プラトン哲学を理解するためには、言わば「厳密な学」としての「哲学」と、「説得力のある説」としての「思想」を区別する必要がある。本論文では、プラトンの「エピステーメー」概念に焦点を合わせて、彼の「哲学」の進歩・発展を辿った。ただし、プラトン哲学の進歩・発展の道筋は決して単線的なものではないので、本論文の論述も単線的に展開するわけではない。以下、章を追って要旨を述べる。 序 本論文の基本的前提について述べた。趣旨は以下の通りである。従来のプラトン研究においては、「我々はプラトンのイデアを知ることはできないが、プラトン自身はイデアを知っていた」かのような前提に立ってプラトンの哲学が論じられることが多かったが、本論文では、イデアを我々現代の人間にも理解できるものとして解釈する可能性を追求する。 第一章プラトンは超越的イデア論者か プラトンのイデアは、アリストテレス以来、超越的で形而上学的なものと理解されてきたが、第一に、そもそもアリストテレスの理解に問題があり、第二に、そのような理解は単純過ぎる、ということを示した。その要点を纏めると、以下の如くである。(1)アリストテレスは、イデア論はヘラクレイトスの「万物流転説」とソクラテスの「定義の探求」という考え方から生まれたと証言しているが、それは、(a)イデア論の成立事情についてのプラトン自身の説明とまったく異なるし、(b)そもそもソクラテスは定義を探求したわけではない[(b)については、第二章で論じた]。(2)いわゆる「想起説」の文脈で語られるイデアは超越的で形而上学的なものと見做してよいが、「仮説的イデア論」において語られるイデアは、ある意味では「超越的」と言えるが、少なくとも「形而上学的」ではない。(3)「想起説」は、『パイドーン』以後は、『パイドロス』のミュートスを語る文脈でただ一度語られるのみであり、プラトンがこれに哲学的価値を認めていたとは思えない。従って、哲学的に価値のあるイデア論は「仮説的イデア論」である。 第二章プラトン哲学の原点とイデア論への道程 プラトン哲学の出発点を論じつつ、アリストテレスの証言を批判することを目的として、次の三つのことを論じた。(1)『ソクラテスの弁明』におけるソクラテスの「知恵」概念と、初期対話篇において模倣的に再現されたソクラテス的議論が、プラトン哲学の原点をなす。(2)それに基いて、『メノーン』においてイデア論を準備する考え方が提示されている。(3)初期対話篇のソクラテスは議論の相手を吟味しているのであり、定義を探求しているわけではない。 第三章仮説的イデア論 第一節で、『パイドーン』において初めて提示された「仮説的イデア論」を詳しく論じた。その要点は以下の如くである。「仮説的イデア論」とは、「イデアが存在する」という仮説(以下「存在仮説」)と「個物がイデアを分有している」という仮説(以下「分有仮説」)に基いて真偽を判定するという理論である。ただし、両仮説は、演繹の前提というわけではなく、個々人の世界観を決定するような、最も根本的な前提である。また、「仮説的イデア論」は、第一に「整合性の検討」を課題としており、この限りでは真理に関する「整合説」のように見えるが、仮説そのものをより上位の仮説によって正当化するという課題も視野に入れている点を考えれば、「整合説」以上のものを含んでいる。 第二節では、『国家』における「仮説的イデア論」を詳しく論じた。要点は以下の如くである。『国家』では、仮説を正当化する究極の原理として「善のイデア」が導入されるが、「整合性の検討」は顧みられない。ここには『パイドーン』における「仮説的イデア論」からの何らかの発展があったと考えられる。ただし、「善のイデア」は『国家』以後再び語られることはないので、この発展の道筋をプラトンがその後も辿ったとは思えない。なお、『国家』では、イデアと「観念」(と我々が呼ぶもの)が混同されているということ、それは、恐らく、プラトンが未だ「観念」という概念を持っていなかったからであろうということを示した。 第四章イデア論の再検討--『パルメニデス』 第一節では、『パルメニデス』第一部におけるイデア論批判を詳しく論じた。そこでは、『国家』における「仮説的イデア論」ではなく、むしろ原点に立ち返って『パイドーン』における「仮説的イデア論」が批判されている、というのが私独自の解釈である。イデア論批判の意義に関しては、以下のような解釈を示した。イデア論批判には、個物とイデアの関係(いわゆる「分有関係」)は様々な難点を生じさせるということを、従って両者の関係を整合的に説明することはできないということを示した、という意義がある(従って、第一部のイデア論批判は、「仮説的イデア論」の「分有仮説」の整合性の検討という意味を持つ)。その結果、プラトンはこれ以後はイデア相互の関係のみを問題にするようになる。それは、我々のことばで言えば、「普遍」相互の関係を問題にするということである。また、『パルメニデス』では(我々の言う)「観念」に当たる概念が登場し、イデアと「観念」が、ある意味では結びつけられ、ある意味では混同されている、ということを示した。 第一部のイデア論批判が「分有仮説」の整合性の検討という意味を持つとすれば、第二部の議論は「存在仮説」の整合性の検討という意味を持つということが予想される。そこで、このような観点から、第二節において、第二部の議論を解釈し、一方では、第二部の議論が孕む見せかけの矛盾は解消できるということを、他方では、議論の暗黙の前提に問題があるということを、示した。 第五章「エピステーメー」概念の再検討-『テアイテートス』 『パルメニデス』の直ぐ後に書かれたと一般に認められている『テアイテートス』について、以下のようなことを論じた。『パルメニデス』におけるイデア論の根本的な再検討に引き続いて、『テアイテートス』では「エピステーメー」概念の根本的な再検討が行われる。中期イデア論においては、「感覚的事物を対象とするのはドクサであり、イデアを対象とするのがエピステーメーである」というふうに、「エピステーメー」は対象の違いによって「ドクサ」から区別されていたが、『テアイテートス』においてはエピステーメーを獲得する方法が主題となる。それ故、『テアイテートス』の議論を詳細に検討することによって、プラトンの「エピステーメー」概念を、一応イデア論とは独立に(従って、我々にも理解し得るものとして)理解することができる。この対話篇においてプラトンが最終的に到達した地点は、(Xについての)エピステーメーとは(Xと)「他のすべてのものとの差異」についての知であるという結論である。 第六章「エピステーメー」概念の発展-『ソフィステース』 『テアイテートス』の続編として書かれた『ソフィステース』について、『テアイテートス』との関連をつけるべく、以下のようなことを論じた。『ソフィステース』においては「分割法」による定義の探求が行われるが、これは『テアイテートス』の結論を継承し発展させたものである。というのも、「分割法」とは類種関係による分類の方法であり、それは「他のすべてのものとの差異」を体系的に、従って極めて効率的に示す方法だからである。ただし、最高・最大の類についてはこの方法は使えない。それ故、『ソフィステース』では、最大類についてイデア相互の結合関係(コイノーニアー)に基く探究法が導入される。なお、「分割法」による定義の探求において、イデアは抽象的な「概念」(あるいは、それに対応するような客観的存在物)と考えられるようになった、という解釈を示した。要するに、第三章から第六章にかけての論述によって、プラトンのイデア論の発展の結果として、抽象的な「概念」という概念が哲学史上初めて確立された(あるいは、少なくともその準備が整った)、ということを示したわけである(ただし、言うまでもないが、それはイデア論の唯一の成果でも、最大の成果でもない)。 以上のことを論じた後に、第三節において、『ポリーティコス』を取り上げ、「分割法」はプラトンが最終的に到達した決定的な探究法かどうかを考察し、そうではないという可能性について論じた。 |