酒の香りの重要な成分の1つとして酢酸イソアミル、酢酸エチルに代表される酢酸エステル類が知られている。酢酸エステルはフルーティーな香りがし誰にでも感じやすいため、適量の酢酸エステルを含むことは良好な酒であるための必要条件と考えられる。しかし、酢酸エステルは酵母が発酵中に生成する微量な成分であり、またその生成が複雑な制御を受けているためにその量をコントロールすることはけっして易しくはない。したがって酵母の酢酸エステル生成機構を解明することは、醸造法の発展のために必要不可欠であると考えられる。酢酸エステルは酵母中でアルコールアセチルトランスフェラーゼ(AATase)という膜酵素により各種の高級アルコールとアセチルCoAから生成されることが報告されている1)。酢酸エステルの特性として培地を通気したり、不飽和脂肪酸を添加したりすると大幅に減少することが知られているが、この原因は酵母のAATase活性が減少するためであることが明らかにされている2).3)。このようにAATaseは酢酸エステルの生成機構を考えるうえで非常に重要な酵素であるが、活性が非常に不安定であったためなかなか精製されず、遺伝子もクローニングされていなかった。本論文はAATaseのクローニングに初めて成功し、これを用いて酵母の酢酸エステル生成機構について分子生物学的解析を行った結果について記述するものである。 第1章Alcoholacetyltransferase遺伝子、ATF1のクローニング 筆者は1993年に大関(株)総合研究所の峰時氏らとの共同研究により、AATaseを完全精製し、初めてその部分ヘフチド配列を明らかにした1)。このヘフチド配列を基にoligo nucleotide probeを合成し、AATaseをコードする遺伝子、ATF1を清酒酵母、ビール酵母よりクローニングすることに成功した。 この塩基配列を決定したところ、Atf1蛋白質は分子量61kDa、525アミノ酸の蛋白質であった。さらにCys残基が14個もあり、S-S結合が多い蛋白であると予想された。しかし、Atf1蛋白質はmicrosome画分より精製され、膜蛋白質であるにもかかわらず、アミノ酸配列中には大きな疎水性領域が見いだせず、Atf1蛋白質の膜との結合はさほど強くないと推察された。さらにATF1遺伝子は清酒酵母からは1種類しかクローニングされなかったが、下面ビール酵母からは2種類クローニングされた。下面ビール酵母の2種類のATF1遺伝子のうち、1種類は清酒酵母のATF1遺伝子とほとんど同一のものであったが、もう1種類は異なる構造の遺伝子であった。この相同遺伝子が下面ビール酵母に特異的であることから、Lg(Lager)-ATF1遺伝子と名付けた。 ATF1遺伝子を多コピーフラスミドを用いて酵母に導入し、形質転換体を静置培養すると対照株の10倍以上のAATase活性を示すようになった。また培養液中の揮発成分を調べたところ、形質転換体では酢酸イソアミル、酢酸エチルが対照株のそれぞれ27倍および9倍に増加しており、AATase活性が酢酸エステル生成に重要であることが判明した(第1表)。いっほう形質転換体を振盪培養するとAATase活性の増加はまったく見られなかった。同様にLg-ATF1遺伝子をS.cerevisiaeで発現させ、エステル生成等を検討した結果、ATF1遺伝子と同等の機能を持つ酵素をコードしていることが示唆された。 第1表 ATF1遺伝子多コピー株培養液の低沸点揮発成分第2章ビール酵母のATF1遺伝子、Lg-ATF1遺伝子の構造解析 ビール酵母のATF1遺伝子、Lg-ATF1遺伝子の塩基配列を解析したところ、Lg-Atf1蛋白質はAtf1蛋白質とアミノ酸配列で76%の相同性を持つ分子量63kDaの蛋白質であった。Atf1蛋白質と比較するとLg-Atf1蛋白質がN末に20個余計なアミノ酸配列を持つことを除いては相同性が極めて高く、またhydrophobicity profileもAtf1蛋白質と極めて類似していた。しかし、Atf1蛋白質の等電点が7.68であるのに対し、Lg-Aft1蛋白質では6.52であること等Atf1蛋白質と異なる構造も認められた。 下面ビール酵母、S.carlsbergensisはその染色体構成としてS.cerevisiae型の構造を持つ染色体の他に,S.bayanus,あるいはS.monascensisという酵母に類似の構造の染色体を持つことが知られている5)。Lg-ATF1遺伝子が、S.cerevisiae型の構造を持つ染色体由来であるか、S.bayanus,あるいはS.monascensisという酵母に類似の構造の染色体由来であるかを確認するために、各種酵母より染色体DNAを抽出しATF1遺伝子、Lg-ATF1遺伝子をフローブとしたサザンハイブリダイゼーションを行った。その結果、清酒酵母、ウイスキー酵母、上面ビール酵母,ワイン酵母のほとんどがATF1遺伝子を持つことがわかった。しかしS.bayanus,S.monascensisという酵母ではATF1遺伝子、Lg-ATF1遺伝子の両方を持つものやLg-ATF1遺伝子のみを持つものが検出された。このことからLg-ATF1遺伝子がS.bayanus、あるいはS.monascensisという酵母に類似の構造の染色体由来であることが示唆された。 第3章aft1欠損株の酢酸エステル生成 酵母のエステル生成とATF1遺伝子との関係を明らかにするために、まずATF1遺伝子を持たない酵母を作製し、この酵母のAATase活性をイソアミルアルコールを基質として検討した。ところが、予想に反しatf1欠失酵母のAATase活性は、欠失する以前の約1/5から1/10に下がっていたが完全には失われなかった。さらに驚いたことに、エタノールを基質としてAATase活性測定を行うと80%以上の活性が残存していることが判明した。また、このatf1欠失酵母のエステル生成能について検討したところaft1欠失酵母は酢酸イソアミルの量が野生株の1/5程度、酢酸エチルは2/3程度に生成され、それぞれイソアミルアルコール、エタノールを基質とした活性量と相関があった。いままでAATaseが幅広い基質特異性を持つことから、酵母のAATaseは1種類であり、すべての酢酸エステルの生成を握ると考えられていたが、上記の結果から酵母が複数のAATase活性のある蛋白質をもつことが明かとなった。またAft1蛋白質は酢酸イソアミルには重要であるが酢酸エチルにはそれほど重要でなく、別のAATaseがより重要であることが強く示唆された。 atf1欠損株の持つAATase活性について検討したところ、酢酸イソアミルを生成する活性と酢酸エチルを生成する活性は分離されることがわかった。さらに酢酸エチルを生成するAATase活性は酢酸イソアミルを生成するAATase活性よりも熱に対して安定であり、両者は別々の蛋白質である可能性が示唆された。さらにatf1欠失酵母は通気培養でもAATase活性の減少がほとんど見られないことがわかった。すなわちAtf1蛋白質以外の蛋白質に由来するAATase活性は通気培養で抑制されないことが示唆された。 第4章ATF1遺伝子の発現制御機構の解析 吉岡ら2).3)はAATaseが試験管内で不飽和脂肪酸により阻害されことから、通気、不飽和脂肪酸添加時にAATase活性が著しく低下する原因として膜脂質の不飽和脂肪酸含量が著しく増加して、AATaseの反応を阻害するためと推察した。本論文では通気あるいは不飽和脂肪酸添加時におけるATF1遺伝子の発現レベルに着目し、Northern解析によりATF1mRNA量を測定した。その結果、振盪培養時や、培地中に不飽和脂肪酸を添加した場合は通常の静置培養時に比べATF1mRNA量が減少していること、またmRNAの増減がAATase活性の増減と非常に良く相関していることが判明した。 次にmRNA量の減少と酵素の阻害のどちらが酵母細胞内においてAATase活性の減少に中心的役割を果たすかを検討するため、mRNAが構成的に発現するGAPDHのフロモーターでATF1遺伝子を発現する株を育種し、通気や不飽和脂肪酸添加時におけるAATase活性の変化を検討した。その結果、この株では、通気や不飽和脂肪酸条件下でもAATase活性の減少がほとんど見られないことが明かとなった。すなわち、酵母細胞内においてはATF1遺伝子のmRNAの減少が通気、不飽和脂肪酸条件下におけるAATase活性の減少の主因であることが示唆された。 また、ATF1遺伝子とLg-AFT1遺伝子で相同性の高い5’-上流150-bpの塩基配列をCYC1のTATA配列、lacZ遺伝子の上流に結合して発現させたところ、通気や不飽和脂肪酸によって発現量が減少することが確認された。これらのことから、ATF1遺伝子の発現制御が転写レベルであること、およびこの領域がUpsteam Activaing Sequence(UAS)である可能性が示唆された。 総括 以上のように本論文は、酵母の酢酸エステル生成の鍵となる酵素AATaseをコードする遺伝子ATF1を初めてクローニングし、その構造を明らかにした。さらに通気、不飽和脂肪酸によりATF1遺伝子の発現が転写レベルでコントロールされていることや、このような制御を受けないAtf1蛋白質以外のAATaseが酢酸エステル生成に寄与していること等の重要な知見を明らかにした。本論文は遺伝子操作や変異による酢酸エステル生成能が制御された酵母の育種を可能とすると共に、学問的にも酵母の通気や不飽和脂肪酸による制御研究のための新しいモデル遺伝子を提供した点で極めて意義深いものと思われる。 参考文献1)K.Nordstrom:J.Inst.Brew,67,173(1961)2)K.Yoshioka and H.Hashimoto:Agri.Biol.Chem.,45,2187(1981)3)K.Yoshioka,and H.Hashimoto:Agri.Biol.Chem.,47,2287(1983)4)T.Minetoki et al.:Biosci.Biotech.Biochem.,57,2094(1993)5)M.B.Pedersen:Carlsberg Res.Commun.180,263(1985) |