学位論文要旨



No 213680
著者(漢字) 小林,直之
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,ナオユキ
標題(和) ビール釀造における仕込工程中の脂質酸化反応に関する研究
標題(洋)
報告番号 213680
報告番号 乙13680
学位授与日 1998.02.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第13680号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山崎,素直
 東京大学 教授 松澤,洋
 東京大学 教授 北本,勝ひこ
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 助教授 大久保,明
内容要旨

 ビール醸造において、原料由来の脂質およびその分解物は、ビール品質に影響を与えることが知られており、醸造工程中でこれらの挙動を正確に把握することは重要な課題となっている。近年、仕込工程中の脂質酸化、特に不飽和脂肪酸の酸化は醸造の分野で大きな注目を集めているが、脂質が複数の経路で変化を受けることおよび脂質以外の多くの成分も同時に変化を受けていることなどのため、工程中の実際の変化機構を把握することはきわめて難しいのが現状である。このため、仕込工程中の脂質酸化反応については明らかになっていない部分が多く残されている。本研究では、ビール仕込工程における脂質過酸化の実体を把握するために、仕込工程中で生成する脂質過酸化物(以下、ヒドロペルオキシド)を直接定量することを目的として、近年、生化学研究に応用され始めたHPLC-化学発光検出法を導入し、高感度・高選択性のヒドロペルオキシド分析に応用した。本検出原理は、HPLCにて分離したヒドロぺルオキシドをミクロペルオキシダーゼと反応させ、これによって生じた活性酸素がイソルミノールを酸化して生成する発光体を化学発光検出器にて検出するものである(図1)。

図1 HPLC-化学発光検出法の原理

 本研究ではこのHPLC-化学発光検出を応用して、醸造の分野ではじめて、麦芽およびマイシェ中の脂肪酸ヒドロペルオキシドの定量分析を行った。麦芽およびマイシェ中にはリノール酸ヒドロぺルオキシドとリノレン酸ヒドロペルオキシドが検出され、これらの脂肪酸ヒドロぺルオキシドは麦芽中には痕跡程度であったが、マイシェ中には多量に存在した。さらに、脂肪酸ヒドロぺルオキシドは糖化工程後の麦汁ろ過工程および煮沸工程までの麦汁には検出されなかったことから、糖化工程が脂質酸化反応にとって重要であることが分った(表1)。

表1 仕込工程中の脂肪酸ヒドロペルオキシド*表中の値は平均値、±は標準偏差(n=3)、**検出されず(not detected)

 そこで、実験室スケールで糖化工程中の脂肪酸ヒドロぺルオキシドの挙動を追跡した(図2)。リノール酸およびリノレン酸ヒドロぺルオキシドはともに、糖化開始直後から増加しはじめ、65℃、10分後に最大値に達し、その後は減少した。この生成パターンにおいて、48℃、10分後にショルダーが見られた。両ヒドロぺルオキシドは同様の生成パターンを示したが、リノール酸ヒドロぺルオキシド濃度はリノレン酸ヒドロペルオキシド濃度の約6倍であった。この脂肪酸ヒドロぺルオキシド生成量は糖化工程中のリポキシゲナーゼ活性の増減に伴って増減したことから、糖化工程中の脂質酸化には麦芽中のリポキシゲナーゼの寄与が大きいことが明らかとなった(表2)。

図2 実験室仕込スケールにおける糖化工程中のヒドロペルオキシドの挙動○、リノール酸ヒドロペルオキシド;△、リノレン酸ヒドロペルオキシド;-、糖化温度表2 糖化工程中のリポキシゲナーゼ活性と脂肪酸ヒドロぺルオキシド生成量の関係

 糖化工程中のリポキシゲナーゼの作用については、これまで工程中の酵素活性や基質(リノール酸など)の挙動のみから、脂質酸化には寄与しないとする考えが有力とされてきたが、本研究で実際の糖化工程中の脂質酸化反応の第一次生成物の挙動を追跡した結果、リポキシゲナーゼの脂質酸化への寄与が大きいことが明らかとなり、従来の考えを否定する新たな知見が得られた。

 本研究により、糖化工程中の脂肪酸ヒドロぺルオキシドの詳細な挙動がはじめて明らかとなったが、脂肪酸ヒドロぺルオキシドの生成量が最大になる時点(糖化65℃、10分後)では、リポキシゲナーゼは既に失活していた。この結果から、「脂質の酸化過程が従来いわれているような単純なプロセスではなく、ヒドロぺルオキシド生成は脂肪酸レベル以外に脂質レベルでも起こっているのではないか?」と考え、HPLC-化学発光検出法を応用して糖化工程中の脂質ヒドロぺルオキシドを分析した。その結果、トリリノレインなどのトリグリセリド系の複数の脂質ヒドロぺルオキシドがマイシェ中のみならず麦芽中にも相当量検出された。糖化工程中のリポキシゲナーゼ活性、脂質ヒドロぺルオキシド、脂肪酸ヒドロぺルオキシドおよび脂肪酸の挙動を同時に追跡した結果(図3)、脂質ヒドロぺルオキシドおよび脂肪酸ヒドロぺルオキシド量は酵素活性量に伴い増減した。脂質ヒドロぺルオキシドは、麦芽中に多量に存在し、糖化開始直後に一度増加するがその後は徐々に減少した。一方、脂肪酸は工程中で、糖化温度の上昇と共に徐々に増加していき、糖化温度が65℃に達した時点で、最も顕著な増加を示したが、この時、脂肪酸ヒドロぺルオキシドも顕著な増加を示した。糖化工程中で脂質ヒドロぺルオキシドの最大ピークが脂肪酸ヒドロぺルオキシドの最大ピークに先行して観察されたことは、脂質ヒドロぺルオキシドから脂肪酸ヒドロペルオキシドが遊離するために観察される現象であると推察した。この現象は、糖化工程中において脂質の加水分解反応と酸化反応の両者の組み合せに基づいていることから、麦芽由来のリパーゼおよびリポキシゲナーゼの相乗作用としてとらえることが重要であると考え、以下に仕込工程中の脂質酸化反応機構を考察した。

図3 糖化工程中のリポキシゲナーゼ活性(I)、トリリノレインヒドロペルオキシド(II)、リノール酸ヒドロぺルオキシド(III)、リノール酸(IV)の挙動○、麦芽X;△、麦芽Y;-、糖化温度

 これまで、仕込工程中の脂質酸化反応機構としては、麦芽中の脂質から不飽和脂肪酸が遊離して、これらがリポキシゲナーゼによる酵素酸化および自動酸化によって脂肪酸ヒドロペルオキシドになる経路のみが考えられていた(図4A)。しかし、糖化工程中でヒドロぺルオキシドが示した生成パターンはこの反応機構のみでは説明できなかった。そこで著者は、本研究の結果をもとに、新たな脂質酸化反応機構を考察した。製麦工程および糖化工程の初期段階で、麦芽中に存在するトリグリセリド等の脂質に含まれる不飽和脂肪酸がリポキシゲナーゼあるいは自動酸化によって酸化され、様々な脂質ヒドロペルオキシドが生成する。この反応で、ヒドロぺルオキシド生成量は麦芽および糖化工程中のリポキシゲナーゼ活性に大きく依存することから、リポキシゲナーゼによる酸化は自動酸化よりも優位に起こると考えた。糖化工程の進行に伴い、リパーゼの作用により脂質ヒドロぺルオキシドから脂肪酸ヒドロぺルオキシドが遊離する。つまり、仕込中の脂質酸化反応は、従来の経路に加えて、脂質の自動酸化またはリポキシゲナーゼによる酸化により生成した脂質ヒドロぺルオキシドからのリパーゼによる脂肪酸ヒドロペルオキシドの遊離という反応経路(図4B)が存在することを示した。

図4 仕込工程中の脂質酸化反応機構

 以上本研究では、仕込工程という複雑な成分系における脂質酸化反応に関して、麦芽酵素リポキシゲナーゼが重要な役割を演じること、また脂肪酸酸化以外に脂質酸化という新たな反応機構が存在することをはじめて実験的に証明した。

審査要旨

 ビール醸造において、原料由来の脂質およびその分解物は、香味、泡もちなどのビール品質に影響を与えることが知られており、醸造工程中でこれらの挙動を正確に把握することは重要な課題となっている。近年、仕込工程中の脂質酸化、特に不飽和脂肪酸の酸化は大きな注目を集めているが、脂質が複数の経路で変化を受けること、および脂質以外の多くの成分も同時に変化を受けることなどのため、実際の変化機構を把握することは極めて難しく、このため仕込工程中の脂質酸化反応については明らかとなっていない部分が多い。本論文は、仕込工程中の脂質酸化の実態を把握するために、醸造研究の分野ではじめて脂質酸化の第一次生成物である脂質過酸化物(ヒドロぺルオキシド)の直接分析を行い、仕込工程中での挙動を明らかにしたもので、5章からなる。

 第1章では、本研究の目的およびその背景である醸造分野での脂質酸化研究の現状を述べた。一般に、食品中の脂質過酸化生成物の検出には、チオバルビツール酸(TBA)法や共役ジエン法などが用いられるが、これらは検出が特異的でないこと、また醸造工程中の様々な成分によって測定を妨害されることなどのために、仕込工程のような複雑な系における脂質過酸化物の正確な定量分析は全く行われていなかった。本研究でこの点を解明することを目的とした。

 第2章では、脂質類のヒドロペルオキシド検出法として近年開発されたHPLC-化学発光検出法を導入し、仕込工程中のヒドロペルオキシドの高感度・高選択性定量分析法を確立した。試料抽出法およびHPLC分離条件を最適化し、本検出法を適用することにより実際の仕込工程の試料(マイシェ、麦汁)中のリノール酸ヒドロペルオキシドおよびリノレン酸ヒドロペルオキシドをMレベルで定量分析することができた。その結果、これらの脂肪酸ヒドロペルオキシドは、仕込前半の糖化工程では多量に存在したが、仕込後半の麦汁ろ過工程および煮沸工程では検出されなかったことから、仕込工程中の脂質酸化反応においては糖化工程が重要であることを示した。

 第3章では、糖化工程中の脂肪酸ヒドロペルオキシドの生成に実際の仕込条件がどのような影響を与えるかを検討した。糖化工程中の脂肪酸ヒドロペルオキシド生成量は麦芽由来の脂質酸化酵素リポキシゲナーゼ活性の増減に伴い増減したことから、糖化工程中の脂質酸化には当該酵素の寄与が大きいことを示した。これまで仕込工程中の脂質酸化反応が酵素酸化で進行するのか、自動酸化が関与するのかについては醸造研究者の間に多くの論争があり、リポキシゲナーゼは脂質酸化には寄与しないとする考えが有力であった。本論文は、糖化工程中の脂質酸化の第一次反応生成物の挙動から、この説(リポキシゲナーゼが関与しないこと)を否定し、工程中の脂質酸化には酵素酸化の寄与が大きいことを示した。

 第4章では、仕込工程中の脂質酸化反応機構を考察した。これまで仕込工程中の脂質酸化反応機構としては、まず、麦芽中の脂質から不飽和脂肪酸が遊離して、これらがリポキシゲナーゼによる酵素酸化または自動酸化によって脂肪酸ヒドロペルオキシドになる経路のみが考えられていた。しかし、糖化工程中で示したヒドロペルオキシドの挙動から、工程中の脂質酸化反応は、従来の経路に加えて、脂質のリポキシゲナーゼによる酸化または自動酸化により生成した脂質ヒドロペルオキシドからのリパーゼによる脂肪酸ヒドロペルオキシドの遊離という新たな経路が主要経路として存在することを示した。

 第5章では、研究の要約および今後の展望について述べた。これまでの研究結果に基づいて、ビール香味を向上させる醸造技術の可能性の1つとして、仕込工程中のリポキシゲナーゼ活性を抑制するような醸造方法(リポキシゲナーゼ活性の低い麦芽を使用する等)を提案した。

 以上、本論文は、ビール醸造における仕込工程という複雑な系での成分研究において、仕込工程中の脂質酸化反応を分子レベルで解析し、その過程で麦芽酵素リポキシゲナーゼが重要な役割を演ずること、および脂肪酸酸化以外に脂質の直接酸化という新たな主要反応機構が存在することをはじめて証明したもので、醸造分野のみならず広く食品における酸化機構を理解する有用な知見を提供しており、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク