学位論文要旨



No 213676
著者(漢字) 村上,弘次
著者(英字)
著者(カナ) ムラカミ,コウジ
標題(和) 毛カビRhizomucor pusillusの糖鎖付加変異株の解析および糖鎖の構造分析
標題(洋)
報告番号 213676
報告番号 乙13676
学位授与日 1998.02.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第13676号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堀之内,末治
 東京大学 教授 高木,正道
 東京大学 教授 北本,勝ひこ
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 助教授 吉田,稔
内容要旨

 チーズ製造の第一段階である凝乳工程には、凝乳酵素(レンネット)と呼ばれるアスパラギン酸プロテアーゼが用いられてきた。凝乳酵素は牛乳中のミセル保護に寄与している-カゼインに働いて、100余りのアミノ酸残基からなるポリペプチド鎖のただ1箇所存在するPhe105-Met106のペプチド結合を特異的に切断し、ミルクを凝固させる。凝乳酵素は、-カゼインに対して高い基質特異性と低いプロテアーゼ活性を示すという特徴を兼ね備えていることが必須であり、数多くのプロテアーゼの中でも凝乳酵素と呼ばれるものはごくわずかに過ぎない。

 チーズ製造に利用され、酵素学的にも長い歴史をもつキモシンは、生後1〜2週間の子ウシの第4胃からのみ採取される。しかし、近年の世界的な肉需要の増大に伴ってキモシンの供給不足が深刻となり、代替凝乳酵素を他の生物資源に求める研究が行われた。1967年、Arimaらにより約1,000株におよぶ土壌分離菌のスクリーニングの結果、毛カビに属するRhizomucor pusillus(以前は、Mucor pusillusに分類されていた)が分泌するアスパラギン酸プロテアーゼであるムコールレンニン(以下MPPと略す)が凝乳酵素として見出された。チーズの製造試験の結果、ムコールレンニンを用いて作製したチーズはキモシンを用いた場合と同等の商品価値を持ち、かつ工業規模でも充分製造可能であることが確認された。R.pusillus由来レンニンに加え、R.mieheiの生産するレンニンも工業的に実用化され、これら代替凝乳酵素は、現在世界のチーズ製造に広く利用されている。

 本論文ではまず毛カビRhizomucor pusillus IFO4578株よりクローニングされたMPP遺伝子を黄麹菌Aspergillus oryzaeに導入し、組換え発現したMPP蛋白質の糖鎖の解析を行った。MPP遺伝子のDNA塩基配列から推定されるアミノ酸1次配列上には、3カ所のアスパラギン結合型糖鎖付加部位(Asn79-Ile-Thr,Asn113-Val-Ser,Asn188-Asn-Thr)が存在する。酵母Saccharomyces cerevisiaeの発現系を用いた解析結果からはAsn79およびAsn188の2個所にアスパラギン結合型糖鎖が付加されていることが示されているが、黄麹菌を宿主に発現させた場合も同じアスパラギン残基に糖鎖が付加されていることが判った。また、黄麹菌由来MPPは酵母由来MPPと同じくR.pusillus IFO4578株が産生するMPPよりも過剰にマンノースが付加された糖鎖を有していた。酵母発現系においては、MPPに付加されたアスパラギン結合型糖鎖の本数が増えるに従い凝乳活性が低下し逆にプロテアーゼ活性が上昇した。一方本実験では、発現宿主を変えることによりマンノース含量の異なる糖鎖を持つMPPが得られたことから、糖鎖の大きさがMPP酵素活性に与える影響について検討した。その結果、マンノース含量が多く糖鎖が大きいほど凝乳活性が低下し逆にプロテアーゼ活性が上昇することが判った。いずれの実験結果においても糖鎖を持たないMPPおよび市販のMPPは糖鎖を有するMPPよりも凝乳活性が高くプロテアーゼ活性は低かった。以上のようにMPPに付加されたアスパラギン結合型糖鎖はその凝乳活性やプロテアーゼ活性などの酵素活性に大きく影響を与えていることが判った。

 次に市販のMPPにはほとんど糖が含まれていないという知見を基に、分泌されたMPPの分子量の低下を指標に研究室保存株を検索した結果、市販のMPPと同程度まで分子量が低下したMPPを分泌する株R.pusillus No.1116を見出した。SDS-ポリアクリルアミド電気泳動解析より、No.1116株は3種のMPP分子を分泌していることが示された。糖鎖遊離酵素の基質特異性や、レクチンとの結合性、糖組成分析などの分析結果から、No.1116株の分泌する3種のMPP分子のうち、分子量の大きな2分子については小型の糖鎖(Man0〜1GlcNAc2)が付加されていることが判った。また最も分子量の小さなMPP分子には全く糖が付加されていないことが判明した。さらに、糖鎖プロセッシング酵素阻害剤を用いた解析や細胞融合法による変異形質の遺伝解析の結果から、この小型の糖鎖(Man0〜1GlcNAc2)はMPP蛋白に付加された糖鎖が切断されて生じたのではなく、小型の糖鎖が直接MPP蛋白に転移された結果であることが示唆された。したがって、このアスパラギン結合型糖鎖付加変異株No.1116は、アスパラギン結合型糖鎖の前駆体である糖結合型ドリコールの生合成経路に変異が生じた株であると類推される。酵母においても同様な小型の糖鎖が転移される変異株(alg1,alg2)が取得されているが、これらの変異株が温度感受性変異株であるのに対し、本研究で見い出されたR.pusillus No.1116株の変異形質は条件致死変異ではない点、大変興味深い。また前述のようにMPPは糖含量が減少するに従い、プロテアーゼ活性が低下し逆に凝乳活性が上昇するという、凝乳酵素として好適な条件が高まる。市販MPPの産生株は本実験で示したNo.1116株とは同じ株ではないが、両株ともR.pusillus F27の派生株であることから、アスパラギン結合型糖鎖付加における遺伝的背景は同じである可能性は高い。従って、市販MPPの産生株においてアスパラギン結合型糖鎖に変異が生じてMPPの糖含量が低下したのは、凝乳活性の上昇を指標に変異操作を繰り返した結果によるものなのかも知れない。

 酵母や黄麹菌などの宿主を用いたMPPの発現研究から、R.pusillus IFO4578株の産生するMPPにはMan5GlcNAc2分子程度の比較的小型のアスパラギン結合型糖鎖が付加されていることが推定された。そこで、アルカリ条件下におけるMPP自己消化反応を利用して、Asn79およびAsn188に付加されたアスパラギン結合型糖鎖を含む糖ペプチドを別々に分離精製した。N-Glycanaseにより両糖鎖を切り出した後、ピリジルアミノ化標識してHPLCにより分析した。サイズフラクショネーションHPLCおよび逆相HPLC分析を用いた2次元マップ解析から、R.pusillus IFO4578株由来MPPのAsn79にはMan5GlcNAc2、Asn188にはMan5GlcNAc2およびMan6GlcNAc2のアスパラギン結合型糖鎖糖鎖が付加されていることが明らかとなった。これらの糖鎖は動物細胞由来のハイマンノース型糖鎖にも見られる構造であることから、R.pusillusは動物細胞由来糖蛋白質の発現宿主として有望であると考えられる。

審査要旨

 毛カビRhizomucor pusillusが分泌するムコールレンニン(以下MPPと略す)は、チーズ製造における凝乳酵素として実用化されており、牛乳中のミセル保護に寄与している-カゼインに1箇所存在するPhe105-Met106のペプチド結合を特異的に切断し、ミルクを凝固させる。本論文ではMPPについて分子生物学的、生化学的手法を用い、付加された糖鎖と酵素活性の関連およびその糖鎖の構造を明らかにしている。また、R.pusillusにおいて糖鎖付加変異株を見い出し、生化学的、遺伝学的解析法を用いて、その変異形質を明らかにしている。

1)R.pusillus由来MPP遺伝子の黄麹菌Aspergillus oryzaeにおける発現

 毛カビR.pusillus IFO4578株よりクローニングされたMPP遺伝子を黄麹菌A.oryzaeに導入し、菌体外にMPPが分泌されることを示した。発現した黄麹菌由来MPPの糖鎖を解析し、Asn79およびAsn188の2個所にR.pusillus IFO4578株由来MPPよりも過剰にマンノースが付加されたアスパラギン結合型糖鎖が付加されていることを示した。さらに、過剰にマンノースが付加された酵母や黄麹菌由来MPPを用いて糖鎖と酵素活性の関連を解析し、糖鎖が大きくなるにしたがって凝乳活性が低下し逆にプロテアーゼ活性が上昇することを示した。以上の結果から、MPPに付加されたアスパラギン結合型糖鎖の大きさがその凝乳活性やプロテアーゼ活性などの酵素活性に大きく影響を与えていることが明らかになった。

2)R.pusillus由来アスパラギン結合型糖鎖付加変異株の解析

 市販のMPPにはほとんど糖が含まれていないという知見を基に、分泌されたMPPの分子量の低下を指標に研究室保存株を検索し、市販のMPPと同程度まで分子量が低下した3種のMPPを分泌する株R.pusillus No.1116を見出した。糖鎖遊離酵素の基質特異性や、レクチンとの結合性、糖組成分析などの分析により、No.1116株の分泌する3種のMPP分子のうち、分子量の大きな2分子については小型の糖鎖(Man0〜1GlcNAc2)が付加されており、最も分子量の小さなMPP分子には全く糖が付加されていないことを示した。さらに、糖鎖プロセッシング酵素阻害剤を用いた解析や細胞融合法による変異形質の遺伝解析の結果から、この小型の糖鎖(Man0〜1GlcNAc2)はMPP蛋白に付加された糖鎖が切断されて生じたのではなく、小型の糖鎖が直接MPP蛋白に転移された結果であることを示した。したがって、このアスパラギン結合型糖鎖付加変異株No.1116は、アスパラギン結合型糖鎖の前駆体である糖結合型ドリコールの生合成経路に変異が生じた株であると推定された。

3)R.pusillus由来MPPに付加されたアスパラギン結合型糖鎖の構造解析

 R.pusillus IFO4578株の産生するMPPの糖鎖構造を解析するため、アルカリ条件下における自己消化反応を利用して、Asn79およびAsn188に付加されたアスパラギン結合型糖鎖を含む糖ペプチドを別々に分離精製した。N-glycanaseにより両糖鎖を切り出した後、ピリジルアミノ化標識してサイズフラクショネーションHPLCおよび逆相HPLC分析を用いた2次元マップ解析を行った結果、R.pusillus IFO4578株由来MPPのAsn79にはMan5GlcNAC2、Asn188にはMan5GlcNAc2およびMan6GlcNAc2のアスパラギン結合型糖鎖が付加されていた。したがって、接合菌類の糖鎖のプロセッシングは哺乳類のそれに類似している。

 以上、本論文はチーズ製造に凝乳酵素として用いられている毛カビR.pusillus由来MPPに付加された糖鎖の機能および構造について分子生物学的、生化学的に詳細な検討を加えている。またR.pusillus由来の糖鎖付加変異株を見い出し、生化学的、遺伝学的に詳細な検討を加えたものである。これらは学術上、産業的応用上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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