学位論文要旨



No 213726
著者(漢字) 山口,祥一
著者(英字) Yamaguchi,Shoichi
著者(カナ) ヤマグチ,ショウイチ
標題(和) フェムト秒時間分解紫外・可視吸収分光によるレチナールの研究
標題(洋) Femtosecond UV-VIS Absorption Studies of Retinal
報告番号 213726
報告番号 乙13726
学位授与日 1998.03.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第13726号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 橘,和夫
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 助教授 岡本,裕巳
内容要旨

 本論文では、主にフェムト秒時間分解紫外・可視吸収分光によるレチナールの研究について述べる。第1章では、本論文の全体について、簡単に概観する。第2章では、フェムト秒時間分解紫外・可視吸収分光装置の製作について、特に光カー効果を用いた新しいチャープ測定法に力点を置いて述べる。第3章では、フェムト秒時間分解紫外・可視吸収分光によるレチナールの超高速化学動力学の研究について述べる。第3章第1節では、無極性溶媒中のレチナールの全トランス→13-シス・9-シス光異性化反応について詳述する。第3章第2節では、全トランスレチナールとプロトン供与性溶媒との水素結合の超高速動力学について述べる。第4章では、フェムト秒時間分解可視吸収分光とピコ秒時間分解ラマン分光による、ターチオフェンの光励起後の振動緩和について述べる。

 以下では、第2章から第4章までの各々の要旨を述べる。

第2章フェムト秒時間分解紫外・可視吸収分光装置

 時間分解紫外・可視吸収分光法は、現在、単に時間分解能の点では既に限界に達しつつある。最も高い時間分解能を持つ紫外・可視吸収分光法は、フェムト秒レーザーパルスを用いたポンプープローブ法であり、この場合、ポンプ光とプローブ光の各々のパルス幅が時間分解能を決定する。より厳密に言えば、両パルスの相関時間が時間分解能を決定する。1987年にパルス幅6fsの極短パルス発生が報告されたのを筆頭に、最近ではより簡便により安定にパルス幅10fs程度の光パルスが得られている。例えば、パルス幅1fsのフーリエ変換限界パルスのスペクトル幅が10000cm-1にも違することを考えれば、この先に1桁あるいはそれ以上の時間分解能の向上は、同じ原理に基づいたままでは、ほとんど見込めないのである。実際に、近年の超短パルス発生技術の進歩の方向性は、パルス幅の極短化よりもむしろ安定性と波長可変性の向上にある。とはいえ、現在の時間分解紫外・可視吸収分光法には、同じ原理に基づいたままでも、まだ十分な発展の余地がある。任意の波長、任意のパワーの超短パルスで試料を励起して、200nmから1000nmの広い波長範囲で同時に過渡吸収を検出できる状態が、レーザーの面ではほぼ発展の余地のない状態といえる。前者の任意の波長のポンプ光は、近年の非線形光混合技術の発達によって現実のものとなりつつあるが、任意のパワーとまでは行かず、任意の波長となると得られるパルス幅は数百フェムト秒程度である。後者の広い波長範囲のプローブ光は、強力な超短パルス光を透明媒質に集光して自己位相変調効果によって得るのがほぼ唯一の方法で、通常、この場合に得られるパルス幅は数百フェムト秒程度、波長範囲は400nmから1000nmであって、400nmから200nmの紫外域にまで波長範囲を広げるのは一般に困難である。

 このような中で、我々は、約300fsの時間分解能を持ち、400nmから800nmの可視域および310nmから390nmの紫外域で時間分解スペクトルを得ることが可能なフェムト秒吸収分光装置を開発した。特に、紫外域のフェムト秒時間分解吸収スペクトルは、筆者の知る限り最初の測定例である。通常の測定時間で得られる吸光度の精度は、可視域では±0.003、紫外域では±0.004程度であった。

 フェムト秒広帯域プローブ光はほぼ必ずアップチャープしている。するとプローブ光は長波長成分ほど先に試料に到達することになる。これはフェムト秒時間分解吸収スペクトルの測定の上で好ましくないことであり、通常はデータ処理の段階でこれを補正する。そのためには広帯域プローブ光のチャープ特性を測定する必要がある。従来は、ポンプ光とプローブ光の和周波(あるいは差周波)を測定するSFG(DFG)相互相関法が標準的な方法であった。我々は、SFG法よりも簡便、迅速、正確にチャープ特性を測定する方法、OKE相互相関法(図1)を開発した。OKE法は非共鳴光カー効果を利用したものであり、SFG法よりも特に次の3点で優れている。

図1:OKE相互相関法の光学配置

 (1)OKE法の光学配置は時間分解吸収分光法のそれとほぼ同じであり、吸収法からOKE法へ光学配置を変更するのに要する時間は約1分である。一方、SFG法へ光学配置を変更するのに要する時間は約30分である。

 (2)OKE法ではスペクトルをマルチチャンネル測定することが可能であり、通常の測定時間は約5分である。一方、SFG法では非線形結晶の位相整合角の制限のためマルチチャンネル測定は不可能であり、通常の測定時間は1時間程度である。

 (3)OKE法の測定波長範囲は吸収法のそれと全く同一であり、分光器や検出器は同じものを利用できる。SFG(DFG)法では、ポンプ光とプローブ光の波長の組み合わせによっては結晶、分光器、検出器などを置き換えなければならない場合があり、とても不便である。

 OKE法は、今後、フェムト秒広帯域プローブ光のチャープ特性を測定する標準的な相互相関法になるであろう。

第3章レチナールの超高速化学動力学第3章第1節無極性溶媒中の全トランス→13-シス・9-シス光異性化反応

 レチナールにはポリエン部分の4つの二重結合に由来する16個のシス-トランス異性体がある。よく知られているように、脊椎動物の光受容体ロドプシンの発色団は11-シスレチナールのプロトン化シッフ塩基である。その11-シスから全トランスへの光異性化反応は、視覚の初期過程として活発に研究され、既にそのほぼ全容が解明されつつある。一方、無極性溶媒中の全トランスレチナールは、紫外光照射により、13-シス体と9-シス体を生じる。各々の量子収率は、13-シス体が0.1、9-シス体が0.02である。このトランスからシスへの光異性化反応の機構については、脱気しない無極性溶媒中において、(1)単分子反応である、(2)励起三重項状態(T1)は関与していない、という2点のみが明らかとなっていた。レチナールの電子構造はとても複雑で、また励起一重項状態(S3,S2,S1)の寿命が極端に短いために、研究があまり進んでいなかったのである。

 我々は、この全トランス→13-シス・9-シス光異性化反応機構を解明するため、全トランス体、13-シス体、9-シス体のフェムト秒時間分解可視吸収スペクトルと、全トランス体のフェムト秒時間分解紫外吸収スペクトルを測定した。測定には第2章で説明した装置を用いた。

 全トランス体の時間分解可視吸収スペクトルは、SVD解析によって4つの過渡種(S3,S2,S1,T1)の寄与に分解することが出来た。S3状態は光励起によって直接生成されるBu状態であり、その寿命は時間分解能以下であった。S2状態は約0.7psの寿命を持ち、Ag状態に帰属された。S1状態は、S2状態の減衰に対応して0.7psの時定数で立ち上がり、寿命約30psで減衰するのが観測された。S1状態は(n,*)状態に帰属された。T1状態は、S1状態の減衰に対応して約30psの時定数で立ち上がるのが観測された。全トランス体の時間分解スペクトルは以上の4つの過渡種の寄与だけで説明された。これら4つの過渡種は全て全トランス型であり、13-シス体および9-シス体の励起状態の寄与は全く認められなかった。従って、全トランス→13-シス・9-シス光異性化反応は励起一重項状態においては完了しない、言い換えると、全トランス型のS3(あるいはS2,S1)状態からシス型のS3(あるいはS2,S1)状態への経路は存在しない、ということが結論された。

 全トランス体の時間分解紫外吸収スペクトルは、SVD解析によって2つの成分に分解することが出来た。1つはSn←S1吸収であり、可視吸収スペクトルにおけるのと同一の時間変化が観測された。もう1つは基底状態(S0)の退色であった。退色の回復過程には速い成分(約7ps)と遅い成分(約70ns)の2つが認められた。遅い成分はT1からS0への緩和に対応している。速い成分の時定数は、3つの励起一重項状態のいずれの寿命とも異なっている。我々は、この7psの時定数を(C12=C13あるいはC8=C9の二重結合部位が)ねじれた励起一重項状態P*の寿命と帰属した。図2に示すように、p*状態は全トランス→13-シス・9-シス光異性化反応の中間体である。p*はねじれた基底状態pへ緩和し、pはトランス体とシス体を等しく与えると仮定した。S0の退色の回復量から異性化収率を求めることが可能である。269Kから298Kの温度範囲において異性化収率を求めた結果が図3である。HPLCによって測定された値とよく一致している。この結果は図2の異性化反応スキームを強く支持している。またp*状態の寿命は7psであり、S3およびS2状態の寿命より短く、S1状態の寿命よりも長い。従ってp*の前駆体はS3もしくはS2であると言えるが、図3のように異性化収率が温度の低下と共に減少することは、p*の前駆体がS2であることを示している。S3の寿命は0.03psと極めて短く、S3からp*への緩和速度が温度に依存するとは考えにくいからである。S2からp*への反応経路上の活性化エネルギー障壁の高さは約1200cm-1と見積もられた。

図2:無極性溶媒中の全トランスレチナールの光異性化反応のスキーム図3:全トランス→13-シス・9-シス異性化量子収率の温度依存性HPLCによる値も併せて示した。 W.H.Waddell and K.Chihara,J.Am.Chem.Soc.103(1981)7389. S.Ganapathy and R S.H.Liu.J.Am.Chem.Soc.114(1992)3459 Y.Katayama.Graduation Thesis (1997.Kitazato Univ.).
第3章第2節プロトン供与性溶媒中の水素結合の動力学

 レチナールはカルボニル基を有し、プロトン供与性溶媒分子と水素結合を形成する。水素結合した全トランス体は、トランス→シス光異性化反応において、13-シス体よりも低く9-シス体よりも高い量子収率で11-シス体を生じる。前述の通り、無極性溶媒中のフリーな全トランス体は光異性化反応において11-シス体を生じない。水素結合形成によって、異性化生成物の種類は増え、異性化収率は増大するのである。また、水素結合形成は、蛍光量子収率を増加させ、T1生成収率を減少させることが知られている。これらのことは、励起状態の電子構造やポテンシャル曲面が、水素結合によって大きな影響を受けることを示している。特に、蛍光収率の増加とT1収率の減少を、(,*)と(n,*)の準位の(水素結合形成による)逆転に帰する説は広く信じられている。

 我々は、励起状態におけるレチナールとプロトン供与性溶媒の水素結合の様子と準位逆転の有無を調べるため、1-ブタノールとシクロヘキサンの混合溶媒中の全トランスレチナールのフェムト秒時間分解可視吸収スペクトルを測定した。

 いくつかの波長における吸光度の遅延時間依存性を解析することによって、励起状態のおおよその寿命を見積もることが出来た。まずS3状態の寿命は0.3ps以下と決定された。S2状態の寿命は1ps〜2psと見積もられた。S3状態は光励起によって直接生成しており、またS2状態は誘導放出による利得を示していることから、両状態ともに(,*)状態であると結論された。Tn←T1吸収は約20psの時定数で立ち上がっていることから、T1の前駆体として寿命20psのS1状態が存在すると結論された。無極性溶媒中におけるのと同じく、S1状態は(n.*)状態であると考えられ、準位逆転は否定された。

 いくつかの遅延時間における吸収スペクトルの1-ブタノール濃度依存性を解析することによって、励起状態における水素結合の様子を知ることが出来た。極めて短い寿命を持つS3状態においては、1-ブタノールと水素結合した全トランス体と、水素結合していないフリーな全トランス体が共存していることがわかった。S2状態においては、フリーな全トランス体は存在せず、全ての全トランスレチナールが1-ブタノールと水素結合していることがはっきりとわかった。T1状態では、再びフリーな全トランス体が現れ、水素結合した全トランス体との間で化学平衡が成り立っている、ということを明確に示すことが出来た。S3状態において存在していたフリーな全トランス体が、S2状態においては全て水素結合しているということは、わずか数百フェムト秒の間に水素結合形成反応が完了していることを意味している。本実験結果は、サブピコ秒領域の水素結合形成反応の最初の例である。

第4章ターチオフェンの超高速振動緩和

 溶液中の分子の光励起に伴う余剰振動エネルギーの散逸過程は、一般に光励起後の最も初期の過程であり、その後に続く光物理・化学を左右する重要な過程である。余剰振動エネルギーの散逸過程は、大まかに言って、フェムト秒からサブピコ秒の時間領域の振動エネルギーの分子内再分配過程と、ピコ秒の時間領域での周辺溶媒分子への熱伝導による冷却過程から成る。

 我々は、フェムト秒時間分解吸収分光法とピコ秒時間分解ラマン分光法によって、シクロヘキサン中のターチオフェンの余剰エネルギーの散逸過程を研究した。ターチオフェンは、その基底状態では波長350nm付近の紫外光を吸収し、S1状態に遷移する。S1ターチオフェンは600nm付近の光を吸収し、また400nmから500nmの波長領域に蛍光を発しS0に遷移する。

 S1ターチオフェンのラマンスペクトルは、670cm-1に1本の強いラマンバンドを示した。他のバンドはずっと弱く、特に670cm-1の振動モードがSn←S1遷移についてフランク-コンドン活性なモードと認められた。S1ターチオフェンの吸収スペクトルには、S1の分布数緩和以外に2つの顕著な時間変化を観測することが出来た。まずサプピコ秒の時間領域において、Sn←S1遷移についてフランク-コンドン活性な670cm-1の振動モードを基にした振動構造を見出すことが出来た。この吸収バンドの振動構造は数ピコ秒の内に消失した。我々は、振動構造の消失を振動エネルギー再分配・緩和過程と帰属した。次に、ピコ秒から数十ピコ秒の時間領域においては、Sn←S1吸収バンドの幅が徐々に狭くなっていくのを観測した。これは溶質-溶媒系が冷却していく過程に帰せられた。この過程に対応して、670cm-1のラマンバンドのピークシフトも確認された。

審査要旨

 本論文は、Chapter1.Introduction,Chapter2.Femtosecond time-resolved UV-VIS absorption spectrometers,Chapter3.Ultrafast chemical dynamics of retinal,Chapter4.Ultrafast vibrational relaxation in terthiopheneの4章から構成される。

 第1章では、導入部として、超高速時間分解分光の歴史と現状が概説されている。

 第2章では、論文提出者が製作したフェムト秒時間分解紫外・可視分光計について述べられている。2-1では、用いられたレーザーと、得られるレーザーパルスの波数幅と時間幅の測定結果が詳しく記述されている。2-2では、フェムト秒時間分解紫外・可視吸収測定の実際が述べられている。時間分解能約300フェムト秒で、310nmがら390nmの紫外領域および400nmから800nmの可視領域を測定することができる。検出可能な最小吸光度変化は、紫外領域で0.004、可視領域で0.003である。また、論文提出者が独自に開発した、光カー効果を用いたプローブ白色光のチャープ補正の新手法についても記述されている。この方法を用いることにより、従来の和周波発生法に比べて、格段に高い効率で正確なチャープ補正が行えるようになった。その結果、論文提出者が製作したフェムト秒時間分解紫外・可視分光計は、総合的に極めて高い性能を有し、光励起分子の超高速化学ダイナミクスを調べるための有力な新手法となった。

 第3章では、フェムト秒時間分解紫外・可視分光を用いたレチナールの超高速化学動力学の研究について述べられている。3-1では、無極性溶媒中での全トランスレチナールの光異性化反応の機構に関する研究が記述されている。まずフェムト秒時間分解可視分光により、3種の励起一重項状態と最低励起三重項状態の存在が明らかにされ、それらの間の内部転換および項間交差のダイナミクスが明らかにされた。つぎに、フェムト秒時間分解紫外分光により、基底状態の回復に2種の異なる経路が存在することが明らかにされ、そのうち7ピコ秒の時定数を持つものが異性化反応に直接関与するねじれ型の励起状態を経由する緩和過程であると解釈された。また異性化反応収率の温度依存性から、ねじれ型への異性化は第2励起一重項状態から進行する可能性が高いことが示された。これらの結果に基づき、無極性溶媒中での全トランスレチナールの光異性化反応のスキームが提案された。3-2では、プロトン供与性溶媒中の光励起全トランスレチナールの水素結合形成および開裂のダイナミクスに関する研究が述べられている。フェムト秒時間分解可視分光により、第3励起一重項状態では水素結合体と非水素結合体が共存し、第2励起一重項状態では水素結合体のみが存在し、最低励起三重項状態では再び水素結合体と非水素結合体が共存することが明らかとなった。第3励起一重項状態の寿命が100フェムト秒以下であることから、励起状態における水素結合の形成がサブピコ秒の時間領域で起こることが結論された。このような超高速水素結合形成過程の存在は、本論文により初めて明らかにされたものである。

 第4章では、フェムト秒時間分解紫外・可視分光の他の応用例として、ターチオフェンの超高速振動緩和についての研究例が述べられている。ターチオフェンを400nmのフェムト秒パルスで光励起し、最低励起一重項状態からの吸収を測定した。その結果、ピコ秒の時間領域での振動エネルギー再分配過程および10ピコ秒の時間領域での冷却過程の存在が明らかとなった。

 第5章では、まとめと今後の展望が短く述べられている。

 本論文で述べられている研究内容は、装置の製作と、完成した装置の応用に大別される。装置の製作に関しては、光カー効果を用いたプローブ白色光のチャープ補正の新手法を提案、実証したことは、今後のフェムト秒吸収分光の発展に寄与する大きな成果であると認められる。また応用に関しては、光化学の基本的分子であるレチナールの光異性化反応の機構に関する極めて重要な知見を得、光物理化学の進歩に少なからず貢献した。本論文の第2章、第3章、第4章は濱口宏夫と共同ですでに印刷公表されているが、論文提出者の貢献が大きく、これらの論文の内容を学位の申請に用いることに何ら問題はない。

 よって論文提出者に博士(理学)の学位を授与することが適当であると判断する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50700