学位論文要旨



No 213746
著者(漢字) 田中,英夫
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ヒデオ
標題(和) タバコS-adenosyl-L-homocysteine hydrolaseに関する研究
標題(洋)
報告番号 213746
報告番号 乙13746
学位授与日 1998.03.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第13746号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 室伏,旭
 東京大学 教授 日比,忠明
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 助教授 林,浩昭
 東京大学 助教授 山口,五十麿
内容要旨

 S-adenosyl―L―homocysteine hydrolase(SAHH)は、S-adenosyl-L-homocysteine(SAH)をadenosineとL-homocysteineとに分解する酵素である。生体内メチル化反応は、S-adenosyl-L-methionine(SAM)を基質とする様々なメチル基転移酵素によって行われるが、反応の副産物であるSAHによって、メチル基転移酵素の反応がフィードバック阻害される。ここで、SAHHによるSAHの除去が速やかに行われないとメチル化反応が進まなくなることから、SAHHは生体内におけるメチル化反応を律速していると考えられる。生体内メチル化反応は、核酸、タンパク質、脂質、二次代謝産物など様々な物質の修飾に関わっている。なかでも、DNAのメチル化は遺伝子発現の調節に関与しており、分化や成長の際の遺伝子発現に重要な役割を果たしていることが示唆されている。したがって、SAHHはメチル化反応の調節を介して植物の形態形成に関与していることが予想される。また、タバコより単離されたサイトカイニン結合タンパク質複合体の構成要素の1つがSAHHであることが報告されており、SAHHのサイトカイニン情報伝達系への関与も示唆されている。本研究においては、SAHHの植物の形態形成における役割およびサイトカイニンとのも関係を解明することを目的として、タバコSAHH遺伝子の解析、SAHH遺伝子のアンチセンスRNAを発現する形質転換植物の作出、およびSAHH活性に及ぼすサイトカイニンの影響についての解析を行った。

 一方、ウイルスの増殖に必要なmRNAのcap構造のメチル化を抑制することにより、植物ウイルスに対する抵抗性が増強されることが報告されている。したがって、SAHH遺伝子の発現を抑制することにより、ウイルス抵抗性を付与できる可能性がある。そこで、本研究においては、SAHH遺伝子のアンチセンスRNAを発現する形質転換植物のウイルス抵抗性についても解析を行った。

1.タバコSAHH遺伝子の構造と発現機構

 植物の形態形成に関与する遺伝子を得ることを目的として、タバコの試験管内培養系において花芽形成時に発現が誘導される遺伝子に対応するcDNAのスクリーニングを行った。得られたcDNAクローンのうち、1つのcDNAクローンは、動物より単離されているSAHHと約60%の相同性を持つタンパク質をコードしており、タバコSAHHをコードするものと推定される。タバコSAHHのアミノ酸配列は、485個のアミノ酸からなるものであり、これまでにラットや粘菌より単離されたものと比較すると約50アミノ酸分大きいものであった。

 次に、SAHHのゲノム遺伝子の構造を知るために、タバコのゲノムライブラリーをSAHHcDNAをプローブとしてスクリーニングを行った。得られたゲノム遺伝子にコードされていたアミノ酸配列は、cDNAのものと同一であったが、塩基配列上ではアミノ酸配列の変化が起らないような変異が50箇所あり、97%の相同性を示した。この遺伝子中には2つのイントロンが存在し、3つのエクソンに分けられていた。また、ゲノムDNAのサザン解析の結果、N.tabacumのゲノム中には、SAHH遺伝子は2つあるいはそれ以上存在することが示された。

 SAHH遺伝子の発現に及ぼす植物ホルモンの影響を調べた結果、SAHHmRNA量はIAAおよびカイネチンによって転写誘導を受けて増加することを確認された。

 さらに、SAHH遺伝子のプロモーター配列をレポーター遺伝子(GUS遺伝子)と連結しその発現を調べた結果、導入したBY-2細胞においても、カイネチンによってSAHH遺伝子のプロモーター活性が増加することが確認された。

2.SAHH遺伝子のアンチセンスRNAを発現させた形質転換タバコにおける形態変化とDNAメチル化の減少

 SAHHの植物の形態形成における役割を推定するために、SAHH遺伝子のアンチセンスRNAを発現させSAHHレベルを低下させた形質転換体を作出した。形質転換体のうち約半数は、顕著な形態変化を示した。形態変化のうち最も特徴的なものは、わい化であり、最も顕著なものは、野性型に比べて植物体の背丈が約1/3から1/4になっていた。葉の外観も変化し、形質転換体の葉の緑色は濃く老化(senescence)もコントロールに比べて遅延する傾向がみられた。さらに、花の形態にも変化がみられた。形質転換体の雄しべの長さは、コントロールに比べて短く、形態変化の著しい個体では雄しべが花弁に変化するというホメオティック変異がみられた。また、形態変化を起した形質転換体ではSAHHmRNA量が減少していることが、ノーザン解析により確認できた。これらの結果より、SAHHが花を含めた植物の形態形成の制御に重要な役割を果たしていることを明らかになった。また、形質転換体では内生サイトカイニンレベルの上昇がみられたことから、形態変化の原因の一つが、サイトカイニンの増加であると推定された。

 次に、形質転換体におけるDNAのメチル化状態の変化を、メチル化感受性制限酵素とタバコゲノム中に存在する繰り返し配列を用いて解析した。その結果、顕著な形態変化を起した形質転換体では、明らかにコントロールに比べてDNAのメチル化が抑えられていた。この結果より、SAHHがDNAメチル化の調節に直接関わっていることが確認され、DNAのメチル化状態の変化が形態変化に関わっていることが示唆された。

3.サイトカイニンがSAHHの酵素活性に与える影響

 サイトカイニンがSAHHと結合することによってSAHHの酵素活性に及ぼす影響を調べるために、タバコのSAHHcDNAを大腸菌で発現させた。得られた組換えSAHHを用いて、天然に存在するサイトカイニンであるtrans-ゼアチンとtrans-ゼアチンリボシドがSAHHの活性に与える影響を調べた。その結果、trans-ゼアチンはSAHH活性にほとんど影響しなかったが、trans-ゼアチンリボシドは部分的にSAHHを不活性化した。この結果より、trans-ゼアチンリボシドがin vitroでSAHHを不活性化することが明らかとなったが、これは生体内におけるtrans-ゼアチンリボシドの濃度と比較して1-2オーダー高い濃度でのみ観察されたことから、無傷植物でin vitroと同様にtrans-ゼアチンリボシドによる活性阻害現象が起こるかどうかはさらに検討が必要であると考えられる。

4.SAHH遺伝子のアンチセンスRNAを発現させた形質転換タバコにおけるウイルス抵抗性

 SAHH遺伝子のアンチセンスRNAの発現によりSAHHの発現を抑制した形質転換体は、TMV(タバコモザイクウイルス),CMV(キュウリモザイクウイルス),PVX(ポテトウイルスX)に対する抵抗性を示した。これらのウィルス抵抗性はSAHH遺伝子の発現の抑制と相関関係を示したことから、cap構造のメチル化の阻害によりウイルスの複製が進みにくくなっていることが示唆された。

 一方、形質転換体は、増殖のさいにcap構造のメチル化を必要としないPVY(ポテトウイルスY)についても弱い抵抗性を示した。この結果より、cap構造のメチル化の阻害以外のウイルス抵抗性の機構が存在することが示唆され、形質転換体での内生サイトカイニンレベルの上昇がウイルスに対する獲得抵抗性を誘導したものと推定された。アンチセンスRNAによりSAHHの発現を抑制した形質転換体においては、SAHHの発現レベルの低下の結果、ウイルスmRNAの増殖に必要なcap構造のメチル化の阻害とサイトカイニンによる獲得抵抗性による二重の機構によってウイルスに対する抵抗性が付与されたと考えられる。

5.結論

 生体内のメチル化反応を調節することによって、SAHHは植物の形態形成に重要な役割を果たしていること、さらにSAHHとサイトカイニンの間には、相互に制御する関係があることが明らかとなった。また、アンチセンスRNAの発現によりSAHHの発現を抑制した形質転換体は、ウイルス抵抗性が増強されていることが示された。本研究で得られた結果は、植物生理学上重要な基礎的知見を与えるとともに、農業上の応用面についても貢献することが期待される。

審査要旨

 本論文は、広く生物に存在している酵素、S-adenosyl-L-homocysteine hydrolase(SAHH)の遺伝子の解析、ならびにその植物における機能解析についての研究結果をまとめたものであり、序論のほか5つの章から成る。

 まず序論においてSAHHについての既報の研究成果を概説したのち、第1章においては、タバコSAHH遺伝子の構造と発現機構の追究結果について述べている。SAHHは、生体内メチル化反応に関与する酵素であるが、生体内メチル化は様々な物質の修飾に関わっていることから、生物の生長・分化の際に重要な役割を果たしているものと考えられる。そこで、SAHHの植物の形態形成における役割を追究する端緒として、タバコの試験管内培養系において花芽形成時発現が誘導される遺伝子に対応するcDNAのスクリーニングを行い、動物より単離されているSAHHと約60%の相同性を持つタンパク質をコードしたcDNAクローンを得た。次に、SAHHのゲノム遺伝子の構造を解明するため、タバコのゲノムライブラリーを対象とし、SAHHcDNAをプローブとしてスクリーニングを行った。得られたゲノム遺伝子にコードされているSAHHのアミノ酸配列はcDNAのものと同一であったが、塩基配列上ではアミノ酸配列の変化がおこらないような変異が50箇所あり、97%の相同性を示した。また、ゲノムDNAのサザン解析の結果、タバコのゲノム中にはSAHH遺伝子は2つ、あるいはそれ以上存在することが示された。SAHH遺伝子の発現に及ぼす植物ホルモンの影響を調べた結果、SAHHmRNA量は、IAAおよびカイネチンにより転写誘導を受けて増加することが確認された。

 第2章においては、SAHH遺伝子のアンチセンスRNAを発現させた形質転換タバコの作出、ならびに変換体における形態変化とDNAメチル化の変化についての追究結果を述べている。植物の形態形成におけるSAHHの役割を推定するために、SAHH遺伝子のアンチセンスRNAを発現させてSAHHレベルを低下させた形質転換体を作出した。形質転換体のうち約半数は、顕著な形態変化を示した。もっとも特徴的な変化は矮化であり、草丈が野生型の1/3〜1/4であるものも出現した。そのほか、葉の形状や色調にも変化が見られ、老化の遅延も観察された。また、雄しべの花弁への変化など、花の形状にも変異が見られた。これら形態変化を起こした形質転換体では、SAHHmRNA量が減少していることがノーザン解析により確認された。さらに形質転換体では、内生サイトカイニンレベルの上昇が見られ、形態変化がサイトカイニンレベルの変化に由来することが示唆された。次に、形質転換体におけるDNAのメチル化の状態を、メチル化感受性制限酵素とタバコゲノム中に存在する繰り返し配列を用いて解析した。その結果、形質転換体において、DNAのメチル化が抑制されていることが確認された。以上の結果に基づき、SAHHがDNAメチル化に直接関与し、それを通じて形態変化に影響を与えることが示唆された。

 第3章ではサイトカイニンとSAHH活性の関係についての追究結果を述べている。すなわち、タバコSAHHcDNAを大腸菌で発現させ、得られた組み替えSAHHを用い、天然に存在するサイトカイニンであるtrans-zeatinとtrans-zeatin ribosideがSAHH活性に与える影響を調べた。その結果、trans-zeatinはSAHH活性にほとんど影響を与えなかったが、trans-zeatin ribosideは部分的にSAHHを不活性化した。その結果、trans-zeatin ribosideがin vitroでSAHHを不活性化することが明かとなったが、SAHHを不活性化するtrans-zeatin ribosideの濃度は生体内におけるそれよりも2〜3オーダー高く、また不活性化がtrans-zeatin ribosideに特異的ではないことから、そのSAHH不活性化作用の生体内での意義についてはさらに追究する必要がある。

 第4章においては、SAHHのアンチセンスRNAを発現させた形質転換タバコにおけるウイルス抵抗性について述べている。SAHH遺伝子のアンチセンスRNAの発現によりSAHHの活性を抑制した形質転換体は、タバコモザイクウイルス、キュウリモザイクウイルス、ポテトウイルスに対する抵抗性を示した。これらのウイルス抵抗性とSAHH遺伝子の発現の抑制には相関関係認められ、ウイルス抵抗性はcap構造のメチル化阻害によるウイルスの複製抑制に起因することが示唆された。一方、増殖のさいcap構造のメチル化を必要としないウイルスにも弱いながらも抵抗性が認められたことから、上記形質転換体におけるウイルス抵抗性には複数の要因が関与している可能性が考えられる。

 第5章においては、研究のまとめと将来の展望について論じている。

 以上要するに本論文において示された研究は、生体内メチル化に関与する重要酵素であるSAHHの高等植物における役割について注目すべき知見をもたらしたものとして評価され、学術上および応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士論文としての価値を有するものと判定した。

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