学位論文要旨



No 213737
著者(漢字) 三村,亨
著者(英字)
著者(カナ) ミムラ,トオル
標題(和) 栄養状態による摂食行動の変化とそのメカニズムに関する研究 : 生体恒常性と食物選択
標題(洋)
報告番号 213737
報告番号 乙13737
学位授与日 1998.03.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第13737号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 教授 今井,一洋
 東京大学 教授 杉山,雄一
 東京大学 教授 長尾,拓
内容要旨 第一章緒論

 食事、すなわち食物摂取は、生理学的には、生体恒常性を維持し、日常の生命活動の結果生じた個々の栄養素の消費を補う行動と考えることができる。

 しかし、年齢、ライフスタイル等、活動性の違いにより、消費される栄養素は一定でなく、また、摂取する食物もすべての栄養素が理想的に含まれている訳ではないので、何でも手近なものを満腹感が生じるよう食べていては、必ずしも消費された栄養素を補えるとは限らない。消費する栄養素と摂取する栄養素とがかけ離れた状態が長期に及ぶと、生体恒常性は維持できず、生命をおびやかすことにもなる。このような状態に陥らないように、我々のような雑食性の動物は恒常性を維持するように、消費した栄養素に対応する要求を認識し、何をどれだけ食べるかという食行動をうまく調節するしくみを持っていると考えられる。このしくみが確実に働いたときに初めて、食事の際に「おいしい」と思うものを存分に食べることと、生命活動に必要な栄養素の摂取とが結び付き、極めて強い満足感が得られる。

 本研究では、動物には、特定栄養素の欠乏、あるいは日常の生命活動の結果として、相対的に欲求の高まった栄養素を適切に選ぶ能力が本当にあるのかを検討し、また、その調節機構の解明を試みた。

第二章 栄養状態と食物選択

 動物は、自らの栄養状態から来る栄養素の要求を反映して摂食行動を調節し、合理的な食物の選択摂取ができるのかを、ラットを用いて調べた。

 ラットに、明らかにタンパク不足である5%タンパク含有飼料と、過剰な45%タンパク飼料との2種類を、自由に選択摂取させることにより、生体の要求に見合った量のタンパクを過不足なく選択摂取できるかどうかを調べたところ、摂取タンパク量は要求量と良く一致し、ラットが生体のタンパク要求量に見合ったタンパク量を選択摂取することができるということが示された。

 タンパク栄養状態の変化による栄養素水溶液選択摂取の変化を調べるため、ラットに異なるタンパク含有量の飼料を与え、アミノ酸、または食塩の水溶液の選択摂取量を調べた。ラットは、タンパク摂取量が要求量を上回り、正常な成長が得られたときは、うま味を呈するグルタミン酸ナトリウムを、タンパク質欠乏で窒素平衡が負になるような状況のときは甘味を呈するグリシンとスレオニンを、窒素平衡が負には至らないまでも、生体の要求量を充たさない低タンパク栄養状態では食塩を選択摂取した(図1、2)。

図1 5%タンパク含量の飼料にて飼育されたラットの水溶液選択摂取図2 20%タンパク含量の飼料にて飼育されたラットの水溶液選択摂取

 別の研究から、グルタミン酸ナトリウムは、飼料摂取に伴う血漿中アンモニア濃度の上昇を抑えること、また、グリシンは、無タンパク飼料を摂取した際の、負の窒素平衡を改善することがわかった。一方、低栄養状態での食塩水摂取は、ナトリウムを外から補うことにより、多くのエネルギーを要するナトリウムの腎における再吸収を減少させ、エネルギー消費を最小限に抑えることに役立つと考えられる。

 このように、ラットは、タンパク栄養状態の変化に対応して、生体恒常性を維持するのに有用な物質を、適切に選択摂取する能力があることが明らかになった。

 必須アミノ酸のうちリジンのみ欠乏している飼料を調製し、ラットに与え、アミノ酸水溶液を自由に選択摂取させたところ、ラットは多くのアミノ酸水溶液の中からリジン水溶液を選択摂取し、飼料のリジン欠乏を補い、正常な成長を示した。

 以上のことから、ラットは自らの栄養状態に合わせ、生体恒常性の維持に必要、または、有用な栄養素を、選択摂取する能力があることが明らかになった。

第三章 食物選択摂取の調節機構

 栄養素の合理的な選択摂取の調節はどのようになされているのか、リジン欠乏飼料にて飼育されたラットのリジン水溶液の選択摂取を例にして調べた。

 ラットが、リジン欠乏飼料を摂取した際の血中および脳内のリジン濃度を経時的に測定した。リジン欠乏飼料の摂取に伴い、血中および脳内のリジン濃度は低下し、摂食を終了する頃に最低となるが、摂食終了後回復し、次の摂食を開始するまでには、元の正常レベルに戻ることが示された(図3)。必須アミノ酸であるリジンは体内では生合成できないので、体タンパクの崩壊により補っているものと考えられる。このとき、ラットの成長は抑制され、強い飢餓感または不快感を感じていると推測される。

図3 リジン添加または欠乏飼料を摂取したラットの血中および脳内リジン濃度の経時変化

 このような状態のラットにアミノ酸水溶液を選択摂取させ、リジン水溶液摂取パターンを経時的に調べた(図4)。リジン欠乏飼料を与えてから1〜3日目くらいまでは、摂食時間帯の後半にリジン水溶液を摂取しているが、15日目あたりでは、摂食開始と同時にリジン水溶液を摂取している。摂食時間帯後半でのリジン水溶液摂取では1日単位でのリジン摂取量は充たされていても、血中、脳内のリジン濃度は下降、上昇をくり返し、ラットはリジン濃度の乱高下による不快感からは逃れられていないと推測される。摂食開始と同時にリジン水溶液を摂取すれば、血中および脳内のリジン濃度の低下は起こらず、体液の恒常性は常に維持され、ラットは飢餓感を感じていないと期待される。さらに、飼料を正常飼料に切り換えると、第1日目の最初からリジン水溶液を全く摂取しなかった。

図4 リジン欠乏飼料にて飼育したラットのリジン水溶液の選択摂取パターンの変化

 これらのことから、ラットは、飼料を摂取するたび毎に、今摂取した飼料中にリジンが十分あるか否かを判断していること、そして、この判断は、ある程度の期間の後では、血中や脳内の濃度の変化を拠り所にしてはいないことが示唆された。

 そこで、食物を摂取、消化、吸収する過程において味覚情報および消化管からの情報を脳に伝える迷走神経、これらの情報が脳において集まる延髄孤束核、そしてリジン欠乏ラットへのリジン投与に伴って機能変化がMRIで確認された、摂食行動を調節する視床下部外側野におけるニューロンのリジンに対する応答が、リジン欠乏飼料摂取によりどう変化するかを調べた。

 味覚感受性(閾値および濃度依存性)は舌先端部支配の鼓索神経および舌根部支配の舌咽神経共にリジン欠乏により変化しなかったが、肝門脈内のリジン刺激に対する迷走神経肝枝の求心腺維の応答性は、リジン欠乏飼料で飼育することにより、4日目で上昇し、閾値が100〜1000分の1に減少した(図5、6)。

図5 正常ラットにL-Lysを肝門脈内投与した際の迷走神経応答の用量変化図6 Lys欠乏ラットにL-Lysを肝門脈内投与した際の迷走神経応答

 延髄孤束核の味覚刺激に応答するニューロンは、正常ラットではスークロースやアルギニンの味覚刺激に強く応答したが、リジン欠乏ラットではリジンの味覚刺激に対する応答性が高まっていた。

 また、リジン欠乏飼料にて2週間飼育したラットにおいては、摂食中枢である視床下部外側野の、リジンに特異的に応答するニューロンが増加した。

 さらに、リジン欠乏飼料にて飼育したラットに、手掛かり音による水溶液識別の学習をさせたところ、手掛かり音に視床下部外側野ニューロンの応答が生じるのはリジンのみであった。

 以上の結果から、リジン欠乏飼料を摂取した際、消化管内でリジンの有無を敏感に判別でき、それに基づいて摂食行動を調節し、血中や脳内のリジン濃度に影響が出る前にリジン水溶液を選択摂取し、体液の恒常性を維持することができるのは、食物摂取時の情報伝達および摂食行動に関る、迷走神経、延髄孤束核、視床下部外側野のニューロンが脳内リジンやリジン摂取時の味覚刺激に対し感受性を高める可塑性を起していることによると推察される。

第四章総括

 本研究の結果から、動物は、生命活動を通じて相対的に欲求の高まった栄養素を適切に選択摂取することができるため、生体の恒常性を維持することができること、その摂食行動の調節には、食物摂取に関る情報の伝達系、および、摂食中枢におけるニューロンの可塑性が関与していること、が示唆された。

審査要旨

 食物摂取は、生理学的には、生体恒常性を維持し、日常の生命活動の結果生じた個々の栄養素の消費を補う行動と考えることができる。しかし、年齢、ライフスタイル等、活動性の違いにより消費される栄養素は一定でなく、また、摂取する食物もすべての栄養素が理想的に含まれている訳ではないので、何でも手近なものを満腹感が生じるよう食べていては、必ずしも消費された栄養素を補えるとは限らない。ヒトのような雑食性の動物は生体恒常性を維持するため、消費に対応する栄養素要求を認識し、食行動をうまく調節するしくみを持っていると考えられる。このしくみが確実に働いたときに初めて、「おいしい」と思うものを存分に食べることと、生命活動に必要な栄養素の摂取とが結び付き、極めて強い満足感が得られると考えられる。

 本研究では、動物には、特定栄養素の欠乏、あるいは日常の生命活動の結果として相対的に必要度の高まった栄養素を適切に選ぶ能力が本当にあるのかを検討し、次いでその調節機構の解明を試みた。

 まず、ラットに蛋白質含量の異なる飼料を自由に選択摂取させることにより、生体の要求に見合った量の蛋白質を摂取できるかどうかを調べたところ、要求量に見合った量を過不足なく選択摂取することが明らかになった。

 栄養状態の変化による栄養素の選択性の変化を調べたところ、ラットは、蛋白質摂取量が要求量を上回り、正常な成長が得られたときは、グルタミン酸ナトリウムを、蛋白質欠乏で窒素平衡が負になるような状況のときはグリシンとスレオニンを、窒素平衡が負には至らないまでも生体の要求量を充たさない低蛋白質栄養状態では食塩を選択摂取した。ラットはそれぞれの栄養状態において栄養学的にも合理的な選択摂取をする能力があることが示唆された。さらに、必須アミノ酸のうちリジンのみ欠乏している飼料をラットに与えたところ、ラットはアミノ酸水溶液の中からリジン水溶液を選択摂取し、飼料のリジン欠乏を補い、正常な成長を示した。以上のように、ラットは自らの栄養状態に合わせ、生体恒常性の維持に必要または有用な栄養素を合理的に選択摂取する能力があると考えられた。

 このような栄養素の合理的な選択摂取の調節のメカニズムをリジン欠乏飼料にて飼育したラットにて検討した。リジン欠乏飼料を摂取した際の血中および脳内のリジン濃度は、飼料の摂取に伴い低下し、摂食を終了する頃に最低となるが、摂食終了後回復し、次の摂食を開始するまでには、元の正常レベルに戻る。リジンは体内では生合成できないので、体構成蛋白質の崩壊により恒常性を維持しているものと考えられるが、ラットの成長は抑制されてしまう。このような状態のラットのリジン水溶液選択摂取パターンは最初は摂食時間帯の後半であったが、次第に摂食開始と同時にリジン水溶液を摂取するようになった。血中や脳内のリジン濃度は摂食時間帯後半でのリジン水溶液の摂取では下降・上昇を起こすが、摂食開始と同時にリジン水溶液を摂取すれば変動せず、恒常性は維持される。従って、ラットは飼料中のリジンを検知することができ、それに応じて摂食行動を調節していると推測された。

 そこで、知覚情報および消化管からの情報を脳に伝える迷走神経、これらの情報が脳において集まる延髄孤束核、摂食行動を調節する視床下部外側野におけるニューロンのリジンに対する応答が、リジン欠乏飼料摂取によりどのように変化するかを調べたところ、門脈内のリジン刺激に対する迷走神経肝枝の求心腺維の応答性は100〜1000倍に上昇していた。延髄孤束核の味覚刺激に応答するニューロンはリジンの味覚刺激に対する応答性が高まっていた。また、リジン欠乏飼料にて飼育したラットでは摂食中枢である視床下部外側野に存在するリジンに特異的に応答するニューロン数が増加していた。手掛かり音による水溶液識別の学習をさせたところ、視床下部外側野ニューロンが応答するのはリジンに対してのみであった。

 このように、ラットがリジン欠乏飼料を摂取した時に消化管内でリジンの有無を敏感に判別して摂食行動を調節し、血中や脳内のリジン濃度に影響がでないように恒常性を維持することができるのは、迷走神経、延髄孤束核、視床下部外側野のニューロンが脳内リジンやリジン摂取時の味覚刺激に対し感受性を高めるように可塑性を調節しているためと考えられた。

 本研究の結果から、動物は相対的に必要度の高まった栄養素を適切に選択摂取して生体の恒常性を維持する能力をもつこと、その摂食行動の調節には食物摂取に関る情報の伝達系および摂食中枢におけるニューロンの可塑性が関与していること、が示唆された。以上の成果はこの分野の研究における新しい知見であり、栄養学だけではなく医薬品治療へも貢献するものである。従って、博士(薬学)の学位の授与に値すると判断した。

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