学位論文要旨



No 213637
著者(漢字) 苅田,香苗
著者(英字)
著者(カナ) カリタ,カナエ
標題(和) 鉛取扱作業者の汚染皮膚を経由した鉛の経口摂取の可能性について
標題(洋) Possible oral lead intake via contaminated skin in lead-exposed workers
報告番号 213637
報告番号 乙13637
学位授与日 1997.12.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13637号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 教授 牛島,廣治
 東京大学 助教授 真鍋,重夫
 東京大学 助教授 横山,和仁
 東京大学 講師 奥,恒行
内容要旨 研究目的:

 わが国では近年、作業環境や作業方法が改善された結果、重症の鉛中毒はみられなくなったが、低濃度長期曝露による不顕性の鉛中毒が健康障害を引き起こすことが報告されており、依然として鉛取扱い作業者の作業環境管理や健康教育の重要性が指摘されている。

 鉛取扱い作業者の鉛摂取については、従来より経気道的経路が注目され問題とされているが、比較的低濃度の鉛曝露を受ける作業者では、作業環境空気中の鉛レベルと血中鉛濃度との相関が低く、血中鉛値の上昇を経気道による摂取経路のみで説明づけることは難しい。本研究では、鉛が作業者の汚染された皮膚を経由して経口摂取される可能性を検証するため、鉛取扱い作業者の顔面皮膚や爪に付着している鉛濃度と血中鉛濃度との関連性を調べ、作業環境空気中鉛レベルと比較した上で鉛の摂取経路とその寄与に関して検討し、鉛取扱い作業場でのより適切な衛生管理の指針を提示することを目的とした。

方法:

 国内2ヶ所の精錬所において、湿式精錬および金属精錬残さいの煙灰により鉛に曝露される可能性のあった男性作業者計36名(年齢22歳〜69歳)を対象として調査した。対象者には作業歴や作業形態の調査のほか、作業中・後の衛生行動(手洗い、洗顔の有無)、喫食・喫煙習慣、保護具(マスク、手袋)の使用に関して自記式質問票による調査を行った。

 顔面の汚染状況を調べるため、対象者がしばらく作業を行った後、洗顔を行っていない状態で、規格の消毒綿により、対象者の両頬と額を、内側をくり抜いた定形のビニール板(内径10x3.5cm)を当て各々5往復ずつ同じ強さで拭き取りを行った。また、指爪の汚染をみるため、同様に作業合間に手洗いを行っていない状態で対象者の左右の手爪を家庭用爪切りを用いて収集した。清拭後の消毒綿、汚れが付着した状態の爪および定期検診時に肘静脈採血により得られた血液は、硝酸で湿式灰化を行い、適宜希釈後、原子吸光光度計により鉛濃度を測定した。測定精度を管理する目的で標準試料(NIST、IAEA)を同様に酸化分解し、得られた値が濃度保証値の範囲内にあることを確認した。尿中のデルタ・アミノレブリン酸は比色法により定量した。

 作業環境中の鉛の摂取形態を調べるため、作業中、作業者の顔面に電顕用の伝導性両面テープを密着させ、吸着した空気中浮遊粒子の粒径分布を顕微鏡下で観察した上で、エネルギー分散型X線ミクロアナライザーにより、粒子を構成する主元素の分析を行った。大気中の鉛濃度は、各作業現場における6カ月毎の定期環境計測値のうち、試料収集日にできるだけ近いデータを分析に使用した。

結果:

 対象者の全血中鉛濃度と顔面を清拭した消毒綿に付着していた鉛含量との関係を図1に、また、血中鉛と爪の鉛濃度との関係を図2に示す。X軸を片対数変換した後の相関係数はそれぞれ0.781と0.706で、顔面皮膚と爪に付着していた鉛量は、いずれも血中鉛濃度との間に有意な正の相関関係が認められた。尿中デルタ・アミノレブリン酸値および空気中鉛レベルと血中鉛濃度との間には相関関係は認められなかった。

 作業者の血中鉛濃度に影響を及ぼす因子を探る目的で重回帰分析を行ったところ、表1に示したように、顔面清拭綿中の鉛と作業中の喫煙状況および爪の鉛濃度が血中鉛濃度の有意な説明変数として採択された。空気中鉛濃度との有意な関連は認められなかった。

 作業者の頬に付着した粒子を走査電子顕微鏡により観察したところ、粒径10m以上ある肺胞内沈着率の低い大粒子の存在が多数確認され(図3)、それらの含有元素を分析したところ、図4に示されるように鉛と硫黄が主成分の1つとして検出された。

考察:

 鉛作業者の鉛摂取については、皮膚から吸収されるという報告はなく、専ら経気道的経路が注目されているが、本研究により、空気からの鉛曝露量が比較的低レベルの作業者では、経気道吸入され得ない鉛含有の大粒子を、顔面皮膚や爪(手指)を経由して経口的に摂取している可能性が示された。

 本研究対象者36名のうち、26名が喫煙者で、1日の勤務時間中に平均13本のたばこを手洗いを行わずに吸っており、手や口の周辺についた鉛含有粒子を喫煙行為により経口摂取してしまうことが1つの可能性として考えられた。不顕性鉛中毒の第一次予防対策として、作業後の手洗いや洗顔が重要であり、作業場での禁食・禁煙を周知徹底させることにより、作業者の血中鉛濃度が改善されることが示唆された。

Figure 1:Scatterplot and regression line of BPb and Face-Pb. Subjects in plant A (n=17) are indicated as open circles. subjects plant B (n=19)as solid circles.Figure 2:Scatterplot and regression line of BPb and Nail-Pb. Subjects in plant A (n=17) are indicated as open circles. subjects in plant B (n=19)as solid circles.Table 1. Multiple reguression analysis for blood lead level(n=36)Figure 3 Seanning electron microscopy of a dust sample attached to subject’s check in plant A.Figure 4. The elemental composition of a central portion of the dust particle in. Figure 3 (mark a〓+) measured by energy-dispersive X-ray analyzer
審査要旨

 本研究は鉛取扱作業者の鉛の摂取経路について、従来より問題とされてきた経気道以外の経路に注目し、鉛が作業者の汚染された手や顔面皮膚を経由して経口摂取される可能性について検証したものであり、下記の結果を得ている。

 1.湿式精錬および金属精錬残さいの煙灰により鉛に曝露される可能性のあった男性作業者36名について、作業をしばらく行った後、洗顔を行っていない状態で、消毒綿により対象者の両頬と額の拭き取りを行い、また作業合間に手洗いを行っていない状態で左右の手の爪を収集し、顔面および指爪の汚染状況を調べた。その結果、対象者の顔面皮膚および爪に付着していた鉛量は、いずれも血中鉛濃度との間に有意な正の相関関係が認められた。

 2.各作業現場における作業環境空気中の鉛濃度と対象者の平均血中鉛濃度との間には、有意な相関関係は認められなかった。

 3.自記式質問票により対象者の作業・衛生行動(手洗い、洗顔の有無)、喫食・喫煙習慣、保護具(マスク、手袋)の使用に関して調査し、作業者の血中鉛濃度に影響を及ぼす因子について重回帰分析した結果、顔面清拭綿中の鉛と作業中の喫煙本数および爪の鉛濃度が有意な説明変数として採択された。空気中鉛濃度との有意な関連は認められなかった。

 4.対象者の顔面に作業時間中、顔面に電顕用伝導性テープを密着させ、吸着した環境中浮遊粒子の粒径分布を顕微鏡下で観察し、X線ミクロアナライザーにより粒子構成元素の分析を行ったところ、粒径10m以上の非吸入性粒子の存在が確認され、それら粒子の含有元素を分析したところ、鉛が主成分の1つとして検出された。

 以上の結果より、空気からの鉛曝露量が比較的低レベルの作業者では、経気道吸入され得ない鉛含有の大粒子を、顔面の皮膚や爪(手指)を経由して経口的に摂取している可能性が示された。

 低濃度長期曝露による非顕牲の鉛中毒により健康障害を引き起こすことが近年報告されており、わが国の産業現場においても鉛取扱作業者の作業環境管理や健康教育が依然として重要な課題となっているため、本研究によって作業者の汚染皮膚を経由した鉛の経口摂取が血中鉛濃度に寄与する重要な経路であることが示されたことは、鉛中毒の第一次予防対策上の問題点を喚起し、作業者の健康状態の改善に貢献できるものと考えられた。以上のごとく、本論文は汚染された皮膚からの経口摂取を検証したわが国で初めての試みであり、また、産業現場の作業環境の改善にも応用し得る有用性も兼ね備えていることから、学位の授与に値するものと認められる。

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