学位論文要旨



No 213698
著者(漢字) 森永,実
著者(英字)
著者(カナ) モリナガ,マコト
標題(和) 原子線ホログラフィー
標題(洋)
報告番号 213698
報告番号 乙13698
学位授与日 1998.02.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13698号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,富士夫
 東京大学 教授 伊藤,良一
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 教授 渡部,俊太郎
 東京大学 助教授 五神,真
内容要旨

 原子が粒子性に加えて波動性を持つことは前期量子論により予言され、理論的には量子力学の成立とともに確立したと言ってよい。そして幾つかの検証実験が行われたが、その極めて短い波長故に原子の波動性を実用に用いることなど長い間思いもよらなかった。実際室温の原子のドブロイ波長は10pmオーダーと極めて短い。

 しかし1980年代になってレーザー冷却法が発明、実用化されるとアルカリ金属、希ガスなど幾つかの原子種ではK程度にまで冷えた原子集団が比較的容易に得られるようになり、そのドブロイ波長はサブミクロン程度と可視光の波長に迫るようになった。それに伴い実際に原子波の干渉で干渉計を作る研究が盛んに行われるようになった。そして原子光学と呼ばれる原子の「光学系」の研究が一つの分野として確立するまでになったが、背景としてX線用の透過型光学素子製造技術が進歩し原子光学に転用されるようになったことも見逃せない。

 光学において凸レンズが作れることは一つの大きなポイントである。しかし、安定な中性原子の場合不幸にして、電磁気的な静的ポテンシャルによって凸レンズを作ることは出来ないことが知られている。そこで現在原子光学において実用的な凸レンズを開発することが急務となっている。

 今回我々はさらに一歩踏み込んでホログラフィーを原子に適用することを世界で初めて試みた。一般にホログラフィーは任意の波面を作り出せる技術という点で波動光学における最も汎用性の高い手法である。

 このため原子線ホログラフィーは一般的な像再生以外にも原子レンズ、ビームスプリッター、ミラー等あらゆる原子光学素子への応用が可能で、今後の発展が期待される。

1平面波ホログラムから球面波ホログラムへ

 我々は手始めとして透過型計算機ホログラムを用いて原子波で簡単な文字("F")の再生をする予備実験に成功した。その際明らかになった主な課題は次の2点である:

分解能が低い

 原子のホログラムでの回折を計算する際にフラウンホーファー回折で近似したが、実際の実験ではこの近似は成り立っていない。すなわちホログラムに入射する原子波は球面波であり、ホログラム自身はビームを収束させる"機能"を持たないので、ホログラムを透過した原子波は広がっていく一方で像がぼやけてしまう。そこで実験ではピンホールをホログラムの直下に置いてビーム径を制限しており、ピンホールの直径(0.2mm)が再生像の分解能を決めている("ピンホールホログラフィー")。

描画できる面積が狭い

 再生された像には、ホログラムのセル(穴を開けうる位置)間隔による回折に対応する繰り返し周期(基本周期)より更に4倍細かい(擬)周期が現れており、このため描ける"絵"の大きさが制限されている。このように高次の回折像が現れるのは中間階調を表現するのに便宜上連続する4つのセルをひとまとめに考え、5階調表現を行っていたためである。

 階調表現をうまく行えば高次の回折像は現れず、基本周期いっぱいに絵を描くことができるはずである。

2球面波ホログラムの設計

 以上のような点を踏まえ、新しいホログラムの設計を行った。それぞれに対する対応策は次の通りである:

凸レンズの機能をホログラムに組み込む

 第1の問題点は光の場合はホログラムをコリメート・フォーカス用の2枚の凸レンズではさめば解消する話である。しかし中性原子の場合、静電磁的ポテンシャルによる軸回転対称な結像系は常に凹であることが知られており、凸レンズを作ることがそもそも困難である。そこでホログラムのパターン計算の際に凸レンズの機能も同時にパターンに埋め込んでしまうことにした。要はフラウンホーファー回折近似の代わりにフレネル回折近似を用いるのである。

1セルで階調を表現する

 第2の問題点は階調を表現する基本単位が大きいために生じるのであるからセル1つで階調を表現すればよい。具体的にはまず理想的な透過率を計算しておき、各点(セルサイト)で2値のサイコロを例えば理想透過率が0.6の点では1が0.6の確率で出るような方法で振り、1が出たら穴を開けるようにするのである。この方法はセル間隔があまり細かくできないときに、位置分解能と中間階調の双方をある程度満足に実現する方法として有効である。

3実験・結果・考察

 実験方法は前回とほぼ同じである。すなわちレーザー冷却・トラップしている原子を光ポンピングにより解放し、重力落下させホログラムで回折した原子を下方に置かれたMCP(スクリーン)で2次元的に検出する(図1)。

 使用したホログラムはいずれも1024×1024セル、焦点距離240mm前後のもので、分解能を調べるために設計した第1のホログラム(セル間隔500nm)で得られた分解能は約60m(図2)、解像度(像の大きさ/分解能)を調べるために設計した第2のホログラムで得られた解像度は約150であった(図3)。

 現在のところ実験上の分解能は原子源の有限な大きさとMCPの分解能でほぼ決まっている。点原子源の場合の再生像の理論分解能は回折限界なので、(1)ホログラムをスクリーンに近づけその上にできる原子源の像が1:40程度の縮小像になるようにする、(2)検出器としてMCPの替わりに高感度フォトレジストを用いる、等のことを行えば光の波長を切る分解能の達成もそれほど難しくないと考えられる。

図1図2a図2b図3
参考文献[1]"Manipulation of an atomic beam by a computer-generated hologram"J.Fujita,M.Morinaga,T.Kishimoto,M.Yasuda,S.Matsui,and F.Shimizu:Nature 380,691(1996)[2]"Holographic Manipulation of a Cold Atomic Beam"M.Morinaga,M.Yasuda,T.Kishimoto,F.Shimizu,J.Fujita,and S.Matsui:Phys.Rev.Lett.77,802(1996)[3]"原子線ホログラフィー"森永実、藤田淳一、松井真二、清水富士夫:応用物理65,912(1996)
審査要旨

 この論文は著者等が世界に先駆けて成功させた原子のホログラフィーに関する研究を記述したものである。あらゆる物体は光と同様に波動的性質を持っていることは1920年代に完成した量子力学の教えるところであるが、巨視的物体が波動的性質をしめすことを実証した例はない。日常的な物体の最小単位である原子でさえ、1930年頃に結晶表面からの回折を観測した例を除いて、1980年代まで全く省みられることがなかった。これは、室温原子の持つ波長が極端に短く、さらに原子波を操作する光学部品が事実上存在しなかったことが原因である。この事情は1980年代に進展した原子のレーザー冷却技術によって一変した。波長が可視光線より長い極低温の原子が作られ、色々な原子の干渉計が開発され、また、SiNや金の薄膜を用いた透過型の回折格子やフレネルレンズで原子を反射させたり、集束させる研究が行われるようになった。このような背景をもとに著者等は波動の最も普遍的な操作方法であるホログラフィーが原子にも適用できることに気づき、レーザー冷却で極低温まで冷却されたネオン原子線をSiN薄膜の計算機ホログラムで干渉、回折させ、スクリーン(原子検知器の表面)上に任意のパターンを形成できることを示した。

 論文は4章からなる。第1章は序章で上に述べたような研究の背景と、ホログラフィーによる原子制御の技術的意義が簡潔に述べられている。

 第2章はこの研究に用いた極低温原子線を生成するための原子のレーザー冷却法、トラッピング法について述べている。この研究で用いた冷却方法は特に目新しいものではないが、極低温原子線を得るまでには数段階の手順を踏まなければならない。まず室温の原子はその運動に対抗する方向から共鳴光を当てて数m/sまで減速する。この際、ドプラーシフトをゼーマン効果による共鳴振動数のシフトで補償する。次に、複数方向から一様にレーザー光を照射して原子をさらにドプラー冷却限界といわれている温度(数百マイクロケルビン)まで冷却する。この際、レーザー強度や離調の大きさなどのパラメータを調整することでさらに低温まで冷却することができる。このメカニズムは偏光勾配冷却と呼ばれている。冷却された原子は冷却用のレーザー光に四重極磁場を組み合わせた磁気光学トラップ中に補足される。著者は、これらの過程の中で減速力、力のバランスなどについて独創的な考察を加えている。

 第3章と第4章は著者が試みた平面波ホログラフィーと球面波ホログラフィーの二つの方法についての記述で、第3章は前者に当てている。平面波ホログラムは平面波をホログラムでフラウンホーファー回折を起こさせ、無限遠で所望の像を作る方法である。このようなホログラムは透過関数が、作りたい像のフーリエ変換になっていればよい。ところが、原子波をコヒーレントに透過する固体は存在しないので、原子のホログラムは透過率が1か0のいずれかの領域からなる膜で構成する以外に手はない。一般のフーリエ関数は複素関数であるから、これを二値関数で近似されることが要求される。この章のホログラムで使われた方法は、ホログラム面を、まず、離散的な領域に分割し、その一つの領域をさらに4×4の副領域に分け、この16個の副領域のいずれかに穴を開けるかで、その領域の複素数を表現している。具体的には、ホログラム面に適当な傾斜を持った平面を参照面とし、二つの面の交線に直行する方向で位相を、平行な方向で透過振幅を表現している。

 平面波ホログラムは無限遠に像ができるので集光レンズを使わない限り、実用性は少ない。ところが中性原子を二次元的に集束させる凸レンズを作ることは非常に困難である。このため、著者等は集光作用を組み込んだホログラムを製作し、有限距離に鮮明な原子の像を描かせることに成功した。第4章はこの記述に当てられている。レンズ作用を持つホログラムを作るには、レンズの波面変換と同じ曲率を持った2次の位相関数を再生像を現わす関数に掛けてフーリエ変換を行えばよい。計算上は平面波ホログラムと同様、フーリエ変換であるからFFTアルゴリズムを用いて複雑なパターンも容易に計算することができる。さらに、著者等はホログラム透過関数を二値化する際に、元の透過関数の複素共役関数を加えて実数化し、閾値を設定して二値化する方法を採用することで共役像以外に余分な像ができないホログラムを作成した。この結果、約60ミクロンメーターの分解能と150本以上の解像度のある原子パターンの作成に成功した。著者はこの章で、分解能、解像度やコントラストを決める要素について議論している。さらに、原子操作の手段としての原子ホログラフィーと他の原子操作方法との比較検討を行っている。

 中性原子操作の研究は工学的にも固体の表面を利用した種々のデバイスの作成、評価にとって必要不可欠な課題である。種々の操作法の中で原子の波動性を利用した原子ホログラフィーは他の方法では実現できない特長を備えている。このようなテクニックを開発したことは工学にとって大きな貢献をしたといえる。

 よって、この論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認める。

UTokyo Repositoryリンク