この論文は著者等が世界に先駆けて成功させた原子のホログラフィーに関する研究を記述したものである。あらゆる物体は光と同様に波動的性質を持っていることは1920年代に完成した量子力学の教えるところであるが、巨視的物体が波動的性質をしめすことを実証した例はない。日常的な物体の最小単位である原子でさえ、1930年頃に結晶表面からの回折を観測した例を除いて、1980年代まで全く省みられることがなかった。これは、室温原子の持つ波長が極端に短く、さらに原子波を操作する光学部品が事実上存在しなかったことが原因である。この事情は1980年代に進展した原子のレーザー冷却技術によって一変した。波長が可視光線より長い極低温の原子が作られ、色々な原子の干渉計が開発され、また、SiNや金の薄膜を用いた透過型の回折格子やフレネルレンズで原子を反射させたり、集束させる研究が行われるようになった。このような背景をもとに著者等は波動の最も普遍的な操作方法であるホログラフィーが原子にも適用できることに気づき、レーザー冷却で極低温まで冷却されたネオン原子線をSiN薄膜の計算機ホログラムで干渉、回折させ、スクリーン(原子検知器の表面)上に任意のパターンを形成できることを示した。 論文は4章からなる。第1章は序章で上に述べたような研究の背景と、ホログラフィーによる原子制御の技術的意義が簡潔に述べられている。 第2章はこの研究に用いた極低温原子線を生成するための原子のレーザー冷却法、トラッピング法について述べている。この研究で用いた冷却方法は特に目新しいものではないが、極低温原子線を得るまでには数段階の手順を踏まなければならない。まず室温の原子はその運動に対抗する方向から共鳴光を当てて数m/sまで減速する。この際、ドプラーシフトをゼーマン効果による共鳴振動数のシフトで補償する。次に、複数方向から一様にレーザー光を照射して原子をさらにドプラー冷却限界といわれている温度(数百マイクロケルビン)まで冷却する。この際、レーザー強度や離調の大きさなどのパラメータを調整することでさらに低温まで冷却することができる。このメカニズムは偏光勾配冷却と呼ばれている。冷却された原子は冷却用のレーザー光に四重極磁場を組み合わせた磁気光学トラップ中に補足される。著者は、これらの過程の中で減速力、力のバランスなどについて独創的な考察を加えている。 第3章と第4章は著者が試みた平面波ホログラフィーと球面波ホログラフィーの二つの方法についての記述で、第3章は前者に当てている。平面波ホログラムは平面波をホログラムでフラウンホーファー回折を起こさせ、無限遠で所望の像を作る方法である。このようなホログラムは透過関数が、作りたい像のフーリエ変換になっていればよい。ところが、原子波をコヒーレントに透過する固体は存在しないので、原子のホログラムは透過率が1か0のいずれかの領域からなる膜で構成する以外に手はない。一般のフーリエ関数は複素関数であるから、これを二値関数で近似されることが要求される。この章のホログラムで使われた方法は、ホログラム面を、まず、離散的な領域に分割し、その一つの領域をさらに4×4の副領域に分け、この16個の副領域のいずれかに穴を開けるかで、その領域の複素数を表現している。具体的には、ホログラム面に適当な傾斜を持った平面を参照面とし、二つの面の交線に直行する方向で位相を、平行な方向で透過振幅を表現している。 平面波ホログラムは無限遠に像ができるので集光レンズを使わない限り、実用性は少ない。ところが中性原子を二次元的に集束させる凸レンズを作ることは非常に困難である。このため、著者等は集光作用を組み込んだホログラムを製作し、有限距離に鮮明な原子の像を描かせることに成功した。第4章はこの記述に当てられている。レンズ作用を持つホログラムを作るには、レンズの波面変換と同じ曲率を持った2次の位相関数を再生像を現わす関数に掛けてフーリエ変換を行えばよい。計算上は平面波ホログラムと同様、フーリエ変換であるからFFTアルゴリズムを用いて複雑なパターンも容易に計算することができる。さらに、著者等はホログラム透過関数を二値化する際に、元の透過関数の複素共役関数を加えて実数化し、閾値を設定して二値化する方法を採用することで共役像以外に余分な像ができないホログラムを作成した。この結果、約60ミクロンメーターの分解能と150本以上の解像度のある原子パターンの作成に成功した。著者はこの章で、分解能、解像度やコントラストを決める要素について議論している。さらに、原子操作の手段としての原子ホログラフィーと他の原子操作方法との比較検討を行っている。 中性原子操作の研究は工学的にも固体の表面を利用した種々のデバイスの作成、評価にとって必要不可欠な課題である。種々の操作法の中で原子の波動性を利用した原子ホログラフィーは他の方法では実現できない特長を備えている。このようなテクニックを開発したことは工学にとって大きな貢献をしたといえる。 よって、この論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認める。 |