学位論文要旨



No 213660
著者(漢字) 今井,公子
著者(英字)
著者(カナ) イマイ,キミコ
標題(和) Liver AcinusにおけるZonationの観点から見たHepatocyte Growth Factor/Scatter FactorとEpidermal Growth Factorの肝細胞増殖刺激作用及び各種麻酔薬の毒性作用
標題(洋)
報告番号 213660
報告番号 乙13660
学位授与日 1998.01.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13660号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木村,哲
 東京大学 助教授 田上,恵
 東京大学 助教授 山田,芳嗣
 東京大学 講師 白鳥,康史
 東京大学 講師 針原,康
内容要旨 背景と目的

 肝細胞は門脈周辺部と中心静脈周辺部では、形態学的にも機能的にも異なっており、様々な酵素の不均一な分布はmetabolic zonationと呼ばれている。糖代謝では門脈側肝細胞(Periportal Hepatocytes:PPH)では糖新生優位であり、静脈側肝細胞(Perivenous Hepatocytes:PVH)では解糖優位である。近年、肝特異的早期発現遺伝子と糖新生の関係が指摘されているが、糖代謝時に見られる肝細胞のゾーネーションと増殖がどのような関係にあるのかは知られていない。現在、摂食状態のラットより採取した培養肝細胞においてはHGF/SF、EGFに反応して増加するDNA合成量がPPHで高く、レセプター数も多いことが報告されているが、絶食状態がPPH、PVHの増殖因子への感受性に影響することはあまり知られていない。また肝再生時の分離肝細胞においてはPPHの細胞周期がPVHに比べて短くなっていることが報告されているが、増殖因子への反応性の推移やゾーネーション差異ついてはよく知られていない。そこで以上のことを明らかにするために実験を計画した。さらに部分肝切除術の適応の拡大や肝移植術の必要性が声高に叫ばれている今日、麻酔薬の肝細胞に及ぼす影響については、主に吸入麻酔薬に関するものしか知られていない。したがって鎮痛薬、鎮静薬を含めた様々な麻酔薬について、その肝細胞障害性と増殖に対する影響を知るために実験を行った。

 実験A.摂食、絶食状態による各増殖因子(HGF/SF、EGF)活性のゾーネーション差異

 実験B.肝再生時(肝切除術後の時間経過による)の増殖因子活性のゾーネーション差異

 実験C.麻酔薬(吸入麻酔薬、鎮静薬、鎮痛薬)の細胞障害性と増殖に与える影響のゾーネーショシ差異

方法

 前処置として実験Aでは48時間絶食させたラットと摂食を続けたラットを、実験Bでは、6、12、36、72、92時間、1、2週間、1カ月前に70%肝部分切除し、その後摂食状態にあるラットを準備した。ジギトニン・コラゲナーゼ法にて肝灌流し、PPHとPVHを採取した。PPH、PVHの分離確認のためBUN、ALT、グルタミン合成酵素(GS)活性をそれぞれJSCC準拠法、ウレアーゼーGLDH法、グルタミントランスフェラーゼアッセイにて測定した。PPH、PVHを105個/mlに調整し24穴ディシュにて培養開始し、実験A、BではHGF/SFを5×10-11〜10-9M、またはEGFを10-10〜10-7Mの範囲で添加した。実験Cでは培養開始48時間後から72時間後にかけて、24時間麻酔薬を添加した。吸入麻酔薬(ハロタン、エンフルラン、イソフルラン、セボフルラン)は有効血中濃度(Effective Dose:ED)、その10倍、100倍〜1000倍で、鎮静薬(プロポフォール、ミダゾラム、ジアゼパム、ケタミン)、鎮痛薬(モルヒネ、フェンタニール、ブプレノルフィン、ペンタゾシン)はED、その10倍、20〜50倍、100倍、200倍で比較した。細胞周期の実験では培養開始後0、24、48、72時間に[3H]チミジンを滴下し、それぞれ24時間の培養後(培養開始24、48、72、96時間後)の[3H]チミジンの取り込み量をMcNeilらの方法で測定した。その結果を基にG1-M期(DNA合成のピーク時)での肝細胞への[3H]チミジンの取り込み量を測定し検討した。さらに実験A、Bのバインディングアッセイの実験では[125I]HGF/SF、[125I]EGFを用いてレセプターとの結合量を測定した。また実験CではWroblewski-LaDue法に基いて培養液中のLDH放出量も測定した。

結果

 実験AではBUN、ALTについてのPPH/PVH比はいずれも約2倍、逆にGS活性のPVH/PPH比は9〜13倍であり、PPHとPVHの分離が十分であることが確認された。各々のDNA合成のtime courseを検討した結果ではPPH、PVHのG1-M期(DNA合成のピーク)は摂食、絶食下いずれも48〜72時間後であり有意差は見られなかった。次にそのG1-M期でのDNA合成量を比較した結果、摂食時のHGF/SFに対する反応性はPVHがPPHに比較して有意に高くなっていた。逆にEGFにおいてはPPHの方がPVHに比較して高い反応性がみられた。絶食ラット肝細胞では、全体に摂食時と比べて反応性が低下したが、EGF下ではさらに摂食時とは逆転してPVHがPPHより高い反応性を示した。これは主にPPHの反応性の大幅な低下によるものであった。更に[125I]HGF/SFレセプターバインディングアッセイの結果、摂食時、絶食時ともにPPH、PVH間に有意差は認めらなかった。[125I]EGFレセプターバインディングアッセイの結果においてもPPHとPVHとの間に有意差は認めらなかった。

 実験Bでの分離確認では、肝切除術後6〜48時間後のGS活性は2〜3倍、7日以降は6〜16倍PVHがPPHよりも高値を示した。肝切除後PPH、PVHのDNA合成のtime courseを肝切除後の採取時間毎に検討した結果、肝切後6時間と12時間後に採取したPPH、PVHのG1-M期(DNA合成のピーク時)はいずれも24時間早くなり24〜48時間であった。肝切後36時間以降に採取したPPH、PVHでは48〜72時間であった。HGF/SF、EGF添加下でも同様であった。更にG1-M期でのDNA合成量の推移を検討した結果、control(増殖因子非添加時)はPPH、PVHいずれも6時間後のもので最低であったが、最高値にはゾーネーション差異が見られPPHでは36時間後、PVHでは72〜96時間後採取のものが最高値を示した。増殖因子添加実験ではPPHは肝切除後12時間採取の肝細胞で最低で、36時間(HGF/SF添加時)、72〜96時間(EGF添加時)後のもので肝切前値にまで反応性が回復したのに対し、PVHではいずれも肝切6時間後のものが最低で、以後96時間〜1週間後にかけて徐々に回復した。バインディングアッセイの結果、PPH、PVH間の差はなかったがHGF/SFレセプター数は、肝切36時間後採取のもので最低値を示し、2週間後のものでほぼ正常に回復した。EGFレセプター数においてもPPH、PVH間では差はなかったが肝切後12時間で最低のバインディング量を示し、以後1ヵ月にかけて徐々に回復した。

 実験Cにおいて麻酔薬の肝細胞障害性を検討した結果、吸入麻酔薬ではEDの100倍以上で、ハロタンとイソフルランが残り2者に比べ高いLDH放出を示した。鎮静薬ではケタミン、鎮痛薬ではペンタゾシンが残り3者に比してEDの100倍以上で高いLDH放出を示した。ペンタゾシン以外の鎮痛薬はEDの100倍以上でも放出量が増加しなかった。PPHとPVHで比較するとLDH放出に差異は見られなかった。さらにDNA合成に及ぼす影響を検討した結果、吸入麻酔薬ではハロタン、鎮静薬ではケタミン、鎮痛薬ではペンタゾシンが最も強い抑制を示したが、ペンタゾシン以外の鎮痛薬はEDの200倍でも50%前後の抑制しかみられなかった。鎮静薬、鎮痛薬は全般に細胞障害の程度に比べDNA合成抑制が顕著であった。ゾーネーション差異は吸入麻酔薬においてはEDの100倍、鎮痛薬、鎮静薬においてはEDの10〜50倍で見られ、PPHに比ベPVHの方が有意にDNA合成が抑制された。同様の傾向は肝切後2週間以降でも認められたが、肝切後2週間以内は抑制率が高く薬物間の差は有意ではなかった。

考察

 実験AでBUN、ALT、GS活性を測定した結果、過去の報告と同様の傾向を示し、ゾーンによる差を検討するのに適切な分離採取ができていることが確認された。DNA合成のtime courseについては摂食、絶食時ともにPPH、PVH間で差異はなくDNA合成のピークは48〜72時間であった。そしてそのG1-M期のHGF/SF、EGFに対するDNA合成における反応性は48時間の絶食によって低下し、特にPPHのEGFへの反応性は48時間の絶食によって大きく減少することがわかった。絶食時には糖新生領域が静脈側に広がるといわれているが、増殖因子に対する反応性の減少、特にEGFに対するゾーネーションの反応性の変化は絶食時の合目的な機能分化の為である可能性が考えられた。さらにレセプターバインディングアッセイの結果、栄養状態による変化もゾーン間の変化もみられなかった為、HGF/SF、EGFに対する反応性の変化は細胞内の変化に由来することが考えられた。

 実験Bでみられた1週間以内のGS活性の減少は、肝再生期におけるGS産生細胞数の減少、または代謝機能の低下による特異的酵素分泌の減少等が考えられた。また肝切後12時間前後はG1-M期が早まり、細胞周期が短くなっていることが考えられた。G1-M期のDNA合成の推移ではcontrol(増殖因子非添加)での肝切除後のDNA合成能増加のピークはPPHの方がPVHよりも早いことは過去にも報告されているが、増殖因子添加時の推移をゾーンに分けて検討した報告はない。我々はHGF/SF、EGF添加後はPVHがPPHより早く最低値を示し、肝切前値までの回復は逆にPPHのほうがPVHよりも早いことを示した。以上より肝切除後の肝再生はゾーンによって異なり、増殖因子の有無や種類で変化することが考えられる。レセプターバインディングアッセイの結果ゾーネーション差異は顕著でなかったが、レセプター数は12時間前後で最も減少し、その回復には2週間以上かかった。したがって肝切除後12時間前後に採取した肝細胞ではG1-M期が早まり、DNA合成、レセプター数共に最も減少しており、12時間前後の肝細胞での増殖因子分泌増加後の増殖因子に対する反応性の低下は、レセプター数の減少で説明できる。しかし36時間以降は違いが見られ、レセプター数のゾーネーション差異もなかったことより、DNA合成における増殖因子への反応性は、レセプター以降の細胞内情報伝達系でも調節されていることが考えられた。

 実験Cの結果、吸入麻酔薬ではハロタンが肝細胞障害性、DNA合成抑制性ともに強く、鎮静薬の中ではケタミンが、鎮痛薬ではペンタゾシンが最も強力であった。モルヒネ、フェンタニール、ブプレノルフィンにおいては高濃度下でも肝細胞障害性、DNA合成抑制ともに少なかった。同様の傾向は肝切除後2週間以降においても認められた。この理由としては生体内に類似物質、内因性モルヒネ様物質(オピオイドペプチド)が常に存在し耐性があることが考えられた。また鎮静薬、鎮痛薬においては細胞障害の程度に比較してDNA合成抑制が顕著であり、肝切後2週間以内はDNA合成の抑制率が高く、肝再生時は麻酔薬に対する被障害性が亢進していることが考えられた。また一部の濃度のDNA合成抑制において、PVHがPPHよりも高い傾向が示されたが、これは肝細胞採取時に用いたペントバルビタールにより酵素誘導され、チトクロームP450が多く存在するPVHの被障害性が亢進している可能性が考えられた。肝移植術や肝切除術においては虚血や再循環といった極端な条件下で麻酔が行なわれる可能性があること、また高濃度の麻酔薬はDNA合成能を著しく抑制することより、肝再生時はより肝細胞障害性の少ない麻酔薬を、有効血中濃度の10倍未満で使用すべきであると思われた。

まとめ

 絶食によってDNA合成におけるHGF/SF、EGFに対する反応性は低下し、特にPPHのEGFへの反応性は48時問の絶食によって大きく減少した。また肝切除後12時間以内に採取した肝細胞DNA合成のtime courseは変化し、G1-M期が24〜48時間であった。そして肝切後の時間経過によるG1-M期のDNA合成の推移にはゾーネーション差異が見られた。しかしレセプターバインディングアッセイではゾーネーション差異は顕著でなく、肝切除後12時間前後で最も減少しレセプター数の回復にも2週間以上かかった。麻酔薬の肝細胞障害性、DNA合成抑制性においては吸入麻酔薬でハロタンが、鎮静薬の中ではケタミンが、鎮痛薬ではぺンタゾシンが最も強力であった。

審査要旨

 本研究は糖代謝時に見られる肝細胞のゾーネーションに着目し、栄養状態による増殖因子への反応性の違い、また肝切除後の肝細胞採取時間による細胞周期、増殖因子への反応性の推移、さらに鎮痛薬、鎮静薬を含めた様々な麻酔薬の肝細胞障害性と増殖に対する影響を知るために実験を行ったものであり、以下の結果を得ている。

 1.さまざまな栄養状態にさらされた肝細胞のゾーネーションが増殖にどのような影響を及ぼすかを検討した。まず分離細胞培養系におけるDNA合成のtime courseにおいては摂食、絶食時ともに門脈側肝細胞(Periportal Hepatocytes:PPH)、静脈側肝細胞(Perivenous Hepatocytes:PVH)間で差異はなくDNA合成のピーク(G1-M期)は48〜72時間であった。しかしHGF/SF、EGFに対するDNA合成における反応性は48時間の絶食によって低下し、特にPPHのEGFへの反応性は48時間の絶食によって大きく減少することがわかった。絶食時には糖新生領域が静脈側に広がるといわれているが、増殖因子に対する反応性の減少、特にEGFに対する各ゾーン間の反応性の変化は絶食時の合目的な機能分化の為である可能性が考えられた。さらにレセプターバインディングアッセイの結果、栄養状態による変化もゾーン間の変化もみられなかった為、HGF/SF、EGFに対する反応性の変化は細胞内の変化に由来すると考えられた。

 2.再生時のゾーネーションによる増殖因子への反応性とその推移について明らかにするために、肝切後6時間から1カ月経過したラットより採取したPPH、PVHにおいてDNA合成、レセプターの推移を検討した。まず肝切除後2週間以内に採取した肝細胞においては特異的酵素の分泌が減少しており、ゾーネーションの形成が十分でない可能性が考えられた。肝切後12時間以内はG1-M期が早まり、細胞周期が短くなっており、G1-M期のDNA合成の推移ではcontrol(増殖因子非添加)での肝切除後のDNA合成能増加のピークは、過去の報告と同様PPHがPVHより早期に出現した。しかし増殖因子添加時の推移をゾーンに分けて検討した報告はなく、我々はHGF/SF、EGF添加後はPVHがPPHより早く最低値を示し、肝切前値までの回復は逆にPPHのほうがPVHよりも早いことを示した。以上より肝切除後の肝再生はゾーンによって異なり、増殖因子の有無や種類で変化することが考えられた。レセプターバインディングアッセイの結果ゾーネーション差異は顕著でなかったが、レセプター数は12時間前後で最も減少し、その回復には2週間以上かかった。したがって肝切除後12時間前後に採取した肝細胞では、増殖因子分泌増加後の増殖因子に対する反応性の低下は、レセプターの減少で説明できる。しかし回復時間には違いが見られ、レセプターの回復はDNA合成の回復より1週間以上遅れており、DNA合成における増殖因子への反応性の増加はレセプターの増加では説明できない。また肝切後のレセプター数においてもゾーンによる差は認めなかったことより、DNA合成における増殖因子への反応性の違いは、レセプター以降の細胞内情報伝達系でも調節されている可能性が考えられた。

 3.麻酔薬の肝細胞障害性と肝臓切除術後、肝再生期における麻酔薬の影響を知る為に、LDH濃度とDNA合成量を測定し検討した。吸入麻酔薬ではハロタンが肝細胞障害性、DNA合成抑制性ともに強く、鎮静薬の中ではケタミンが、鎮痛薬ではペンタゾシンが最も強力であった。モルヒネ、フェンタニール、ブプレノルフィンにおいては高濃度下でも肝細胞障害性、DNA合成抑制ともに少なかった。同様の傾向は肝切除後2週間以降においても認められた。この理由としては生体内に類似物質、内因性モルヒネ様物質(オピオイドペプチド)が常に存在し耐性があることが考えられた。また鎮静薬、鎮痛薬においては細胞障害の程度に比較してDNA合成抑制が顕著であった。そして肝切後2週間以内はDNA合成の抑制率が高くなっており、肝再生時は麻酔薬に対する被障害性が亢進していることが考えられた。また一部の濃度のDNA合成抑制において、PVHがPPHよりも高い傾向が示されたが、これは肝細胞採取時に用いたペントバルビタールにより酵素誘導が起こり、チトクロームP450が多く存在するPVHの被障害性が亢進している可能性が考えられた。肝移植術や肝切除術においては虚血や再循環といった極端な条件下で麻酔が行なわれる可能性があること、また高濃度の麻酔薬はDNA合成能を著しく抑制することより、肝再生時はより肝細胞障害性の少ない麻酔薬を、有効血中濃度の10倍未満で使用すべきであると思われた。

 以上、本論文は摂食、絶食状態がPPH、PVHの増殖因子への感受性に影響することがどのような関係にあるのか、また肝切除後の増殖因子への反応性のゾーネーション差異やその推移、さらに麻酔薬の肝細胞障害性と増殖に対する影響について明らかにした。本研究はこれまで未知であった肝細胞のゾーネーションと増殖、肝再生時の増殖因子への反応性のゾーネーション差異とその推移、また肝臓手術後の麻酔薬の影響の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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