学位論文要旨



No 213641
著者(漢字) 加納,克己
著者(英字)
著者(カナ) カノウ,カツミ
標題(和) 日本のクロム顔料製造従事者の肺癌死亡に関するコホート研究
標題(洋) A Cohort Study of Lung Cancer Mortality in Chromate Pigment Workers in Japan
報告番号 213641
報告番号 乙13641
学位授与日 1997.12.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13641号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松島,綱治
 東京大学 教授 大塚,柳太郎
 東京大学 教授 大橋,靖雄
 東京大学 教授 高取,健彦
 東京大学 助教授 森田,寛
内容要旨 I目的

 肺癌の主な原因として喫煙及びクロム、ニッケル、アスベストなどによる暴露が挙げられる。クロムに関しては、クロム鉱石からクロム酸塩を製造する工程に従事する人に肺癌に罹る率が高いことが指摘されている。その他のクロム関連製造従事者のうち、クロム顔料製造従事者を対象にした疫学調査の報告は少なく、クロム顔料による肺癌発生に関する知見は、必ずしも十分であるとは言えない状況である。クロム顔料は、錆びの保護剤としてのベンキ、印刷のインク及び各種の生産物の着色剤として、広く用いられており、クロム顔料製造従事者の肺癌発生に関する研究成果が必要とされている。

 本研究は、本邦におけるクロム顔料製造従事者の肺癌死亡を明らかにし、その超過危険について評価することを目的とするものである。

II対象及び方法

 本研究の対象者は、本邦における男性のクロム顔料製造従事者全員である。これらクロム顔料製造従事者の勤務する会社は5社である。すべての会社で、クロム酸鉛(黄鉛)、モリブテンオレンジ(モリブテン赤)及びストロンチウムクロメートの製造のために原料として、クロム酸ナトリウムが使われた。またクロム酸亜鉛(亜鉛黄)の製造のためには原料として無水クロム酸と重クロム酸カリウムが使われた。製造工程は、クロム顔料の種類により、若干異なるが、いずれのクロム顔料製造工程においても、溶解、反応、濾過、乾燥、粉砕及び袋詰、保守・抽出・検査、及び貯蔵・配送に分類できる。

 本研究の対象集団(コホート)は男性661人である。疫学的調査法として人年法(Person years method)を用い、クロム顔料製造従事者と日本人の比較は、標準化死亡比(SMR=Standardized Mortality Ratio)を用いた。本研究の調査期間は4つの期間、すなわち、1950-1959年(737人年)1960-1969年(3,069人年)1970-1979年(611人年)1980-1989年(6,277人年)に区分した。期待死亡数は、1955年,1965年,1975年,1985年における日本人男性の死亡年齢、死亡原因別死亡率を人年(person years)に乗ずることによって算出し、死因の分類は第9回修正国際疾病分類(ICD-9)に基づいて行った。

III結果

 666人のコホートを追跡調査したが、5人は追跡できなかった。1989年の末までに、661人が生存または死亡が確認された。死亡の原因は、死亡した全員について確認できた。

 死因別の観察死亡数が期待死亡数よりも有意に多かったのは、虫垂炎(ICD 540-543)及び原因・診断不明(ICD 797-799)である。肺癌(ICD 162)については観察死亡数3、期待死亡数2.95、標準化死亡比(SMR)1.02であり、肺癌が有意に多いことは認められなかった。肺癌で死亡した3人のうち、2人はタバコを1日につき30本ほど吸っていたが、残りの1人は喫煙習慣については不明であった。暴露期間が肺癌を含めて、悪性新生物による死亡に影響を及ぼしているかを検討するために肺癌を含めて、原因及び死亡数について製造従事期間に従って観察死亡数と期待死亡数を比較したが、特に有意な差は認められなかった。肺癌で亡くなった人は、それぞれの期間(1-10年,11-20年,21年以上)で1人のみであった。標準化死亡比(SMR)はそれぞれ0.61,1.20,及び2.04であったが傾向は統計学的に有意でなかった。潜伏期間について確かめるために、それぞれの観察期間について比較検討した結果、死亡原因と観察期間で特に有意な差は認められなかった。観察期間は生存している対象者にとってはクロム顔料の製造に従事した最初の時点から1989年の末まであり、1989年の末までに死亡した人にとっては仕事を開始した時点から、死亡までの時点であるとした。製造している品物は、会社によってやや異なる。死亡について会社間で異なっているかどうかを調べるために、それぞれの会社で観察死亡数及び期待死亡数について比較検討したところ、全死亡の標準化死亡比(SMR)は、それぞれの会社で同じ傾向であった。肺癌を含めて悪性新生物について特に超過死亡は認められなかった。

 調査対象者をクロム酸亜鉛(亜鉛黄)製造従事の経験の有無別に分類し、観察死亡数及び期待死亡数について、死亡原因別に分類し、検討した結果、2つの集団における標準化死亡比(SMR)は、全死亡及び悪性新生物について殆ど同じであった。クロム酸亜鉛(亜鉛黄)製造の経験のある肺癌の標準化死亡比(SMR)は、経験のない群に比べて多いように見えたが、有意確率は0.19であり、有意差を示さなかった。それぞれの調査対象者が最も長期に従事した仕事の種類が特定され、観察死亡数と期待死亡数について仕事の種類別に比較検討したが、特に有意差は認められなかった。

IV考察

 本研究で得られた結果の妥当性を立証するために、調査結果の影響を左右する観察期間、クロム濃度、作業環境、撹乱要因(confounding factor)について検討した。追跡調査の終了時点(1989年末)まで生存していた調査対象者(被検者)は15-40年生存したことになるので、本研究は以下の研究に基づいて開始暴露からの潜伏期間をカバーしていると考えられる。

 Langard Sは肺癌の6症例について平均潜伏期間は18.7年であると報告している。Hanguenoer J Mは、仕事を始めてから癌が発生するまで平均して17年であったとしている。さらに、Davies J Mはクロム顔料製造従事者の中では、仕事を始めてから肺癌でなくなるまでの潜伏期間が、クロム化合薬品を製造している人よりも短いという報告をしている。本邦では、1975年に作業環境における有害物質の測定を実施する法律が制定された。この法律が施行されて以来、本研究におけるいずれの会社でも作業環境におけるクロム濃度が測定さてきた。しかしながら、この法律が施行されるまでは、測定はされなかった。

 1976年からの測定値は幾何平均で6価クロムに換算して0.003-0.019mg/m3であった。

 1975年迄は作業環境が良くなかったが、それ以後、改善が積極的に行われるようになり、集塵装置の設置、秤量、袋詰作業の自動化、換気の改善、さらにはマスクの使用、仕事着への配慮、労働後の入浴のような衛生学的考慮を実行した結果として、作業環境における6価クロムの量が低くなったことが考えられる。Satohらによる研究は、クロム鉱石からクロム酸塩を製造する労働者の間に肺癌を含む呼吸器系の癌の危険性が高いことを示唆したが今回の研究では、これを確認することはできなかった。これは、ある種の6価クロム化合物は発癌性が低いこと、または労働衛生環境におけるクロム濃度が用量-反応関係に対する限界を下回っているということを示唆するものである。

 6価クロムはin vitro及びin vivoの実験において癌の発生に関連するDNA損傷に影響を与える研究報告もあり、IARCは6価クロムがグループ1に属すると決定したが、その発癌性はクロム化合物の化学的形態によって異なるかもしれない。

 本研究における肺癌の3人のうち、2人は喫煙者であった。クロム顔料と喫煙の相乗作用による肺癌の発生に関する知見はないが、わが国の肺癌の死亡率は明らかに女性よりも男性に高く、増加の傾向にあり、この原因の主要原因は喫煙である。従って、本研究の結果についてもこの点を考慮する必要がある。

 なお、本研究の調査対象者は必ずしも大きくなく、検出力(power)の点で問題がないわけでなく、因果関係を言及するのには十分な注意を払う必要があるが、今後の研究に譲りたい。

V結論

 (1)肺癌(ICD162)については観察死亡数3、期待死亡数2.95、標準化死亡比(SMR)1.02であり、特に肺癌が有意に多いとはいえなかった。肺癌で死亡した3人のうち、2人はタバコを1日につき30本ほど吸っていたが、残りの1人は喫煙習慣については不明であった。

 (2)死亡原因及び死亡数について製造従事期間に従って観察死亡数と期待死亡数を比較したが、特に有意な差は認められなかった。肺癌で死亡した人は、それぞれの期間(1-10年,11-20年,21年以上)で1人のみであった。標準化死亡比(SMR)は、それぞれ0.61,1.20,及び2.04であったが、傾向は統計学的に有意でなかった。

 (3)観察期間、会社間、クロム酸亜鉛(亜鉛黄)の製造経験の有無、及び最も長期間従事した仕事の種類について検討した結果、肺癌について特に有意な差は認められなかった。

審査要旨

 本研究は、本邦におけるクロム顔料製造従事者の肺癌死亡を明らかにし、その超過危険について評価することを目的とするものである。

 本研究の対象者は、本邦における男性クロム顔料製造従事者全員であり、クロム顔料製造会社5社における1950年から1989年末までの40年間の追跡が可能であった661人を調査の対象集団(コホート)としている。疫学的調査法として人年法(Person years method)を用い、クロム顔料製造従事者と一般の日本人との比較は、標準化死亡比(SMR=Standardized Mortality Ratio)を用いている。

 調査期間は4つの期間、すなわち、1950-1959年(737人年)1960-1969年(3,069人年)1970-1979年(611人年)1980-1989年(6,277人年)に区分し、期待死亡数は1955年,1965年,1975年,1985年における日本人男性の死亡年齢、死亡原因別死亡率を人年(person years)に乗ずることによって算出している。死因の分類は第9回修正国際疾病分類に基づいて行っている。

 追跡調査した661人について生存または死亡が確認され、死亡した全員について死亡原因が確認されている。得られた資料を用いて人年法により解析したところ、下記の結果を得ている。

 1.死因別の観察死亡数及び期待死亡数について有意差が認められたのは、虫垂炎(ICD540-543)及び原因・診断不明(ICD797-799)である。肺癌(ICD162)については観察死亡数3、期待死亡数2.95、標準化死亡比(SMR)1.02であり、特に肺癌が有意に多いとはいえなかった。肺癌で死亡した3人のうち、2人はタバコを1日につき30本ほど吸っていたが、残りの1人は喫煙習慣については不明であった。

 2.死亡原因及び死亡数について製造従事期間に従って観察死亡数と期待死亡数を比較したが、特に有意な差は認められなかった。肺癌で死亡した人は、それぞれの期間(1-10年,11-20年,21年以上)で1人のみであった。標準化死亡比(SMR)はそれぞれ0.61,1.20,及び2.04であったが、傾向は統計学的に有意でなかった。

 3.潜伏期間について確かめるために、観察期間について比較検討した結果、死亡原因と観察期間で特に有意な差は認められなかった。

 4.死亡率が会社間で異なっているかどうかを調べるために、それぞれの会社で観察死亡数及び期待死亡数について比較検討したところ、全死亡の標準化死亡比(SMR)は、それぞれの会社で同じ傾向であった。肺癌を含めて悪性新生物について会社間で特に超過死亡は認めれなかった。

 5.調査対象者をクロム酸亜鉛(亜鉛黄)製造従事の経験の有無別に分類し、観察死亡数及び期待死亡数について、死亡原因別に分類し、検討した結果、2つの集団における標準化死亡比(SMR)、全死亡及び悪性新生物について殆ど同じであった。クロム酸亜鉛(亜鉛黄)製造の経験のある肺癌の標準化死亡比(SMR)は、経験のない群に比べて高いように見えたが、有意確率は0.19であり、有意差を示さなかった。

 6.それぞれの調査対象者が最も長期に従事した仕事の種類が特定され、観察死亡数と期待死亡数について仕事の種類別に比較検討したが、特に有意な差は認められなかった。

 これらの結果は換気の改善、マスクの使用、仕事着への配慮、労働後の入浴のような衛生学的考慮の実行により、その労働環境における6価クロムの量が低くなったことが考えられるとしている。本研究における肺癌の3人のうち、2人は喫煙者であった。わが国の肺癌の死亡は明らかに女性よりも男性に多く、増加の傾向にあるが、この主要原因は喫煙である。従って、本研究の結果についてもこの点を十分に考慮する必要があるとしている。

 以上、本論文はこれまで未知であった本邦におけるクロム顔料製造従事者の肺癌の超過危険性について初めて明らかにしたものであり、クロム顔料製造従事者の肺癌の疫学研究に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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