学位論文要旨



No 213750
著者(漢字) 中山,直樹
著者(英字)
著者(カナ) ナカヤマ,ナオキ
標題(和) ビーグル犬の視覚障害に関する研究
標題(洋)
報告番号 213750
報告番号 乙13750
学位授与日 1998.03.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第13750号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷川,篤彦
 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 助教授 中山,裕之
 東京大学 助教授 辻本,元
内容要旨

 視覚障害については臨床所見,病理形態学的検査に加えて電気生理学的な機能検査が行われている.獣医臨床ならびに動物実験,特に薬物の安全性評価(安全性試験)では視覚障害は,主に眼底検査および病理組織学的検査による形態学的変化として検討されている.しかし,視覚機能の障害程度や,どの様に進行するのかあるいは回復の有無等は,主に症状又は組織像から判断されている.現在,獣医臨床および安全性試験においては電気生理学的視覚機能検査として網膜の機能を評価する網膜電図(Electroretinogram:ERG)および網膜の視細胞から大脳皮質視覚領までの視覚路の機能を評価する視覚誘発電位(Visual evoked potential:VEP)の測定が一部取り入れられているにすぎない.しかもこれらERGおよびVEP測定のための刺激条件は,フラッシュ刺激(ストロボスコープを用いた閃光刺激)の一方法によるもので,視覚機能を十分に評価するに至っていない.そこで本研究では,ビーグル犬を供試し視覚機能を評価するために,フラッシュ刺激によるERG(Flash-Electroretinogram:F-ERG)とVEP(Flash-Visual evoked potential:F-VEP)およびパターンリバーサル刺激(ビデオモニターを用いて格子模様を一定の頻度で反転させる刺激)によるERG(Pattern reversal-Electroretinogram:P-ERG)とVEP(Pattern reversal-Visual evoked potential:P-VEP)を検討した.また,これらの結果を踏まえ,副作用として視覚障害が多く報告されているが,動物実験で再現することが困難で発現機序が不明であるEthambutol(EB)を,特に検出できないと言われているビーグル犬に投与して検討した.

<第1章>F-ERGおよびP-ERGについて

 F-ERGは,7.5〜8.4msecの間に陰性波(a波)および37.2〜38.6msecの間に陽性波(b波)ならびにa波とb波の間に3つの律動様小波(15.5〜16.3,22.1〜22.6および30.1〜30.2msec)が再現性良く記録され,ビーグル犬での測定条件を確立し,正常値を確認した.一方,P-ERGは,網膜内の情報を上位の中枢へ伝達する重要な役割を担う神経節細胞の機能を反映している.しかし,これまで動物にビデオモニター上のパターンを認識させることが困難と考えられ,あまり検討されていなかった.本章では,P-ERGの測定条件および正常値をビーグル犬で初めて検討した.その結果,P-ERGのtransient型は36〜39msecの間に陽性波が,89〜105msecの間に陰性波が,steady-state型は500msecの間に3つのピーク(32〜40,236〜242および440〜450msec)が再現性良く記録され,ビーグル犬での測定条件を確定し,正常値を初めて明らかにした.これらビーグル犬のERGは電気生理学的視覚機能検査として安全性試験に取り入れることが可能であると考えられた.

<第2章>F-VEPおよびP-VEPについて

 F-VEPは,ヒト臨床の場合,光の強度や周波数等の条件に大きく左右されることから,再現性に乏しく臨床診断が難しいと言われている.これに対しパターンリバーサル刺激によるP-VEPは,再現性に優れヒト臨床診断に有用とされている.しかし,これまでパターンリバーサル刺激は,動物にビデオモニター上のパターンを認識させることが困難と考えられあまり検討されていなかった.本章では,ビーグル犬を用いてF-VEPの測定条件および正常値を検討すると供に,P-VEPの測定条件および正常値をビーグル犬で初めて検討し,また,その結果を基にF-VEPとP-VEPの有用性を考察した.その結果,P-VEPは50〜80msecの間に陰性波が再現性良く記録され,ビーグル犬での測定条件を確立し,正常値を初めて明確にした.したがって,ビーグル犬のP-VEPは電気生理学的視覚機能検査として安全性試験に取り入れることが可能であると考えられた.一方,F-VEPは100msec前後の位置に陽性波が記録されたが,再現性が悪く,また,0.6および1.2Jの異なった発光量間での描像に差異が生じたことから,ビーグル犬のF-VEPは発光量等の測定条件に大きく左右されることが確認された.したがって,ヒトと同様に,その有用性には問題があると考えられた.

<第3章>EBによる視覚障害性.

 EBは,1961年に抗結核薬として報告されて以来,その優れた効果により,人体薬として広く臨床で使用されてきた.一方,1962年に本剤服用者18名中8名に視覚障害が認められたことが報告されてから,副作用としての視覚障害に関する報告が相次ぎ,標準的服用量が守られる様になった後もEB服用患者の3%に視覚障害が認められるとの調査結果が出されている.しかし,動物実験ではEBによる視覚障害を検出することは困難で,特にビーグル犬では検出できないとされている.そこでEBをビーグル犬に臨床での投与経路である経口投与を行い視覚障害について検討した.その結果,電気生理学的には,EBを1,000から200mg/kgまで徐々に減量した3ヵ月間の反復経口投与において,P-VEPに頂点潜時の延長および波形の不明瞭化がみられ,休薬による回復性も認められた.一方,F-VEPは波形の再現性が悪く,明確な変化を捉えることができなかった.また,ERGには明らかな変化は認められなかった.したがって,EBによる視覚障害は,P-VEPを測定することによってビーグル犬においても検出可能であると考えられた.

<第4章>EBによる視覚神経障害発生機序

 EBによる視覚障害の発現機序は,SMON病の原因物質であるキノホルムと同様に亜鉛をキレートする作用があることから亜鉛欠乏によるとする説,視神経や坐骨神経等に多く残留することから,直接的に侵襲するとする説.また,RNA合成作用の関与など,種々の報告があるが,未だよく解明されていない.EB投与による電気生理学的視覚機能検査所見もERGに異常を来すとの報告と正常との報告や病理組織学的検査所見においても網膜の神経節細胞層に選択的な障害を認めたとの報告もありさまざまである.本章では第3章の結果から,EBを630mg/kgビーグル犬に反復経口投与し,経時的な電気生理学的視覚機能検査および眼底の観察ならびに網膜,視神経,視索,外側膝状体および大脳皮質視覚領の病理組織学的検査を行い,EBによるビーグル犬の視覚障害を解析した.その結果,EBの反復経口投与により,早期に脈絡膜(タペタム)に亜鉛をキレートした時と同様な色調の変化(退色)が認められた.しかし,この時点では電気生理学的に視覚障害は認められなかった.P-VEPに変化が認められるには,2〜3ヵ月間程度の投与期間が必要であった.また,病理組織学的検査では,EB投与群において,網膜の神経節細胞・神経節細胞層および視神経に軽度な空胞性の変化ならびにP-VEPに変化がみられた動物において,視神経での膠原線維の増加が認められた.以上の電気生理学的視覚機能検査所見および病理組織学的検査所見から,EBによるビーグル犬の視覚障害は,網膜の神経節細胞・神経節細胞層から視神経までを主に障害することに起因し,神経節細胞・神経節細胞層以外の網膜,視交叉,視索,外側膝状体および大脳皮質視覚領への影響は少ないと考えられた.また,網膜の神経節細胞・神経節細胞層に軽度な空胞性の変化が認められたにも関わらず,P-ERGに変化が認められなかったことから,EBが多く残留する視神経が直接的に侵襲され,その後,神経節細胞・神経節細胞層に影響が及んだと推察された.

 以上,本研究によって,これまでビーグル犬では測定できなかったP-ERGおよびP-VEPの測定条件を確立し,その正常値を初めて明らかにした.また,副作用として視覚障害が多く報告されているにもかかわらず,動物実験では検出することが困難とされ,特にビーグル犬では検出できないとされていたEBによる視覚障害を検討した.その結果,ヒトでの薬用量(約25mg/kg/day)の約25倍(630mg/kg)を経口投与した場合,視覚障害が確認された.薬用量の25倍程度は安全性試験において十分確認される投与量であり,本研究において確立された電気生理学的視覚機能検査は,今後の安全性試験に応用可能であると考えられた.また,電気生理学的視覚機能検査所見および病理組織学的検査所見から,発現機序が未だ良く解明されていないEBの視覚障害に関して,ビーグル犬では視神経が直接的に侵襲され,その後,神経節細胞・神経節細胞層に影響が及ぶものと推察された.

審査要旨

 視覚障害の評価は,臨床所見,病理形態学的検査に加えて電気生理学的な機能検査によって行われている。現在,獣医臨床および薬物の安全性試験における電気生理学的視覚機能検査は,網膜の機能を評価する網膜電図(Electroretinogram:ERG)および網膜の視細胞から大脳皮質視覚領までの視覚路の機能を評価する視覚誘発電位(Visual evoked potential:VEP)の測定が一部取り入れられているにすぎない。また、これらERGおよびVEP測定のための刺激条件は,フラッシュ刺激(ストロボスコープを用いた閃光刺激)の一方法によるもので,視覚機能を十分に評価するに至っていない。そこで本研究では,ビーグル犬を供試し,視覚機能をより正確に評価するために,フラッシュ刺激によるERG(Flash-Electroretinogram:F-ERG)とVEP(Flash-Visual evoked potential:F-VEP)およびパターンリバーサル刺激(ビデオモニターを用いて格子模様を一定の頻度で反転させる刺激)によるERG(Pattern reversal-Electroretinogram:P-ERG)とVEP(Pattern reversal-Visual evoked potential:P-VEP)について検討した。また,これらの結果を踏まえ,副作用として視覚障害が多く報告されているが,動物実験で再現することが困難とされ,発現機序が不明である抗結核剤のEthambutol(EB)をビーグル犬に投与して検討した。

 まず,第1章ではF-ERGの測定条件を確立し,基準値を確認した。また,網膜内の情報を上位の中枢へ伝達する神経節細胞の機能を反映しているにも関わらず,これまで動物にビデオモニター上のパターンを認識させることが困難と考えられ,十分検討されていなかったP-ERGの測定条件を確定し,基準値を明らかにした。これらERGは電気生理学的視覚機能検査として,ビーグル犬での安全性試験に取り入れることが可能であると考えられた。

 つぎに,第2章ではF-VEPの測定条件および基準値を検討するとともに,再現性に優れヒト臨床診断に有用とされているにも関わらず,動物ではあまり検討されていなかったP-VEPの測定条件および基準値を検討し,F-VEPとP-VEPの有用性を考察した。その結果,F-VEPは発光量等の測定条件に大きく左右されることが確認され,その有用性には問題があると考えられた。一方,P-VEPは,ヒトと同様な波形が再現性良く記録され,電気生理学的視覚機能検査として,ビーグル犬での安全性試験に取り入れることが可能であると考えられた。

 第3章では第1章2章の結果を踏まえ,EBをヒト臨床での投与経路である経口投与によってビーグル犬に投与した。その結果,P-VEPに頂点潜時の延長および波形の不明瞭化がみられ,休薬により回復することも認められた。したがって,EBによる視覚障害は,P-VEPを測定することによってビーグル犬においても検出可能であると考えられた。

 第4章では前章で認められたEBによる視覚障害の病理発生を検討した。すなわちEBを630mg/kg反復経口投与し,経時的に電気生理学的視覚機能検査および眼底の観察ならびに網膜,視神経,視索,外側膝状体および大脳皮質視覚領の病理組織学的検査を行い検討した。その結果,早期に脈絡膜(タペタム)の色調変化(退色)が認められたが,この時点では電気生理学的に視覚障害は認められず,P-VEPに変化が認められたのは,投与して2〜3ヵ月後のことであった。また,病理組織学的検査では,EB投与群において,網膜の神経節細胞・神経節細胞層および視神経に軽度の空胞性変化ならびに視神経での膠原線維の増加が認められた。したがって,EBによるビーグル犬の視覚障害は,網膜の神経節細胞・神経節細胞層から視神経までを主に障害することに起因するものと考えられた。また,網膜の神経節細胞・神経節細胞層に軽度の空胞性変化が認められたにも関わらず,P-ERGに変化が認められなかったことから,EBが多く残留する視神経が直接的に侵襲され,その後,神経節細胞・神経節細胞層に影響が波及するものと推察された。

 以上本研究によって電気生理学的視覚機能検査法が確定され,また,未だ良く解明されていないEBの視覚障害の病理発生に関して新知見が得られた。これらのことはビーグル犬を用いた薬物の安全性試験の向上に有益であって学問的および応用上高く評価される。よって審査員一同は博士(獣医学)の学位論文に値するものと認めた。

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