学位論文要旨



No 213730
著者(漢字) 竹下,美香
著者(英字)
著者(カナ) タケシタ,ミカ
標題(和) 経中隔上方到達法による僧帽弁手術後の洞結節機能の評価
標題(洋)
報告番号 213730
報告番号 乙13730
学位授与日 1998.03.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13730号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤田,敏郎
 東京大学 教授 柳澤,正義
 東京大学 教授 井街,宏
 東京大学 講師 山沖,和秀
 東京大学 講師 井手,康雄
内容要旨 I.背景および目的

 これまで僧帽弁に到達するための心房切開法としては、左右心房間溝に平行に左心房右側を縦切開する、右側左房切開法(right-sidedl eftatr iotomy,RLA)が一般的であった。しかし左房拡大がさほど著明でない症例や、再手術例で癒着が著しく、左房周囲の癒着剥離が充分に行えない症例においては、上記切開法では、安全に満足な視野を得ることが困難な場合がある。また近年では自己の僧帽弁を温存した弁形成術が盛んに行われるようになり、手術成績の向上のためにはより良好且つ適切な手術野を展開することがますます重要になってきた。このような観点からこれまで種々の心房切開法が考案されてきたが、最近になり経中隔上方到達法(transseptal superior approach,TSS)という新しい切開法が提唱され、前述のような症例においても良好な視野を安全に得られる事から、多くの施設で盛んに用いられるようになってきた。当科においても1992年より僧帽弁手術に際し積極的にこの切開法を採用し、良好な成績をおさめている。しかしながら、この切開法では、洞結節の栄養血管である洞結節動脈の走行がこの切開線と交差する場合が多く、そのために手術に際し洞結節動脈を切離、損傷し術後に洞結節機能低下を起こす可能性がある。本研究は、当科において経中隔上方到達法を用い僧帽弁手術を施行した症例中、術後1年以上経過した症例について、術後の洞結節機能を電気生理学的に評価し、中期遠隔期における同切開法の及ぼす影響に関し検討する事を目的とした。

II.研究対象および方法

 1992年5月より1994年12月までの期間中、当科における僧帽弁手術症例全84例中、経中隔上方到達法(以下、TSS)にて手術を施行した症例は59例、他の23例は右側左房切開法(以下、RLA)、残り2例はその他の切開法であった。このうちTSS群とRLA群につき、術後中期遠隔期(術後1年以上経た時点)における心調律、上室性不整脈発生率、P波電気軸等の洞結節機能を反映すると思われる心電図上の諸指標を検討した。2群間ではさらにTSS術後中期遠隔期において洞調律を維持していた症例中、患者本人の同意が得られた症例について、心臓カテーテル検査を施行し、洞結節機能とTSSがそれに及ぼす影響に関し以下の項目につき検討を加えた。

 I)心電図的特徴

 全僧帽弁手術症例中、中期遠隔期までの心電図の追跡調査が可能であった症例につき、TSSとRLAの術前後での心調律の変化の比較を行った。また術前洞調律であった症例につき、術直後の上室性不整脈の種類、一時的ペーシングの要否、その期間についても両群間で比較を行った。その他の切開法を行った2例については例数が少なかったため除外した。)さらに心房内刺激生成部位を反映すると思われるP波の電気軸の特性についても検討を行った。

 II)電気生理学的検査および心房内マッピング、冠伏動脈造影

 TSSにて僧帽弁手術を受けた症例中、術前洞調律であり且つ中期遠隔期においても洞調律を維持していた17例に対し検査内容および目的を説明したうえで、同意を得られた7例に対し心臓カテーテル検査を施行し、洞結節回復時間(SNRT)、修正洞結節回復時間(CSRT)、洞房伝導時間(SACT)等の洞結節機能を反映する電気生理学的指標の測定を行った。また、心房内マッピングを施行し、心房内興奮伝播様式についても検討を行った。同時に冠状動脈造影を行い、TSSにより洞結節動脈が切離されているかどうかの確認を行った。いずれの症例も術前には冠状動脈造影検査を施行されており、洞結節動脈の走行に関し術前後での比較を行った。

 III)内因性心拍数、平均心拍数

 上記II)の被験者のうち4例に付き、Joseの方法に従い内因性心拍数の測定を行った。更に上記II)の被験者全例について入院カルテ記録および退院後外来受診の際測定された心拍数から、平均心拍数を術前後で比較した。

III.結果I)心電図的特徴(1)心調律の変化

 1992年5月より1994年12月までの期間中僧帽弁手術を受けた症例全84例中、中期遠隔期まで心電図を追跡調査し得た症例は76例であった。内訳はTSSが54例、RLAが22例であった。心調律の術前後の変遷は、TSS症例54例の術前心調律は、洞調律(SR)19例、心房細動(AF)35例であった。一方RLA症例22例の術前心調律は、SR7例、AF15例であった。術後中期遠隔期における心調律は、a)TSS群:術前SR群19例中、17例はSRを維持していたが、2例はAFとなった。術前AF群35例中、27例はAFが持続したが、8例はSRに復した。b)RLA群:術前SR群7例中、6例はSRを維持してたが、1例は完全房室ブロックに進展しペースメーカ埋め込みを要した。両群間の術後洞調律維持率には有意差を認めなかった。術前AF群15例中、11例はAFが持続したが、3例はSRに復した。1例は洞不全症候群となりペースメーカ埋め込みを行った。

(2)術後早期の不整脈

 TSS群では、術後洞性徐脈または房室接合部調律による徐脈のために19例中11例に1から2週間の一時的ペーシングを要した。また他の4例は一過性AFを示した。RLA群では、7例中6例で、1から3日間の一時的ペーシングを要した。また3例で一過性AFを示した。

(3)P波の電気軸

 術後洞調律を維持している症例においてTSS群では術後P波の電気軸が左方に偏位する傾向が見られ、術後II、III、aVF誘導で陰性P波を示す症例もみられた。そこで術前後で比較したところ術後有意な電気軸の左傾が認められた。さらにRLA群の術後心電図のP波の電気軸と比較したところ、TSS群の方が有意に左軸偏位の傾向を示していた。

II)電気生理学的検査および心房内マッピング、冠状動脈造影(1)電気生理学的検査

 7例のSNRT、CSRT、SACTの結果は、SNRTの平均値は1262±123msec(mean±SD)で、全例正常値を示した(正常値1600msec以下)。CSRTの平均値は393±75msecで、これも全例正常範囲内であった(正常値525msec以下)。SACTはNarulaの方法により測定した。平均値は90±28msecで、全例正常値を示した(正常値125msec以下)。

(2)心房内マッピング

 前述の方法により決定した最早期興奮部位が高位右房(highRA)であったものが3例、中位右房(midlater al RA)であったものが4例であり、冠静脈洞(CS)近傍もしくは低位右房(low later al RA)に最早期興奮部位を有する症例は認めなかった。

(3)冠状動脈造影

 いずれの症例も術前冠状動脈造影を施行されており、洞結節動脈の存在が確認されていた。7例全例において右冠状動脈より洞結節動脈が起始しておりTSS切開により切離されていた。術後の造影所見としては、洞結節動脈が全く造影されないか、または起始部からある程度の距離まで造影されるがその後途絶していた。他の枝よりの洞結節を栄養する側副血行の発達等の所見は認められなかった。

III)内因性心拍数、平均心拍数

 7例中の4例において得られた内因性心拍数をJoseの各年齢における内因性心拍数の正常範囲(7)を示したグラフ上にプロットすると4例中1例は年齢から予測される正常範囲内の値を示したが、他の3例は予測値より低い値を示し、洞結節機能の内因性障害が存在する可能性を示唆する結果であった。術前後での平均心拍数は有意差は認められなかった。

IV.考察

 経中隔上方到達法は左房拡大が著明でない症例や再手術で心膜との癒着が強い症例においても安全に僧帽弁を露出させることが可能である事から極めて有効な心房切開法と思われる。しかしながら、洞結節の栄養血管である洞結節動脈の走行がしばしばこの切開線と交差するために、手術操作により同血管が損傷を受ける事が当然予想される。そのため、術後に虚血による洞結節の機能低下が起こる可能性がこれまで指摘されている。本研究においても術前後で冠動脈造影を比較したところ、洞結節動脈はTSS切開によりいずれの症例においても損傷(切離)を受けていた。しかしながら側副血行の発達が認められなかったにもかかわらず、電気生理学的検査によりTSS症例の洞結節機能は少なくとも中期遠隔期までは比較的良好に保たれていると判断された。さらにTSS症例全体でみても中期遠隔期における洞調律維持率は高く、これまでの右側左房切開法の症例群と比較しても許容範囲内であった。一方、Utelyらは僧帽弁手術における種々の心房切開法における手術成績、術後合併症等につき比較検討し、TSS症例では術前洞調律であったものが術後高率に洞調律を失い(51%)、またペースメーカ埋め込みが必要になる症例が多かった(21%)と報告している。Kumarらもまた、TSSでは術後早期に接合部調律を示した症例を高頻度に認めたと報告している。今回本研究で対象とした症例においても術直後や術後早期に一過性の接合部調律を示し、一時的ペーシングを要したものが認められた。しかしながら、これらの症例のほとんどが退院時には洞調律に復しており、最終的に中期遠隔期においては術前洞調律で術後に洞調律を失したものは19例中2例にとどまった(10・5%)。またペースメーカ埋め込みを要した症例はTSS群全体を対象としても1例も認められなかった。しかしながら、一見洞調律を示している症例においても心電図を詳細に検討してみると、術後にP波の電気軸が左方に偏位している症例が存在することが観察された。これは右側左房切開法では見られない所見であり、洞結節動脈切離により洞結節機能の低下をきたし、歩調取り部位が低位に移動した可能性が示唆された。そこで心房内マッピングを行った症例につき、P波の電気軸と最早期興奮部位との関係を見てみると、心電図上のP波の軸が左方に偏位している症例においてはそうでない症例よりも最早期興奮部位がやや下方の中位右房に位置する傾向は明らかであったが、文献によれば、自律神経のtoneの影響や洞結節からの興奮波進出路の差異などにより正常洞調律症例の心房内マッピングでは最早期興奮部位が高位右房である例と中位右房である例とがあることが指摘されている。TSS術後に中位右房が最早期興奮を示す症例においてP波の電気軸が左方に偏位する理由として、TSSにおいては両心房壁および心房中隔に切開が加えられており、心房興奮波はそれを迂回する形で進行するため興奮波のベクトルが正常心とはかなり異なるためと推測される。また日常的な生活レベルにおいて平均心拍数は有意な低下も認められず、洞不全症状をきたした症例も認められていない事から、中期遠隔期におけるTSSのいわゆる洞結節機能すなわちペースメーカー機能におよぼす影響は臨床的には少なくとも許容範囲にあると考えられた。

審査要旨

 本研究は、最近の僧帽弁手術において頻用されている経中隔上方到達法において、洞結節動脈がしばしば損傷されるという事実からこれが術後の洞結節の機能に対しどのような影響を及ぼしているかという点につき検討を試みたものであり、下記の結果を得ている。

 1.術後中期遠隔期における経中隔上方到達法(TSS)症例と洞結節動脈を損傷しない右側左房切開法(RLA)症例との2群間で洞調律維持率を比較したところ、両群間に有意差を認めなかった。

 2.TSS群で術前洞調律であったものも術直後は手術侵襲の影響等により一過性の上室性不整脈を示す症例は見られたがそれらはいずれも退院時に洞調律に復しておりそれが中期遠隔期まで維持されていると考えられた。

 3.TSS群のうち術後も洞調律を維持している症例につき電気生理学的検査を施行したところ、洞結節機能を反映する指標であるSNRT、CSRT、SACTはいずれの症例においても正常値を示した。

 4.3.の症例に対し心房内マッピングを施行したところ、心房内最早期興奮部位は高位右房または中位右房であり、TSS術後も洞結節およびその近傍が歩調取り部位として機能していることが示唆された。

 5.3.の症例に対し冠状動脈造影を施行し術前のそれと比較したところ、術前に認められていた同動脈は術後いずれも途絶もしくは消失しており、かつ他の側副血行の発達は見られなかった。

 6.内因性心拍数も洞結節機能を反映する指標として有用とされるが、3.の症例中測定をした4例中3例で予測値を下回る結果となりさらに遠隔期における検討の余地を残した。

 7.TSS群の術後12誘導心電図上の特徴としてP波の電気軸が術前に比して左方に偏位しあたかも調律部位が移動したかの如き傾向を示したが、心房内マッピングで洞結節が術後も歩調取りを行なっていると推測される事と、術中心外膜側マッピングで得た結果とから類推して、これは心房に切開が加わることによりこの切開線が電気的障壁となって心房内興奮伝導のベクトルが変化することにより生じると考えられた。

 以上、本論文は経中隔上方到達法において洞結節を損傷した症例においても従来指摘されていたような術後の洞機能不全は予測されたほど頻度の高い合併症ではない事を臨床データより明らかにした。

 本研究は僧帽弁膜症患者に対しより安全かつ良好な術野の展開を可能にする切開法の普及に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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