ビール醸造において、原料由来の脂質およびその分解物は、香味、泡もちなどのビール品質に影響を与えることが知られており、醸造工程中でこれらの挙動を正確に把握することは重要な課題となっている。近年、仕込工程中の脂質酸化、特に不飽和脂肪酸の酸化は大きな注目を集めているが、脂質が複数の経路で変化を受けること、および脂質以外の多くの成分も同時に変化を受けることなどのため、実際の変化機構を把握することは極めて難しく、このため仕込工程中の脂質酸化反応については明らかとなっていない部分が多い。本論文は、仕込工程中の脂質酸化の実態を把握するために、醸造研究の分野ではじめて脂質酸化の第一次生成物である脂質過酸化物(ヒドロぺルオキシド)の直接分析を行い、仕込工程中での挙動を明らかにしたもので、5章からなる。 第1章では、本研究の目的およびその背景である醸造分野での脂質酸化研究の現状を述べた。一般に、食品中の脂質過酸化生成物の検出には、チオバルビツール酸(TBA)法や共役ジエン法などが用いられるが、これらは検出が特異的でないこと、また醸造工程中の様々な成分によって測定を妨害されることなどのために、仕込工程のような複雑な系における脂質過酸化物の正確な定量分析は全く行われていなかった。本研究でこの点を解明することを目的とした。 第2章では、脂質類のヒドロペルオキシド検出法として近年開発されたHPLC-化学発光検出法を導入し、仕込工程中のヒドロペルオキシドの高感度・高選択性定量分析法を確立した。試料抽出法およびHPLC分離条件を最適化し、本検出法を適用することにより実際の仕込工程の試料(マイシェ、麦汁)中のリノール酸ヒドロペルオキシドおよびリノレン酸ヒドロペルオキシドをMレベルで定量分析することができた。その結果、これらの脂肪酸ヒドロペルオキシドは、仕込前半の糖化工程では多量に存在したが、仕込後半の麦汁ろ過工程および煮沸工程では検出されなかったことから、仕込工程中の脂質酸化反応においては糖化工程が重要であることを示した。 第3章では、糖化工程中の脂肪酸ヒドロペルオキシドの生成に実際の仕込条件がどのような影響を与えるかを検討した。糖化工程中の脂肪酸ヒドロペルオキシド生成量は麦芽由来の脂質酸化酵素リポキシゲナーゼ活性の増減に伴い増減したことから、糖化工程中の脂質酸化には当該酵素の寄与が大きいことを示した。これまで仕込工程中の脂質酸化反応が酵素酸化で進行するのか、自動酸化が関与するのかについては醸造研究者の間に多くの論争があり、リポキシゲナーゼは脂質酸化には寄与しないとする考えが有力であった。本論文は、糖化工程中の脂質酸化の第一次反応生成物の挙動から、この説(リポキシゲナーゼが関与しないこと)を否定し、工程中の脂質酸化には酵素酸化の寄与が大きいことを示した。 第4章では、仕込工程中の脂質酸化反応機構を考察した。これまで仕込工程中の脂質酸化反応機構としては、まず、麦芽中の脂質から不飽和脂肪酸が遊離して、これらがリポキシゲナーゼによる酵素酸化または自動酸化によって脂肪酸ヒドロペルオキシドになる経路のみが考えられていた。しかし、糖化工程中で示したヒドロペルオキシドの挙動から、工程中の脂質酸化反応は、従来の経路に加えて、脂質のリポキシゲナーゼによる酸化または自動酸化により生成した脂質ヒドロペルオキシドからのリパーゼによる脂肪酸ヒドロペルオキシドの遊離という新たな経路が主要経路として存在することを示した。 第5章では、研究の要約および今後の展望について述べた。これまでの研究結果に基づいて、ビール香味を向上させる醸造技術の可能性の1つとして、仕込工程中のリポキシゲナーゼ活性を抑制するような醸造方法(リポキシゲナーゼ活性の低い麦芽を使用する等)を提案した。 以上、本論文は、ビール醸造における仕込工程という複雑な系での成分研究において、仕込工程中の脂質酸化反応を分子レベルで解析し、その過程で麦芽酵素リポキシゲナーゼが重要な役割を演ずること、および脂肪酸酸化以外に脂質の直接酸化という新たな主要反応機構が存在することをはじめて証明したもので、醸造分野のみならず広く食品における酸化機構を理解する有用な知見を提供しており、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |