学位論文要旨



No 213722
著者(漢字) 細谷,俊彦
著者(英字)
著者(カナ) ホソヤ,トシヒコ
標題(和) ショウジョウバエのグリア・ニューロン間の分化決定を制御するスイッチ遺伝子glial cells missing
標題(洋) glial cells missing, a switch gene that controls glial vs. neuroanl determination in Drosophila
報告番号 213722
報告番号 乙13722
学位授与日 1998.03.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第13722号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 桑島,邦博
 東京大学 教授 牧島,一夫
 東京大学 助教授 酒井,邦嘉
 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 助教授 陶山,明
内容要旨 はじめに

 神経系の細胞はニューロンとグリアの2種類に大別することができる。これら2種類の細胞は共通の前駆細胞から生じてくることが多くの種で報告されてきているが、ニューロン・グリア間の分化決定の分子メカニズムはほとんどわかっていない。私は神経系の細胞の分化に関与する遺伝子の同定を目的として、染色体へのP因子の挿入によるエンハンサートラップ法を用いた突然変異体の探索を行い、glial cells missing(gcm)と名付けた系統を得た。これまでの解析によってgcmがニューロンとグリアの間の分化決定スイッチ遺伝子であることを示すことができた。またgcmは新規の核タンパクをコードしており、gcm-motifとなづけた系統発生上保存された新しいモチーフを持つことが分かった。

gcmの単離

 ショウジョウバエの中枢神経系は外胚葉由来の神経芽細胞(各体節の片側あたり29個)と、正中線上にならぶ少数の中外胚葉由来細胞とから形成される12)。外胚葉由来の神経芽細胞は幹細胞様の不等分裂を繰り返すことによってニューロンとグリアの両方を産み出す。正中線上の中外胚葉由来細胞からもニューロンとグリアが生じる。神経系の完成までに各体節の片側あたり250個程度のニューロンと30個程度のグリアが作られる。神経芽細胞は全て同定可能で、またそれぞれの神経芽細胞が産み出す細胞もほぼ完全に決まっているため、神経系の細胞の分化は個々の細胞のレベルまで遺伝的に決定されていると考えられている。

 私はこのような神経系の細胞の分化に関与する遺伝子の同定を目的として、染色体へのP因子の挿入によるエンハンサートラップ法を用いた突然変異体の探索を行い、gcm系統を得た。gcm変異体は中枢神経系の軸索束の形成不全を示したため、神経系の形成に必要な遺伝子の突然変異体であると予想された。染色体上でP因子のすぐ近傍に胚の中枢神経系で発現する遺伝子が存在した。この遺伝子はgcm変異体では全く発現しないので、gcm変異の原因遺伝子であると考えられた。

ニューロン・グリアの分化決定におけるgcmの機能

 gcmの発現パターンは形成初期のグリア細胞のパターンとよく一致した。このgcm発現は一過的で、グリアの形成が終了する頃になるとほとんど検出されなくなる。ただしgcmの発現は正中線上では見られず、gcmは中外胚葉由来細胞では発現しないことが分かった。従ってgcmは外胚葉由来のグリアにおいてグリア形成の初期に一過的に発現することが分かった。

 発現パターンからgcmがグリアの分化の初期過程に関与していることが予想されたので、変異体でのグリアの症状を調べた。repoはホメオドメインを持つタンパクで、正常胚ではほとんど全ての外胚葉由来のグリアで発現する。ところがgcm変異体ではrepoを発現する細胞がほとんどなくなり、グリアの分化に大きな異常が生じていることが分かった。さらにgcm変異体でのグリアの運命を細胞系譜マーカーを用いて調べた。gcmPはgcm遺伝子にP因子が挿入した染色体で、gcmをほとんど発現しない。一方P因子上のlacZ遺伝子はgcm遺伝子のエンハンサーの働きによってグリアで発現する。正常染色体とのヘテロ接合の正常胚ではすべてのグリアでlacZが発現する。ホモ接合の変異体胚でも正常胚とほぼ同数の細胞がlacZを発現し、グリアになるべき細胞はほぼ正常に生み出されていることが分かった。ところがこれらの細胞は正常と全く異なる位置に移動する。さらにこれらのlacZ陽性細胞は長い軸索を伸ばし、ニューロンに分化していることが明らかになった。以上からgcm変異体ではグリアになるべき細胞はほぼ正常に生み出されるが、ニューロンに分化してしまっていることが強く示唆された。グリアのニューロンへの分化転換は末梢神経系でも同様に見られた。

 GAL4-UASシステムを用いてすべての神経芽細胞でgcmを発現した。その結果中枢神経系のほとんどの細胞がrepo陽性になり、細胞体の形もグリアに特徴的な細長い形のものが多くなった。一方ニューロン特異的なタンパクであるelavを発現する細胞は正常胚の15%程度にまで減少し、軸索の数も大きく減った。以上からgcmの強制発現は中枢神経系の細胞のニューロンへの分化を押さえ、グリアへ分化させてしまうことが分かった。

 以上からショウジョウバエのニューロン・グリア決定機構について以下の結論が得られた。神経系の細胞はニューロンとグリアの両方に分化する能力を持っており、"default"はニューロンへの分化である。グリアになるべき細胞ではgcmが発現してニューロンへの分化を抑え、グリアへの分化を開始させる。従ってgcmはニューロンとグリアの間の分化決定スイッチとして機能する(図A)。

 gcm変異体ではグリアになるべき細胞はニューロンに分化してしまうが、このとき生じるニューロンの位置や軸索進展パターンはどの個体・体節でも同じなので、特定のグリアは特定のニューロンになっていると考えられる。これは個々のグリアのidentityを決める遺伝子群が、細胞がニューロンになってしまった場合でもその分化をコントロールしている考えると説明しやすい。このことから我々は個々のニューロンのidentityを決定する遺伝子群と個々のグリアのidentityを決定する遺伝子群は大部分が共通であろうと考えている。

 中枢神経系のグリアのうち中外胚葉由来のグリアはgcmを発現せず、また変異体でも分化に異常は見られなかった。従って中外胚葉由来の細胞ではgcmと独立のメカニズムがニューロン・グリアの決定を行っているものと考えられる。

神経回路形成におけるグリアの機能

 pCC,aCCはそれぞれもっとも早く軸索を伸ばし始めるinterneuron,motorneuronで、"パイオニア"ニューロンと呼ばれている。パイオニアニューロンは特定のグリアに接触しながら伸びるので、これらのグリアが軸索伸展に何らかの役割を果たしているのではないかと考えられていた。そこでグリアの軸索伸展における機能を調べるために、gcm変異体でのpCC,aCCの軸索の振る舞いを抗Fasciclin II抗体による染色で調べた。その結果これらのニューロンは多少伸長が遅れることはあっても、ほぼ正常と同様に正しい方向に軸索を伸ばすことが分かった。従ってこれらの軸索の経路認識に対してグリアは必須ではないと考えられる。おそらくグリア以外の細胞の表面にある分子やそれらの細胞が分泌する分子などを目印に用いて経路認識を行っている可能性があると考えられる。

 このように少数個の"パイオニア"ニューロンはほぼ正常に軸索を伸ばすが、その後軸索を伸ばす大部分のニューロンは軸索束がしばしば途切れたり、誤った方向に伸びたり、またfasciculationに異常を生じるのが見られた。従ってグリア細胞はこれらの軸索が正常に伸長し束形成を行うために必要であると考えられる。

 以上の結果から、軸索束形成におけるグリアの関与については2つの異なる段階があるというモデルがたてられる。まず第一段階がグリア非依存的な段階で、パイオニアニューロンがグリア以外の目印細胞・目印物質等によって正しい方向を見つけ、軸索を伸展する。次に大多数の軸索がグリアの補助を得ながら正しい経路選択と束形成を行うグリア依存的な段階があると考えられる。

gcmの分子機能とgcm-motif

 gcm cDNAは504アミノ酸からなるORFを持っていた。予想されるアミノ酸配列はデータベース上のどのタンパクともほとんど相同性を示さず、唯一核移行シグナル((K/R)2-X10-(K/R)4)がタンパクの中程に見つかった。従ってgcmは新しいタイプの核タンパクであると考えられた。

 哺乳動物のgcm相同遺伝子を探索したところ、高い相同性を持つヒトの遺伝子が1つ(hGCMa)、マウスの遺伝子が2つ(mGCMa、b)見つかった。これらの遺伝子の予想される産物はいずれもN末側の150アミノ酸程の領域に約60%程の相同性を示す領域があり、この領域の共通配列をgcm-motifと名付けた。(図B)。

 gcm-motifにはたくさんの保存されたシステインやヒスチジンがあり、これらがフィンガー構造などの特定の3次構造の形成に機能している可能性がある。また塩基性のアミノ酸も多く含まれており、DNAと相互作用する可能性があると予想された。実際当研究室の秋山らはgcm-motifが(A/G)CCCGCATというオクタマーDNAに塩基配列特異的に結合することを示しており、このモチーフが新規なDNA結合モチーフであることが明らかとなっている。

 さらに秋山らはgcm依存的にグリア細胞で発現するrepo遺伝子上流にgcm結合配列が多数存在していることを見いだした。またSchreiberらはgcmがgcm結合配列依存的な転写活性化能を持つことを示している。従ってgcmはrepo遺伝子のゲノム上流域に直接結合することによりその発現をコントロールしている可能性が高い。以上からgcmは新しいタイプの転写調節因子であると考えられる。

 DNA結合能を持つgcm-motifを持つその他の遺伝子も、やはり何らかの転写調節能を持つ可能性が高いと予想される。従ってgcm相同遺伝子群(gcm-family)は、新しいタイプの転写調節ファミリーであると考えられる。gcm-familyに属するさまざまな分子の生体での機能解析が今後の重要な課題である。

神経芽細胞から不等分裂で生じた娘細胞は、gcmが発現しないとニューロンに、gcmが発現するとグリアに分化する。elavはニューロンに、repoはグリアに特異的なタンパクで、いずれもgcmの制御下にある。gcmとその哺乳動物の相同タンパクは、gcm-motifという新規タンパクモチーフを共有し、分子ファミリーを形成する。gcm-motifは塩基配列特異的なDNA結合部位であることが分かっている。
審査要旨

 本論文は5章よりなり、第1章は序論にあてられ、第2章ではショウジョウバエのglial cells missing(gcm)遺伝子の発見とそれがニューロン・グリア間の分化決定因子として機能していることについて、第3章ではグリアが欠失したgcm突然変異体の解析よりグリア細胞が神経細胞の軸索伸展においてはたす機能について、第4章ではgcm遺伝子によりコードされるタンパク質のアミノ酸配列解析よりgcmが新しいタイプの転写調節因子であり種を超えて保存されたタンパク質ファミリーを形成することが述べられており、第5章は全体の結論である。

 神経系の細胞はニューロンとグリアの2種類に大別することができ、これらの細胞は共通の前駆細胞から生じてくることが多くの種で報告されているが、ニューロン・グリア間の分化決定の分子メカニズムはほとんどわかっていなかった。また、グリア細胞がニューロンの軸索束形成において果たす役割についてもこれまでは不明確であった。

 第2章では、中枢神経系の細胞の分化に関与する遺伝子の同定を目的とした変異体のスクリーニングによってグリアの分化に異常を持つ系統(gcm)を単離し、遺伝子をクローニングした結果について述べられている。グリアでlacZを発現する系統マーカーを用いた解析により、gcm遺伝子は形成初期のグリアで一過的に発現し、グリアになるべき細胞はgcm変異体でもほぼ正常に生まれることが分かった。しかし、gcm変異体の細胞はグリア特異的なタンパクREPOを発現せず、ニューロン様の丸い細胞体を持ち大部分が軸索を伸展した。従って、gcm変異体ではグリアになるべき細胞がニューロンに分化していることが示された。逆に、gcm遺伝子の強制発現を行ったところ、中枢神経系の大部分の細胞がREPOを発現しグリア様の細長い細胞体を持ち、ニューロン特異的なタンパクELAVを発現する細胞が85%以上減少して軸索も大きく減少した。従って、gcmはニューロンへの分化を押さえ、グリアへの分化を決定することが明らかとなった。ショウジョウバエの中枢神経系の細胞はニューロンとグリアの両方に分化する能力を持っており、gcmによってその分化決定が行われること、その分化においてはニューロンが「デフォルト」であるとみなされることが初めて明らかになった。また変異体の解析から、ニューロンとグリアは共通のアイデンティティ決定メカニズムを持つことも示唆された。

 第3章では、グリアが欠失しているgcm変異体を用いて軸索束形成におけるグリアの機能解析を行った。最も早く軸索を伸ばし始めるいくつか同定可能なニューロンはgcm変異体でもほぼ正常な振る舞いを示し、これらの細胞はグリア以外の標識からのシグナルによって軸索伸展方向を決定することが示された。一方、遅れて伸びてくる数百本の軸索は途中で止まったり誤った方向に伸びたりなど様々な異常を示した。従って、グリア細胞はこれら大部分の軸索の正常な束形成にとって必要な機能を担っていることが明らかとなった。

 第4章では、gcm遺伝子によりコードされるタンパク質のアミノ酸配列を解析し、それが核タンパクをコードしているが配列は新規なものであることが示されている。機能上重要なアミノ酸を同定するために、哺乳動物のホモログ遺伝子の探索を行い、ヒトとマウスで相同遺伝子が見つけられた。コードされているアミノ酸配列はN末端側に約150アミノ酸にわたって60%程度の残基が保存されている保存領域を持っており、この保存配列をgcmモチーフと名付けた。gcmモチーフはたくさんのシステインを含んでいるのでフィンガー構造をとる可能性が考えられる。また塩基性アミノ酸が多数存在し核酸との相互作用が期待される。核蛋白であること、遺伝子の機能が多数の遺伝子発現の制御につながることより、gcmは新しいタイプの転写調節因子であり、種を越えて保存された転写調節因子ファミリー「gcmファミリー」を形成すると考えられる。

 本論文により、ニューロン・グリア間の分化決定の中心部分をgcm遺伝子が制御していること、神経系の細胞は基本的にはニューロンにもグリアにもなることができニューロンがデフォルトの分化状態であること、gcm遺伝子は種を越えて保存された新しい遺伝子ファミリーを形成することなどが初めて明らかとなった。以上の成果は、神経細胞の分化決定の分子機構を解明する上で多大の寄与をなすものである。なおこの論文は滝沢一永氏、新田浩史氏、秋山康子氏、Anthony M.Poole氏、堀田凱樹氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究を行ったものであり、審査員一同は同提出者が博士(理学)の学位を授与するのに十分であると判断した。

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