味から偶数個のモノマー単位からなる連子を合理的には扱えないことに加え、より長い連鎖を扱うことも容易でないという欠点がある。 今日の各種解析機器や電子計算機の発展は目覚ましいが、得られている多くの観測情報にもかかわらず、現代はそれに比べてその情報から高分子連鎖に関する知見を取り出すための理論のほうがむしろ大幅に遅れていると言っても過言ではないのではないか。本論文ではこれらの歴史と現状を踏まえ、高分子の構造に関する知見を可能なかぎり詳細に獲得するための方法論の確立を試みた。 本研究においては、マルコフ過程の考え方に厳密に従った統計モデルの構築のために条件付き確率として、n個の要素(モノマー単位連鎖、または、立体規則性配列)よりなる任意の連鎖cnの次に要素aの付加する確率をマルコフ過程の考え方に従って、P(a/cn)と記すことを基礎とした。ここでn=0のベルヌーイ統計モデルからn=3の三次マルコフ統計までを扱った。これに加え、2種の連鎖を同時に併せ持つ連鎖(モノマー単位連鎖とその立体規則性という2種の連鎖)を考え系統的な連鎖統計モデルを構築した。一種の連鎖のみを扱うマルコフ統計に対して、本論文の特徴である二種の連鎖を同時に扱う統計を「二次元マルコフ統計」と呼ぶものとする。ここで、モノマー単位連鎖とその立体規則性が互いに影響を与え合う場合とそうでない場合とに分類し、それぞれを両要素が"互いに相関する統計"および"互いに独立な統計"と呼ぶ新しいコンセプトを導入して体系化した。今日のNMR分解能の目覚ましい進歩はこのような取り扱いによる高分子の一次構造の解析を十分に可能としている。以下、本論文の内容を概括する。 第一章に本研究の背景、目的ならびに研究概要を述べ、第五章にまとめを記した。 第二章で数学的準備として二種の研究を実施した。まず、NMRピーク帰属の基礎として、高分子のコンホメーション解析を、ポリアクリロニトリル(PAN)の低分子モデル化合物について量子化学計算を実施した。即ち、PANの二量体および三量体のモデル化合物を対象とし、半経験的分子軌道法(CNDO/2とMINDO/3)を用いて行った。その結果、上出らが実験的基礎により予測した「PANはメソ連鎖部分でニトリル基が曲折し剛直になる」という仮説を分子計算の立場から初めて確認した。 更に連鎖分布解析において必要となる多変数関数の最適化という手法の準備をかねて、分子性結晶の配列を行った。分子性結晶を電子計算機によって配列させるもので、包接晶析プロセスによる二成分分離操作の基礎となるものである。ここでは、数学的理論である空間群理論を応用して尿素結晶を空間的に最適配列させることを試み、尿素純物質の正方晶系と包接で知られる六方晶系の二種の構造を得た。 第三章ではホモポリマーの立体規則性に関する連鎖解析を、三次マルコフ過程のレベルまで行った結果を示した。三次マルコフモデルを実用に供しうる形として記述して、Elgertらの報告になるポリ塩化ビニル(PVC)の13C NMRのseptadデータを対象とし、三次マルコフまでの統計モデルによって解析を行なった。これにより、PVCのコンホメーションの特徴として、mesoとracemoが隣り合う場合に一つ置いたモノマー単位どうしのメチン水素と塩素原子の相互作用を考慮することでNMR帰属が説明できることを示した。 第三章第二節において、連鎖分布の理論を溶液中の高分子の溶媒和構造の検討に用いた。PANの溶液NMRの測定溶媒種によってNMRピークの一部が微妙に異なることに着目し、溶液中のPAN分子が連鎖構造によりどのように各溶媒(PAN繊維製造における工業的溶媒)と相互作用し溶液中の構造を形成しているかを検討した。硝酸中では硝酸分子はPAN分子鎖のmeso,racemoにかかわらず二連子に溶媒和するが、ジメチルスルホキシドはmmrの位置に、ジメチルホルムアミドやジメチルアセトアミドはmrの位置に相互作用することが推定され、連鎖分布を基礎とした計算上の溶媒和分子数が、音速測定から求めたものと略一致した。 第四章では、二元系共重合体を対象とした各種解析を、構築した系統的二次元マルコフ過程理論を用いて行った。即ち、立体規則性ホモポリマーを与えうる2種のモノマーより成り、重合生長反応が確率統計によって説明できるような二元系共重合体であるアクリロニトリル(AN)/メタクリロニトリル(MAN)共重合体に対して、モノマー単位連鎖とその立体規則性が互いに相関する場合と互いに独立である場合の二次元マルコフ過程モデルを適用した。これにより、合成法の異なる三種の共重合体に最も適合する統計モデルがそれぞれ異なり、重合メカニズムを反映するものと考えた。付加確率パラメーターの値を用いると、平均連鎖長等が求められ、モノマー付加の選択性や立体特異性の考察が定量的に可能となった。また、モンテカルロ法に基づきコンピューターで最も確からしい共重合分子鎖のモノマー単位連鎖やその立体規則性配列を視覚的に表現することもできた。 また、この一般理論を、文献に示されたAN/メタクリル酸メチル(MMA)共重合体およびAN/メタクリル酸エチル(EMA)共重合体の13C NMRデータに適用することを試みた。ANのみの二連子がアタクティック、MMAあるいはEMAのみの二連子がシンジオタクティックという従来の知見と矛盾しない結果が得られた。加えて、AN末端にMMAが付加する場合とMMA末端にANが付加する場合には若干アイソタクテイックに重合するのに対して、ANとEMAの共重合のそれではほとんどアタクティックになるという新しいデータも得られた。この結果は、モノマーの付加において、MMAとANの時は末端と付加モノマーとで擬似六員環を形成するが、EMAの時はエチル基の長さによりその形成が阻害されるものと考えた。ここでは、他の研究者の報告したNMRデータを基にしても本論文の方法を用いれば、飛躍的に多くの情報が得られることも示した。 更に、この方法を一方のモノマーが立体規則性高分子を与えない場合に拡張し、AN/塩化ビニリデン共重合体に適用して五連子までの連鎖構造の解析を行った。モノマー単位連鎖と立体規則性が絡み合った複雑なNMRピークを与える場合も本研究の方法を用いると、整理して解析が出来、これまで一次マルコフ程度であった解析水準が二次マルコフレベルまで行えることを示した。 以上をまとめると、 1)立体規則性を考慮したモノマー単位連鎖分布を解析する基礎理論について、Boveyが1962年に提案した「-パラメーター・モデル」以降、初めてこれを越える体系的理論として構築した。 2)特徴的コンセプトとして「二種の連鎖を含む二次元連鎖」を導入し、これら二種の連鎖が互いに相関する場合と独立な場合という概念も用いて連鎖解析理論を体系化した。 3)進歩したNMRがもたらす情報量の多いデータを本論文の方法により解析することで、付加重合反応機構や高分子コンホメーションなどの多くの情報が豊富に得られることを実例によって示した。今後の観測機器の進歩がもたらすであろう将来においてもこの方法は、高分子やその他の連鎖解析にとって極めて有用であると考えられる。 |