学位論文要旨



No 213656
著者(漢字) 劉,世林
著者(英字)
著者(カナ) リュウ,セイリン
標題(和) 真空紫外レーザーによる簡単な分子の回転前期解離ダイナミクス
標題(洋) Rotational Predissociation Dynamics of Simple Molecules Studied by VUV Laser Spectroscopy
報告番号 213656
報告番号 乙13656
学位授与日 1998.01.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第13656号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 浜口,宏夫
 東京大学 助教授 染田,清彦
内容要旨 1.はじめに

 近年のレーザー法の発展に伴い、光化学過程の理解は飛躍的に深まった。もともと、分子分光学の主な興味は分子の同定とその幾何学的構造の決定にあった。しかし、近年のレーザー分光学が解き明かしたことは、スペクトルから光化学過程など分子の挙動についての豊冨な情報が得られるということである。レーザー分光の分子ダイナミクス研究への主な応用の一つに分子の光解離過程があげられる。紫外(UV)また真空紫外光(VUV)の吸収による分子の解離は理想的な単分子反応であり、最も基礎的な化学反応過程の一つと考えられる。実際、光解離過程の研究により、励起状態でのエネルギー再分配過程分配、化学結合の切断に伴って生成するフラグメントの量子状態分布など、分子の動力学的な過程について基礎的な情報が得られる。

 分子の高励起状態では回転運動に伴う解離反応が観測されることがある。このような解離は回転前期解離と呼ばれ、解離速度は回転量子数に強く依存する。この解離過程に関する情報は回転準位構造の観測を行ってはじめて得られるので、エネルギー分解能の高いレーザー分光は回転前期解離過程の研究に特に適している。本論文の第2章と第3章では、超音速ジェットにより極低温まで冷却された分子についてその高分解能スペクトルを測定し、その回転前期解離過程を明らかにした。

 一方、レーザー分光によれば、前期解離だけではなく、分子の励起状態の失活あるいは分子の緩和過程についても詳細な情報を得ることができる。第4章では、高分解能レーザー分光によって回転準位の分布、およびその時間発展を測定することによって、CS2分子の回転緩和過程について、その量子状態を指定した速度定数を求めた。また、これらの研究に加え、第5章では、蛍光スペクトルの測定に伴って観測される「放射捕獲」という現象に関する理論研究を行った。

2.真空紫外領域の回転前期解離

 二光子共鳴四周波差混合法により発生させた波長可変VUVレーザー光を解離光源として、XeAr分子のC1状態およびH2O分子の1B1状態の前期解離ダイナミクスについて研究を行った。その結果、いずれの場合にも、束縛励起状態に隣接した幾つかの解離性状態との間の「回転依存性のある(不均一)相互作用」と「回転依存性のない(均一)相互作用」がこれらの分子の前期解離過程を支配していることが示された。

2-1XeAr

 高分解能の波長可変VUVレーザー光(VUV〜130nm)を励起光とし、超音速ジェットで冷却されたXeAr分子を基底状態からC1状態へ励起し、さらに波長425.11nmのレーザーでイオン化した。生成されたXeAr+イオンとXe+イオンを高分解能リフレクロン飛行時間型質量分析器で同時に検出し、Xe[6s’(1/2)11S0]共鳴線の付近にあるC1-X0+(v’,0)(v’=2-6)の各振電遷移の回転スペクトルを得た。回転構造の解析により、図1に矢印で示すような二つの解離チャンネルの存在が明らかになった。そのうち、一方はC1状態と解離性状態=0-との電子-回転相互作用(LあるいはS脱結合)によって起こる不均一な前期解離チャンネルであり、波長425.11nmのレーザー光によってイオン化できるXe6s’(1/2)0フラグメントを生成する。もう一つは、Xe6s(3/2)1あるいはXe6s(3/2)2フラグメントに相関する解離性状態とC1状態の間の断熱非交差相互作用に伴う均一な前期解離チャンネルであり、425.11nmレーザーでイオン化できないフラグメントを生成する。回転構造の最小二乗解析により、二つの前期解離速度の寄与を表す線幅、各振動状態の回転定数、および各振電遷移のバンドオリジンを得た。その結果、断熱非交差相互作用によるポテンシャル曲線の歪みによって、これらのパラメーターが振動量子数に対して不規則な依存性を持つことが明らかとなった。

図1.XeArのエネルギーポテンシャル曲線模式図
2-2H2O

 超音速ジェットで冷却されたH2O分子(27〜154K)を波長123.7〜124.3nmの高分解能VUVレーザー光によって基底状態から状態へ励起し、生成された電子励起OH(A2+)フラグメントからの蛍光を観測することによって、オリジンバンドの回転スペクトルを測定した。簡単な一光子の遷移選択則と極低温という条件のため、低い回転準位からの遷移のみが重なることなく観測された。その結果、前期解離によって広がった各回転遷移の線幅(FWHM)を直接測定することができた。観測された線幅状態の回転量子数に強い依存性があり、図2に示すようにという式で表せることが分かった。最小二乗法により、最適なパラメーターとし、0=2.5(1)cm-1,a=0.63(1)cm-1の値が得られた。この式が表すように、(1)状態の均一的な相互作用により電子基底OH(X2i)フラグメントが生成され、(2)状態の不均一な相互作用(a-軸まわりの電子軌道-回転)により電子励起のOH(A2+)フラグメントが生成される。この式を利用し、最小二乗法でスペクトルの強度についてもフィッティングを行い、状態からのOH(A)生成の分岐比がexp[-0.097(7)<>]のように得られた。この分岐比と以前報告された吸収振動子強度に基づき、OH(A)フラグメントの絶対生成断面積を励起エネルギーの関数として求めた。

図2.測定された線幅式により最小二乗法フィッティングの結果
3.CS2分子の回転緩和

 近年の分光学においては、超音速ジェット法が極低温(数K)状態に分子やクラスターを生成するために、また、スペクトルを単純化するために盛んに利用されている。このスペクトル単純化を可能としているのは、回転緩和による回転分布の冷却である。以前には、ジェット中での回転緩和過程は統計的なものと考えられ、回転分布のボルツマン温度が減少する現象と理解されてきた。しかし、実際には、回転冷却過程は分子どうしの衝突によって回転準位間の分布が変換される過程なので、ある特定準位の分布が衝突によっていかに変化するかをまず考えなければならない。そこで、ジェットにおいて、ある指定された回転準位から別の回転準位への、いわゆる「状態から状態への」回転緩和ダイナミクスを研究するため、Arジェット中のCS2分子の回転分布およびその衝突による変化をUV領域(352.5〜352.6nm)にあるバンドの蛍光励起(LIF)スペクトルを測定することによってはじめて明らかにした。

 ジェット軸上のノズルから距離xにおいてCS2の回転分布をx/d=3〜15範囲(19か所)で測定した。ここで、dはノズルの直径である。反応式

 

 に対する緩和過程の断面積JJ’は、

 

 のように表わされる。ここで、K1は修正ベッセル関数、TはArガスの並進温度である。この式に基づき、分布の時間変化を与える方程式を導き、そして実験結果にフィッティングすることによって、温度に依存しない二つのパラメーターの値(C=5.94×10-43cm2,=-1.7)を得た。本研究から、特定の回転準位の衝突緩和の断面積が始状態と終状態のエネルギー差の-1.7乗に比例することを判明した。このような回転緩和過程について量子状態を指定した断面積の式を得たのは、CS2分子だけではなく、ほかの分子に対してもはじめてのことである。

4.共鳴放射捕獲

 蛍光スペクトルを測定する際には、「放射捕獲」と呼ばれる周囲の原子あるいは分子により蛍光の再吸収と再放射が起こる現象を避けることはできない。従って、原子や分子の励起状態からの蛍光過程を伴う物理化学過程を研究する場合には、放射捕獲を考慮する必要がある。例として、第2章のXeAr C-Xスペクトルに放射捕獲の影響を見ることができる。すなわち、C-X(5,0)バンドの一部は吸収が強いXe[6s’(1/2)11S0]共鳴線と重なっているため共鳴放射捕獲が起こり、スペクトル強度が顕著に落ちている。本論文では、この放射捕獲という現象を理論的に検討した。

 これまでの研究では共鳴放射捕獲はHolsteinの方程式に基づいて取り扱われてきた。しかし、蛍光の減衰の全時間発展を表す有効な方法についてはまだ報告例がない。研究では、オペレーター計算を利用し、方程式を直接に積分することにより、蛍光の時間発展をテーラー級数で表すという新しい方法を提案した。その結果、隣接した展開項の比は級数のインデックスが無限大になるとともに定数値に収束することがはじめて見出された。今回提案した方法によれば、収束を確認しさえすれば、この比例定数および有限な項までの和によって、蛍光減衰の全時間発展が表現できる。図3に実測のHg 63P1-61S0蛍光の時間変化と三つの異なる方法のシミュレーション結果を示した。破線は通常使われるMSR(Multiple Scattering Representation)法の結果、細い実線はHolstein基本モードの結果、太い実線は本論文で提案した方法を用いた結果である。図から明らかなように、MSR法は最初の時間領域においてのみ蛍光が減衰する様子を記述することができ、Holstein基本モードは時間が無限大経過した領域においてのみ蛍光減衰の漸近的な振舞いを表わすことができる。それに対して、本論文で提案した方法は蛍光の減衰の全時間発展を正しく再現することが分かる。

図3.測定されたHg(63P1)蛍光の時間変化および三つの異なる方法のシミュレーションの結果。ここで、0はHg(63P1)状態の自然寿命、破線は通常使われるMSR法の結果、細い実線はHolstein基本モードの結果、太い実線は本論文で提案した方法を用いた結果である。
審査要旨

 本論文は5章からなり、第1章はレーザー分光学における博士論文の研究の位置づけ、第2章はXeAr分子のC1状態における回転前期解離ダイナミクス、第3章はH2O分子の状態における回転前期解離ダイナミクス、第4章は超音速ジェット中におけるCS2分子の回転緩和過程、第5章は蛍光スペクトルの測定に伴って観測される放射捕獲という現象に関する理論研究について述べられている。

 第1章では、まず光吸収による分子の光解離反応について概説している。そして高励起状態における回転前期解離に関する情報を得るためには超音速ジェットにより極低温にまで分子を冷却した上で分解能の高いスペクトルを測定することが特に有効であることを示し、研究の動機を明らかにしている。さらに、超音速ジェット中における分子の回転緩和と放射捕獲についての研究の意義を説明している。

 第2章で論文提出者は二光子共鳴四周波差混合法により発生させた高分解能の波長可変真空紫外(VUV)レーザー光を解離光源とし、超音速ジェットで冷却されたXeAr分子を基底状態からC1状態へ励起し、さらに波長425.11nmのレーザーでイオン化し、その結果、XeAr分子がC1状態において回転前期解離反応を起こすことをはじめて明らかにした。生成されたXeAr+イオンとXe+イオンを高分解能リフレクロン飛行時間型質量分析器で同時に検出し、C1-X0+(v’,0)(v’=2-6)の各振電遷移の回転スペクトルを得、その回転構造の解析により、二つの解離チャンネルの存在を突き止めている。そのうち、一方はC1状態と解離性状態=0-との電子-回転相互作用によって起こる回転量子数に依存する前期解離チャンネルであり、もう一つは、Xe6s(3/2)1あるいはXe6s(3/2)2フラグメントに相関する解離性状態とC1状態の間の断熱非交差相互作用に伴う回転量子数に依存しない前期解離チャンネルであることが述べられている。回転構造の最小二乗解析により、二つの前期解離速度の寄与を表す線幅、各振動状態の回転定数、および各振電遷移のバンドオリジンを得ている。その結果、断熱非交差相互作用によるポテンシャル曲線の歪みによって、これらのパラメーターが振動量子数に対して不規則な依存性を持つことが示されている。

 第3章では、超音速ジェットで冷却されたH2O分子を高分解能VUVレーザー光によって基底状態から状態へ励起し、生成された電子励起OH(A2+)フラグメントからの蛍光を観測することによって、213656f07.gifオリジンバンドの回転スペクトルが測定された。そして、簡単な一光子の遷移選択則と極低温のため、低い回転準位からの遷移のみが重なることなく観測されている。その結果、前期解離によって各回転遷移の線幅が直接測定可能となり、観測された線幅状態の回転量子数に強い依存性があり、213656f08.gif式で表せることが説明されている。そして、状態の均一的な相互作用により電子基底OH(X2i)フラグメントが生成され、状態の不均一な相互作用(a-軸まわりの電子軌道-回転)により電子励起のOH(A2+)フラグメントが生成されることが示されている。この式を利用し、最小二乗法でスペクトルの強度についてもフィッティングが行われ、状態からのOH(A)生成の分岐比が得られ、さらにこの分岐比と以前報告された吸収振動子強度に基づき、OH(A)フラグメントの絶対生成断面積が励起エネルギーの関数として求められている。

 第4章で論文提出者は、ジェットにおいて状態から状態への回転緩和ダイナミクスを研究するため、Arジェット中のCS2分子の回転分布およびその衝突による変化を蛍光励起(LIF)スペクトルを測定することによってはじめて明らかにした。ジェット軸上の回転分布及び変化を19ヶ所で測定し、そして回転分布の時間変化を与える方程式を導き、実験結果にフィッティングすることによって、状態から状態への緩和過程の断面積を表わす式を得ている。

 第5章では、放射捕獲が理論的に検討され、Holsteinの方程式を直接に積分することにより、蛍光の時間発展をテーラー級数で表すという新しい方法が提案されている。その結果、隣接した展開項の比は級数のインデックスが無限大になるとともに一定値に収束することが述べられている。提案された方法によれば、収束を確認しさえすれば、その比の収束値および有限な項までの和によって、蛍光減衰の全時間発展が表現できることを示している。

 以上、論文提出者の真空紫外領域におけるXeArとH2O分子の回転前期解離に関する研究は、独創性が高いものである。また、これらの研究に関連する回転緩和と放射捕獲についての研究においては、新しい方法と考え方が導入されている。なお、本論文第2、3章は、菱川明栄、山内薫との共同研究、第4章は、Qing Zhang、Congxiang Chen、Zhiping Zhang、Jinghua Dai、Xingxiao Maとの共同研究、第5章は、Re Lai、Xingxiao Maとの共同研究であるが、いずれの場合にも論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、審査委員会は論文提出者劉世林に博士(理学)を授与できると認める。

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